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【ベンチャー三国志】Vol.16

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

ソフトバンクADSL事業に進出

(企業家倶楽部2012年12月号掲載)

【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、土橋克寿、相澤英祐

孫正義は満を持して、ADSL 事業に進出、インフラ事業に船出した。しかし、財務担当の北尾吉孝が危惧したように、4年間で2600億円の赤字を出し、資金繰りに苦しんだ。

孫正義、インフラ事業に乗り出す

 アスキーの西和彦が資金繰りで四苦八苦している頃、ライバルのソフトバンクの孫正義もADSL事業に参入して悪戦苦闘していた。

 ADSLというのは非対称デジタル加入者線といい、一般の電話回線(銅線)を使用する上りと下りの速度が非対称な高速デジタル有線通信技術のこと。光ファイバーのように高速ではないが、ブロードバンド(高速、広帯域)時代を切り開く先兵役を果たしていた。

 孫は1990年代後半に米国でADSLのブロードバンドを目の当たりにして衝撃を受け、NTT幹部に「日本でもADSLを急いでほしい」と再三再四頼み込んだ。しかし、NTTの動きは鈍かった。というのは、ダイヤルアップ式に毛のはえたようなISDN(総合デジタル網)を普及中で、同事業の投下資金を回収するまではADSL事業を拡大できないという事情があった。

 同時にADSLは光ファイバーまでのつなぎ技術で将来、光ファイバーを全国に敷きたいと考えているNTTにとっては、出来れば、あまり普及させたくない回線であった。

 しかし、孫正義の危機感は募る一方。「これでは米国、韓国などブロードバンド先進国に後れを取り、ネット後進国になる。NTTがもたもたしているのであれば、ソフトバンクがやる」と言い出したのである。2000年のミレニアム超えの頃である。

 ソフトバンク社内は猛反対した。急先鋒は財務担当常務の北尾吉孝。「孫社長、それは無茶です。通信回線のようなインフラ事業は設備投資が巨額で数千億円単位の赤字が出ます。今のソフトバンクでは持ちこたえられません」

 これに対し、孫は「赤字は覚悟の上だ。日本がネット後進国になるのを黙って見ていることは出来ない。たとえソフトバンクがつぶれようともブロードバンド時代を実現しなければならない。誰がなんと言おうと断固やる」と一歩も引かない。

 激しい議論の末に、2001年6月中旬、ソフトバンクはADSL事業への参入を発表した。

 記者会見には、ヤフー社長の井上雅博を伴って孫正義は自信たっぷりにADSL事業参入の計画を語った。「Yahoo’BB(ヤフー・ビービー)は下りが8Mビット/ 秒、上りが900kビット/秒と日本最速の通信速度。ユーザーの利用料金は月額2280円。これまでの利用料金5000ー6000円の半額以下にします。年内の契約者は100万人。3年後には500万人のユーザーを獲得します。いよいよ日本もブロードバンド時代を迎えます」

 孫正義は大風呂敷を広げた。壇上の井上雅博はにこやかな笑顔を振りまいていたが、楽屋裏での宮内謙、北尾吉孝らは気が気ではなかった。下手をすると、赤字が続き倒産の坂道をころがり落ちるとの恐怖感にさいなまされた。

 ADSL事業はソフトバンクが日本で最初に手がけた事業ではない。日本で最初にADSLサービスを始めたのは東京めたりっく通信である。1999年7月に、東京都内でサービスを始めた。同社はのちにソフトバンクBBに吸収合併されるが、ブロードバンド時代の一番槍をつけたのは東京めたりっく通信社長の小林博昭である。

 ソフトバンクがADSL事業に参入を表明した2001年6月の時点では、NTT東西地域会社が試験的にADSLサービスを始めた段階で、みな小規模、100万単位のユーザーを獲得する大規模業者は存在していなかった。2001年1月の時点では、16194回線しかなかった。

 そこへソフトバンクが殴りこみをかけた。ダイヤルアップ式のネット接続事業者(ISP)は騒然となった。歩兵部隊に戦車隊が突っ込んできたようなものだった。 

 ISPの一つフリービット社長の石田宏樹はソフトバンクのADSL事業参入を昨日のことのように鮮明に憶えている。石田は執務室でソフトバンク参入の第一報を聞いた。「信じられない!」と思った。

フリービットの石田、素人の突進力に揺らぐ

 実は石田は恩師の慶應義塾大学教授、村井純から「ソフトバンクがADSL事業を始めるらしい。君、孫さんにレクチャーしてやってくれ」と頼まれた。さっそく、孫正義に会って、ADSL事業の全体像を説明した。孫正義は理路整然と話す若者が気に入ったらしく、「ところで君の会社は幾らするんだ」といきなり買収話を持ち込んだ。

 そんな対面があって、数ヵ月後にソフトバンクがADSL事業に参入するという。そのスピードに驚いたが、同時に利用料金に度肝を抜かれた。それまでインターネットへの接続料金は月額5000?6000円。それを半額以下の2280円で殴りこみをかける。「素人の恐ろしさ、突破力を見せつけられた」という。

 石田は接続事業、ADSL事業ではプロを自認していた。そのプロの目から見ると、月額2280円は無茶であり、第一、NTTの電話回線を借りるとなると、短期間で数百万単位の回線を確保するのは不可能。「孫さんはNTTの局舎にどの位の空きがあるのか知っているのだろうか」と首をかしげた。

 同時に大学時代に経営学で学んだ教訓を思い起こした。「改革や革命は常に部外者の素人が行う」ということを。自分たちも、素人としてインターネット業界に参入して、既存の業界人がなし得なかったことを成しとげてきた。「その素人の突破力をいつの間にか忘れていた。孫さんが改めて教えてくれた」

 素人の恐ろしさは翌日、現実となって石田を襲った。フリービットのコールセンターが解約の電話が殺到してパンクしたのである。孫正義の破壊力をまざまざと見せつけられた。

 フリービットは2000年5月に石田と副社長の田中伸明で設立した。同社はインターネット接続会社(ISP)にサーバー施設など各種サービスを提供する事業を手がけていた。初年度の2001年4月の売上高約5億円、2年度約15億円、3年度30億円に達し、やっと黒字に転換したところでヤフーBBショックが起きた。解約の殺到でアッという間に売り上げが9億円も減り、赤字経営に転落した。

 当時、フリービットは株式上場を計画し、資金調達をしたばかりであった。外部からスカウトした最高財務責任者(CFO)が絶叫した。「今すぐ会社を解散しましょう!」

 石田もCFOの意見に傾いた。しかし、踏みとどまった。「待て!われわれは何の為にフリービットの旗の下に集まったのか。インターネット革命を成就するためではなかったのか。であるならば、命を懸けて創業の理念に殉じようではないか」。石田は社員一人ひとりを説得した。

 しかし、再生は簡単ではなかった。ビジネスモデルそのものが根底から覆されたため、ビジネスモデルを再構築しなければならなかった。同時に石田の言葉も社員から信じてもらえなかった。多くの同志がフリービットから去って行った。

 そうした逆境の中で、石田は光ファイバー時代の到来を見越して、音声通話サービスやインターネット上に独自のインターネットを仮想的につくるエモーションリンク事業などを地道に整備、2005年後半にやっとトンネルを抜け、月次で黒字転換した。その夜、石田は一人で喜びを噛みしめながら、2年間で髪の半分が白くなった頭をなでた。

千本倖生も被害

 被害者は石田だけではない。イー・アクセスの千本倖生もソフトバンクのADSL参入に翻弄された。京セラの稲盛和夫とともに第二電々(現KDDI)を立ち上げた千本は1999年、イー・アクセスを創業、インターネットプロバイダーとして成功を収めていた。

 そこへ突然、ソフトバンクが参入。千本はソフトバンク参入の日に、利用料金をソフトバンクの水準まで引き下げることを決めた。同時に、新しい利用料金を実現出来るコスト構造を再構築した。社員の給料から取引業者の価格まで全てのコストを洗い直した。「孫さんが新しい利用料金を決めてくれた」と千本はアッケラカンと言った。

 生き残った2社はまだ、いい。中には凄まじい価格競争に耐え切れず、倒産したり、吸収合併された企業も多い。一番槍をつけた東京めたりっく通信はソフトンバンクBBに吸収され、平成電電は2006年に日本テレコム(現ソフトバンクテレコム)に事業譲渡された。

 「ソフトバンクの行く所、草木も生えない」と揶揄されるほど、同社の破壊力は凄まじい。しかし、孫正義もADSL事業では満身創痍となった。

 事業的には、ADSL事業に参入した2002年3月期の経常損益は333億円の赤字、03年3月期1098億円、04年3月期も719億円、2005年3月期452億円と赤字が続き、4年間で2600億円強という膨大な赤字となった。北尾吉孝が危惧した通りの数字となった。

 NTTの“妨害”にも悩まされた。ADSLサービスは電話線を使うため、最終的にはインターネットに接続する際、NTTの承諾が必要。そして物理的には、NTTの電話局に行ってユーザーの電話回線をインターネットに接続しなければならない。

 NTTからすれば、敵に塩を送るようなもので、接続事務や接続作業を出来るだけ遅らせたい。そのため、ある程度の数にまとまらなければ接続しないなど制限をかける。その行為がソフトバンクから見れば、“妨害”に映る。

 孫正義はNTTに乗り込み、接続事務や接続作業を急ぐよう何度も要請したが、一向に改善されない。たまりかねた孫正義は光ファイバーでもNTTの妨害にあっていたので監督官庁の総務省を訪ね、担当課長にこう怒鳴った。

「NTTに作業を急ぐよう命令して下さい。でなければ、私はここでガソリンをかぶって焼身自殺する!」

 孫正義の必死の形相に驚いた課長はNTTに電話を掛け、接続作業を急ぐよう指示した。その結果、NTTもようやく重い腰を上げ、接続作業がスムーズに進むようになった。

 ADSLサービスはソフトバンクが参入したことで急速に普及し始め、2001年1月の時点では16194回線だったものが、2001年12月の時点では152万4348回線と100倍に拡大、2003年12月末には1000万回線を突破した。

 ソフトバンクは2003年3月236万回線、2004年3月400万回線と順調にユーザー数を伸ばし、ピーク時の2007年3月には516万回線に達した。NTTもすぐさまソフトバンクに負けじとユーザー獲得を急ぎ、ソフトバンクに匹敵する回線数を獲得、日本は世界でもトップクラスのブロードバンド先進国となった。

 もし、2001年孫正義が躊躇していたら、日本のブロードバンド化は大幅に遅れ、ネット環境は旧態依然のままであっただろう。孫正義の命懸けの挑戦が今日の先進的なネット環境をもたらしたと言っても過言ではない。

 ソフトバンクの創業30周年の記者会見で「一番苦労したのは何か」という記者団の問いに孫正義は「ADSL事業かな」と答えた。

孫正義、資金繰りに苦しむ

 孫正義を一番悩ましたのは、やはり資金繰りだった。4年間で2600億円の赤字はどんな優良企業といえども窮地に陥る。ましてソフトバンクは新興企業。銀行や財閥系企業のような蓄えもない。

 金庫の底が尽きかかった時に、救世主が現われた。ある外資系金融機関を通じてベルシステム24の増資にからんで、資金調達しないかという案件である。

 ベルシステム24はテレホンサービスの優良企業で2007 年の売上高1165億円、経常利益160億円を達成、社長の園山征夫が率いていた。園山の悩みは情報サービス会社のCSKが親会社で、ベルシステム24の株式を39・2%握っていた。

 CSK創業者の大川功が在命中の時は何の痛痒も感じなかったが、大川功が2001年3月に死去、CSK社長に青園雅紘が就任してから園山と青園の確執が始まった。2004年6月、取締役7名のうち4名、監査役2名の内1名にCSK側の人間を選任するよう株主提案した。そこで、園山は何とかしてCSKの桎梏から逃れたいと思った。

 そこへ、同年7月中旬、ソフトバンクBBのコールセンター取得のための増資話が持ち上がった。増資額は1030億円。増資すると、CSKの出資比率は39・2%から19%に下がり、増資を引き受けるNPIホールディングス(日興プリンシパル・インベスメンツの100%子会社)が51・5%の筆頭株主に躍り出る。

 増資のためには大義名分がいる。そこで浮上してきたのがソフトバンクBBのコールセンター。このコールセンターをベルシステムが500億円で購入、その代わり10年間コールセンターへコールセンター業務を出す。その代わりベルシステムからソフトバンクBBに592億円融資した。この一連のプロジェクトのため、ベルシステム24は計1280億円を資金調達した(うち250億円は自己資金)。

 この1000億円強でソフトバンクは生き返った。このプロジェクトをソフトバンク側で指揮したのが富士銀行からスカウトされた笠井和彦だった。財務といえば、北尾吉孝が決まって登場したのに、ベルシステム24では笠井が活躍した。この頃から孫正義と北尾吉孝に隙間風が吹き始めた。

 その後、園山はNPIホールディングスから社長を解任され、現在は若手ベンチャー企業家の育成に当たっている。ベルシステム24の増資はCSK側が新株発行の差し止めを求めて訴訟を起こすなど、当時は注目を集めた。裁判所は増資を妥当と認めて一件落着した。

 園山、青園は激しい歴史の荒波にもまれ、孫正義は命拾いをして、2006年3月のボーダフォンを買収、兆円企業へと昇っていった。

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