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2013年02月27日

【ベンチャー三国志】vol.18 楽天、インターネットショッピングでデビュー/楽天会長兼社長 三木谷浩史

企業家倶楽部2013年4月号 ベンチャー三国志





日本の情報革命産業を語る上で楽天会長兼社長の三木谷浩史は欠かせない。1997年、インターネットショッピングモール「楽天市場」を開設、日本の小売業界に革命を起こし、地方の中小企業や中小商店を蘇らせた。大手テレビ局TBSの買収を試みたり、最近では経団連を脱退、新経済団体、新経済連盟を設立するなど、既存勢力に真っ向から勝負を挑む。
 

三木谷浩史は孫正義を超えられるか。越えるとすれば、何が必要か。企業家三木谷の実像に迫る。【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、相澤英祐



■97年5月楽天市場オープン

孫正義がNTTとADSL事業で死闘を演じていた時、ヤフーと楽天はADSLの普及によって順調に事業を拡大して行った。スポーツカーが田舎のあぜ道(ナローバンド)を時速30kmでノロノロ走っていたのが、いきなり高速道路(ADSL=ブロードバンド)が建設され、時速150kmで走るようなものだ。
 

 千本倖生(イーアクセス)、石田宏樹(フリービット)らのプロバイダ(インターネット接続事業)が孫正義のADSL進出によって倒産の淵に追い詰められたのとは対照的に孫のADSL進出の恩恵をたっぷり受けたのがヤフーと楽天だった。
 

 ヤフーが恩恵を受けるのはソフトバンクグループの一員だから当然と言える。しかし、楽天はヤフーのライバル。ソフトバンクグループの一部では「楽天に恩恵を与える必要はない」という意見もあった。技術的にはヤフーユーザーはブロードバンドを利用できるが、楽天ユーザーは利用出来ないように仕組むことは可能だったかもしれない。
 

 しかし、孫の「そんな姑息なことはするな。ブロードバンドはすべての人々が享受すべきだ」というひと言で全てのユーザーに解放された。楽天は2000年4月に株式上場、464億円の資金を調達して、次々に同業他社を買収、事業を拡大して行った。そこへ2001年末から本格的なブロードバンド時代に突入、波に乗った。
 

 その意味では楽天社長の三木谷浩史は運のいい男といえる。2000年4月はネットバブルが弾けた月である。同年5月からバブルが弾け、それまで14兆円あったソフトバンクの時価総額は1年後には何と2000億円に縮小した。「10日間だけ天下のトヨタ自動車の時価総額を抜いた」と孫正義は自嘲気味に話した。三木谷はネットバブルがピークに達したときに株式を上場した。しかし、オンザエッヂの資金調達は50億円と楽天の10分の1に過ぎなかった。そして、1 年半後の2001年末にはブロードバンド時代に突入、本格的なインターネットの拡大期を迎える。三木谷は幸運に恵まれた男である。
 

 三木谷は1965年、兵庫県に生まれた。88年4月、一橋大学を卒業して日本興行銀行に入行、93年ハーバード大学でMBA(経営学修士)を取得、興銀の幹部候補として嘱望された。
 

 しかし、三木谷は興銀に残らなかった。米国留学中にアメリカのエリートたちが、会社を起こすのを目の当たりにして、企業家をめざした。1995年1月17日に起きた阪神大震災も三木谷に起業を促した。震災で叔母夫婦を失い、命のはかなさを知り、起業を目指したという。97年2月、エム・ディー・エム(現楽天)を設立、同年5月、インターネットショッピングモール「楽天市場」を開設した。
 

 創業16年経った現在、連結売上高3799億円、経常利益688億円(2011年12月期連結)、社員数7615人、ショッピングモール楽天市場への出店数は4万店近くにのぼっている。ショッピングモールのほか、金融、旅行、電子雑誌など幅広く事業を展開、ヤフーに次ぐポータルサイトに成長した。
 

 こうして見ると、楽天はトントン拍子で事業を拡大したように見えるが、実際は悪戦苦闘の連続だった。

 創業期の楽天をのぞいてみよう。
 

 1996年4月21日。慶応大学大学院生の本城愼之介(のちに取締役副社長)は自分が目標とする日本興業銀行を辞めた人がいると聞いて、東京・恵比寿のマンションの一室を訪ねた。




「就職戦線異状ありまくり」というホームページをつくり、日本で最初に就職活動学生を対象とするメーリングリストをつくった本城は学生の間ではカリスマ的存在だった。
 
「僕は興銀に入って日本に新しい産業をどんどん興すつもりですが、あなたはなぜ辞めてしまったのですか」。24歳の本城は31歳の先輩に尋ねた。
 
「大企業が社会を変えるとか、銀行が産業を興すという考えはもう古いよ。個人とか、ベンチャー企業が新しい事業にチャレンジし、既成事実をどんどんつくっていくことによって社会や経済が発展していく。もうそういう時代なんだよ」と三木谷は答えた。
 
 その活き活きとした目を見、本質をずばりとつく言葉を聞き、ピンとくるものがあった。面接のテクニックなどに気を使う世界とはまるで違っていた。
 
「明日から来いよ。名刺をつくるからな」
 
 あまりに早い展開に戸惑ったが同時に「この人と一緒にやれたらすごいな」と思い、その日から就職活動を止め、三木谷の事務所に通うようになった。
 
 本城の初仕事はパソコン教室の立ち上げと運営だった。最初から最後まで全部自分でやった。
 当時三木谷はコンサルティング事業を営んでいたが、自分自身がプレイヤーとなるビジネスを模索していた。百以上のビジネスを検討した中で天然酵母のパン屋チェーン、地ビールレストランチェーンは有力な候補だったが、96年秋、最終的に選択したのはインターネット・モール事業だった。



■手作業でつくった楽天市場

よりパソコンに詳しい本城がプログラムをつくることになった。といっても経験があるわけでも理系出身でもなかった。1日10万円の家庭教師を5日間つけてもらい、あとは専門書1冊で独学しながらシステムづくりにチャレンジした。
 
 朝9時から夜中の2時、3時まで、ひたすら画面に向かう日々が始まった。電話も鳴らず、キーボードを叩く音だけが響く。三木谷と2人だけの時期が半年近くあった。
「すごく大変でした。複雑な心境。何かを作っている実感はあったけど、それが本当に形になるか、まったくわからない。自分たちの努力が水の泡になるかもしれないという不安とか、ものがなかなかできないという焦りがある一方で、これはものすごいものができるぞという期待、ドキドキ感が入り交じっていました。ただ、すごく楽しいというか、エキサイティングな時間でした」と本城。
 
 三木谷は開発の進捗状況を見ながらビジネスプランを練っていたが、あるとき突然プログラミングの勉強を始め、実際にプログラムをつくって「こんなのつくってみたよ。こんな風にやってみたらどうかな」と、本城に見せたことがある。本城の仕事が進捗せず、自分の時間に少し余裕ができた時に、三木谷のとった行動であった。
「何か問題があったときに、役割分担という枠を超えて、とにかく自分が行動する人なんです。机がないといえば自分で御徒町のディスカウントショップに行って、買ってきたりする。社長だから、ハーバードでMBAを取得したからというのは彼にとっては全然関係ない。自分が今何をすべきか。それがいつも頭の中にある人です」と本城。
 
97年2月エム・ディー・エム(現楽天)を設立。4月にシステムのプロトタイプが完成し、5月に楽天市場が開業した。



■運も実力のうち

「最初にシステムをつくった人間が天才的だったから楽天は成功した。運も実力のうち」
 
 三木谷はその後何度もそう言って、本城の功績を称えている。本城に出会わなかったら、今の楽天市場はなかったと思っているからだ。本城にもその自負はある。
 
 起業して最初に訪ねてきた学生が“天才的”だったとは、三木谷は相当な強運の持ち主である。
 
 役割よりも存在であれ、と本城はよく言う。
 
「会社の中にはいろんな役割がありますけど、役割だけに徹していても、つまんないと思うんですよ。役割は重要ですが、それ以上に山田だったら山田という存在であってほしい。営業部の山田君は確かに営業が得意かもしれないけど、それ以外にもいろいろなことをすると。会社の中で役割を極めるというよりも、存在感を高める方が大事だと思いますので、新人研修ではどういう存在になりたいかという課題を与えています」
 
 本城にとって三木谷は、ボスであり、ビジネスパートナーであり、尊敬できる人であり、親友である。
 
「プライベートのことでも、三木谷に相談することはあります。そういう時はむちゃくちゃ親身になって話を聞いてくれますよ。それから何ごとにも真剣。たとえばボウリングに行っても、真剣に勝負してきます。やるからには絶対に一番になるという人です」と本城。
 
「トヨタ、ホンダ、ソニーみたいな世界企業になりたい」と夢は大きい。そのためにまずインターネットの世界で日本一、世界一を目指す。
 
 次に合流したのが杉原章郎。
 
 三木谷に出会ったのは、楽天が港区愛宕のオフィスに引っ越した日。ある人を介して、新オフィス開設パーティーに呼んでもらい、三木谷に紹介された。
 
「今、コンサルティングをやっているけど、この仕事は、人の会社のために自分の身をすり減らすばかりで広がりがない。消費者に直接影響を及ぼすような仕事をしたい。インターネットビジネスを始めるつもりなんだ」
 
 企業にインターネットツールを販売していた杉原は三木谷の言葉に共感した。最初は会社と会社のつき合いで営業協力などしていたが、97年の年が明け、楽天市場の構想が明らかになった。出店者がブラウザ(ホームページの閲覧ソフト)上で自由にお店をつくれるという画期的なインターネットモール。そのテスト版を見たとき、会社を持つ難しい立場だったが、楽天に身を投じようと決心した。97年2月、楽天設立と同時にメンバーに加わった。
 
 このとき、杉原の会社に身をおいていた小林正忠も合流した。小林は慶大で杉原と同期。大学卒業後大手出版会社に勤めたが2年7カ月で退職。小さな会社で起業のノウハウを学ぼうと杉原の会社に入っていた。
 
 三木谷の妻である下山晴子、開発を担当する増田和悦(チーフエンジニア)が加わり、3カ月後の楽天市場開業を目指す楽天は6人で始まった。営業は三木谷、杉原、小林。開発は本城と増田。総務・経理下山という6人体制はその後約1年続いた。



■眠らない会社

「私たちが一番うれしい瞬間は、サポートをした店舗さんが私たちの仕組みで売り上げが上がり、良かったというメールをもらったとき。それが士気につながります」と小林。
 
 2000年後半頃の楽天の営業社員は約60人。新規開拓チーム、ECコンサルタントチーム、サポートチーム、楽天大学などがこの中に含まれる。 楽天には二つの客がいる。出店者とその店で買物をする消費者である。一般消費者はもちろん大事だが、楽天の営業は月々5万円を払っている出店者の顧客満足度をいかに高めるかが仕事。消費者に直接訴えかけるのでなく、出店者を通してさまざまな企画を行う。
 
 店舗数が増えると、楽天内の店舗間競争が激しくなり、出店のメリットが薄れるという意見もあるが、それ以上に消費者が増えており、1店舗あたりの売り上げも、ぐんぐん伸びている、という。
 
 当時の課題は、本業が忙しくて楽天の方に力を入れられない店舗をどうサポートしたらいいか。どうやる気をもってもらうかだ、と小林は言う。
 
「今日は朝6時に帰って、7時に寝て9時過ぎに会社に来ましたよ」と小林。平均帰宅時間は夜中の2時。寝袋で眠る習慣がついている。
 
「昔から店舗さんが電話をくれるので夜中の2時、3時にサポートしていたんです。だからうちの社員はみんな近所に住んで、自転車で通っている。そうでもしないと、こうはなりませんよ」と小林。
 
 IT社長は一見、スマートでシステム志向型が多いと思われがちだが、楽天は営業型の企業。体育会系企業の典型だった。毎日、改善を積み重さね、いつの間にか先行企業を追い抜く努力型の企業だ。
 
 「ミッキー!」とスタッフは親しみをこめて三木谷をこう呼んだ。「ミッキーがそう言うんだったら仕方ない。皆んなで頑張ろう」。かなり無理なことでも三木谷がこうしようと言えば、部下たちは従った。統率力のあるリーダーだった。
 
 一橋大学時代はテニス部のキャプテンを務めただけあって、統率力は若い時からあった。
 
 創業から数年間は三木谷は営業の陣頭指揮を執った。自ら出店要請に全国を駆けずり回り、一軒一軒中小企業を開拓した。中小企業の経営者に会う前には、事前に腕立て伏せなどをやり、額にうっすら汗をかいて、社長と面談した。そのほうが中小経営者のウケがいいと三木谷なりの計算も働いていた。
 
 毎日遅くまで営業員たちの日報を読んだ。その日報の厚さは数センチにもなった。成績の悪い営業員はすぐさま社長室に呼びつけ、明日からの対策を聞く。「明日は何が何でもお客を取ってこい」とハッパをかけた。
 
 朝礼も成績の悪い営業マンには恐怖である。時には三木谷の怒声が飛ぶ。ある時、若い営業マンが三木谷の怒りを買った。その若い営業マンは前の晩、遅くまで仕事をしていたのだろう。朝礼でついウトウトした。そこを三木谷がちょうど見ていた。
 
 三木谷はつかつかと若い営業マンのところに行くや否やエリ首をつかんで怒鳴った。「朝礼で居眠りするとは弛(たる)んでいる。お前は首だ!」。その時は周囲のとりなしで首をまぬかれたが、結局その営業マンは数年後に辞めて行った。
 
 温和な孫正義も鬼の形相に変わる時がある。06年春、ボーダフォンを買収、携帯電話の新製品発表を前に孫が納入業者を集めて下見をした。ある携帯会社の社員が新製品の内容を説明する。すると急に孫の表情が険しくなった。「コンセプトがなっとらん。やり直し!」。社員は顔面蒼白となった。半年に及ぶ開発期間が水泡に帰した。
 
 ソフトバンクの元社員は少しおどけてこう話す。「孫さんは会議では2つの言葉しか発しません。『ボケ』『アホ』」
 
 ゼロからスタートする創業経営者は鬼の顔と仏の顔の両面を持つ。そういう中では三木谷は品がいい分類だろう。
 
 会社は営業力だけでは成長しない。やはり商品が良くなければ、お客の支持を得られない。楽天がショッピングモールを開設する前に大手商社などが同じショッピングモールをオープンさせていた。しかし、いずれも失敗に終わっていた。出店費用が高すぎて、誰も出店しなかったのだ。
 
 そこで三木谷は1店舗の出店費を月額5万円という破格の値段で売り出したのである。月5万円なら店長の裁量で出店することが出来る。三木谷は人件費やサーバー代を計算して、限界に近い金額を提示した。いわば価格破壊である。
 
 これが功を奏した。地方の商店や中小企業が相次いで出店した。広島県のある米屋は楽天に出店して息を吹き返し、出店8年目で楽天での売り上げは月1000万円を超えたという。



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