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トピックス -企業家倶楽部

2011年06月27日

【ベンチャー三国志】vol.8 孫泰蔵、死に物狂いでヤフー立ち上げ/モビーダジャパンCEO 孫泰蔵

企業家倶楽部2011年8月号 ベンチャー三国志





一国は一人(いちにん)を以って興り、一人を以って亡ぶ。ひとりの英傑の出現によって、企業は生まれ、産業が興り、国が栄える。時は今、第三次産業革命といわれる情報革命を迎えた。大義とロマンを掲げて、世界を疾駆する現代の“蒼き狼”たちの命懸けの戦いを追う。

【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、土橋克寿



■米ヤフーに100億円投資

   SBIホールディングスの独立を追って行くうちに、物語が少し先へ進み過ぎた。時間を前に戻そう。ソフトバンクが株式を上場、資本市場から約5000億円を調達、米国のパソコン関連の出版社、ジフ・デイビス・パブリッシングを2100億円で買収したあたりまで、時計の針を戻す。 

 1995年秋のニューヨーク。孫正義と北尾吉孝はジフ・デイビス社長のエリック・ヒッポーと会食した。新しくオーナーになった孫がヒッポーからジフ・デイビスの事業展開の現状を聞くための会食である。ひと通り事業内容を聞いたところで、孫がヒッポーに尋ねた。

 「ところで、面白いベンチャー企業はありますか」 

 ジフ・デイビスはコンピューター関連の雑誌を幾つか発行している。その一つ「PCマガジン」の編集長がヒッポーに成長株を報告していた。

「あります」

「ほう、何という会社?」

「ヤフーという会社です」

「ヤフー?妙な名前だね。どんな内容の会社?」 

 ヒッポーが説明する。スタンフォード大学の学生2人が創った会社で、インターネット上に生まれているホームページの検索会社という。「ヤフー」というのはガリヴァー旅行記に出て来る愚かな動物のことだ。 

 インターネットの草創期である1990年代前半は世界中でウェブサイト(ホームページ)が次々に生まれているが、パソコンユーザーはどこに、どんなサイトがあるか分からなかった。スタンフォード大学の学生、ジェリー・ヤンとデビット・ファイロは各分野ごとにサイトを分類して、パソコンユーザーに提供したのである。いわば、ウェブサイトの電話帳版だ。 

 このサービスが当たり、全世界から2人のパソコンにアクセスが殺到した。このため、スタンフォード大学の回線がパンクした。調べてみると、2人の研究生のパソコンに世界中からアクセスがあり、パンクしたことが分かった。 

 2人はスタンフォード大学から“追放”され、大学の外で研究するよう命じられ、同大学の回線を使えなくなってしまった。それでも2人は深夜校内に侵入、大学に無断で自分たちのパソコンと大学の回線を結び、再び回線がパンクするという騒動になった。 

 ヒッポーの話を聞いて、孫の動物的勘が働いた。「すぐにもジェリー・ヤンたちに会いたい」とヒッポーに告げ、ニューヨークからシリコンバレーのヤフーに急ぎ飛んだ。1995年の11月のことである。 

 この頃、ヤフーはすでにインターネットの急成長企業として脚光を浴びていた。社員はまだ15人程度と少なかったが、ナスダックへの株式上場も決まり、華々しくデビューする段取りになっていた。そこへ、孫と北尾がおっとり刀で飛び込んだのだ。 

 孫はジェリー・ヤンに会うや否や、インターネットについて矢継ぎ早に質問した。そしてインターネットに対するヤンの強烈な思いを知り、「これは本物」と惚れ込んだ。初対面で意気投合、その場で2億円を投資することを決め、まずは株式の5%を握った。 

 しかし、ここからが孫の真骨頂。ヤフーの成長性を見込んだ孫は年明けの96年1月、ペブルビーチゴルフクラブロッジにヤン、ファイロら5人の幹部を招ねき、株式の3分の1まで増資したいと提案した。金額は100億円、当時としては破格の投資額であった。 

 追加投資の交渉はすんなりとは行かなかった。経営権を奪われることを恐れたヤン、ファイロたちは頑として、追加出資を受け入れなかった。 

 ロッジの一室には真夜中まで煌煌(こうこう)と灯りが燈り、侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論が交わされている。

「先日2億円出資したが、ぜひともヤフーの3分の1の株主になりたいので、増資させてほしい」

「いや、我々は来月には株式上場を予定している。これ以上のお金を必要としていない」

「我が社にとってはインターネットはぜひとも必要な分野だ。価格はいくらでもいい。とにかく株式の3分の1を出資したい」

「我々はお金は要らない。それよりも自由にやりたい。3割をもたれることで経営権を奪われるのはまっぴらご免だ」

「経営をコントロールする気はない。従って経営には一切口出ししない。それよりZDネット、コムデックスなど私が持つグループ会社の総力を挙げて応援する」

 5人の男を前に必死で口説き続ける孫の額には玉のような汗が光っている。 

 片やヤン、ファイロら5人のヤフー幹部は困惑したような目で互いの顔を見つめ合っている。夕方から始まった交渉は既に5時間を経過している。どの顔にも疲労の色が浮かぶ。しかし、ただ一人、孫の目だけは「なんとしても出資したい」という凄まじい執念で爛々と輝いている。 

 この時、孫は3日間の予定でAT&T主催のプロ・アマゴルフトーナメントに出場していた。昼間はゴルフ、夜は必死の説得という超人的なスケジュール。しかし、孫の「なんとしても出資したい」という強烈な願望は肉体の疲れなどものともしない。 

 1日目は物別れに終わってしまったが、今日こそはなんとか落としたい! 

 2日目の交渉も既に5時間が過ぎていた。孫はヤンら5人の目をジッと見つめながらゆっくりと最後の切り札を切った。

「私はクレイジーな男だ。やると決めたら必ずやる。これは我が社が戦略的に決めたことだ。どうしても受けてもらえないなら、ヤフー以外の他の会社に出資するけど、いいね」 

 孫がさらに畳みかける。「今、ヤフーは社員15人だが、100億円を他社に出資することになると、開発要員はいくらでもつぎ込める。その会社がヤフーにいくらかでも影響を与えることになるけど、構わないね」

「ウーン・・・・」。思いがけないとどめの鋭い一刺しにヤンの口からため息が漏れた。居合わせた4人の目にも当惑の色が走る。そして互いに顔を見合わせた。ついにヤンが口を開いた。

「一晩考えさせて欲しい・・・」 

 3日目、孫は意気揚々と交渉のテーブルについた。場所は前日と同じゴルフクラブの孫の部屋。全員ハンバーガーを片手に床に車座になって話し合う。

「本当に経営には口出ししないですね」とヤン。
「約束するよ」と孫。

 ヤンから出された出資の条件一つひとつに丁寧に答える孫の目には喜びが溢れていた。 

 ヤンを見送った後、孫は喜びいさんで深夜パソコンに向かった。まずはマイクロソフトのビル・ゲイツ、オラクルのラリー・エリソン、コンパック・コンピュータのエッカード・ファイファーら親しい人に電子メールを送り、打診した。

「今度、ヤフーに100億円追加出資するが、何にかインターネットで競合するようなことを考えているか?」

 当時のソフトバンクは米国のコンピューター業界にデビューしたばかり。業界の有力者たちに無用な警戒心を与えたくない、という心理が働いた。 

 程なくビル・ゲイツやラリー・エリソンたちから返事があった。「特に競合するものはないのでどうぞ」というもの。この時点では、ビル・ゲイツらはヤフーを過小評価していた。 

 同時に東京にいるソフトバンクの役員陣にもメールで電子稟議を送る。

「3日間かけてやっとヤフーを口説いた。投資額は約100億円。まだ、名もない会社だが、ソフトバンクの将来になくてはならない会社。今回だけは黙って私のわがままを聞いてほしい」 

 驚いたのはソフトバンク本社の役員陣、よくわからないが、社長はまた何かに取り憑かれたようだ・・・。 

 無理もない。この時は創業1年も経たない会社で社員はたったの15 人であった。年商2億円、そして毎月1億円の赤字を出していた。株式上場2年半で時価総額2兆2630億円のお化け企業になろうとは誰れも予想していなかった。孫を除いてはーー。 

 孫は帰国するや否やヤフージャパンの設立に取りかかった。しかも3カ月後の4月には営業開始という号令を発した。その現場責任者として、まだ東京大学の学生だった孫泰蔵(現MOVIDA JAPAN社長)に白羽の矢が立った。



■ヤフー立ち上げ

   孫泰蔵は孫正義より15歳年下の末弟。正義は孫家が極貧の中であえいでいた頃に思春期を迎え、家族を救うため、カリフォルニア大学に留学、ビジネスの種探しに奔走するとともにガムシャラに勉強した。 

 一方、泰蔵は孫家が裕福になった頃に中・高生時代を迎え、東京大学に進学した。そのせいか、正義より性格は温和で、接する者は春風に当たったような心地よさを感じる。 

 正義は自分と違って、比較的ノンビリ屋の泰蔵の行く末が心配になり、「大学を卒業したら、どうするんだ。うち(ソフトバンク)には入れんけんね」と尋ねたことがある。

(誰が入るか)と泰蔵は内心反発したものの、出てくる言葉は「うーん、まだ決めかねている。会社勤めになる気はないが、どんな会社を創るか、日々思案中」とあいまいだった。 

 そこへ、ヤフージャパンの立ち上げの話が湧き上がって来た。正義はたまたま家に現れた泰蔵に聞いた。

「今度、ヤフージャパンを立ち上げる。インターネットに詳しい友だちはおらんか」 

 ヤフーと聞いて、泰蔵は色めき立った。創業者ジェリー・ヤンは日本の学生たちの中でもヒーローだった。ヤフージャパンの立ち上げを手伝えば、憧れのジェリー・ヤンに会えるかもしれない。 

 咄嗟に「いるよ。100人ぐらいは集められる」と大見栄を切った。大風呂敷を広げるのは孫家の遺伝子らしい。

「そうか。来週、ジェリー・ヤンもまじえてキックオフミーティングを開く。友達を連れてお前も出席してくれ」 

 こうして96年1月某日、大学3年生の泰蔵は5人の友人とともにヤフージャパンのキックオフミーティングに出席するハメになった。当時の模様を、泰蔵が「孫家の遺伝子」(角川書店刊)という著書の中で書いているので、内容をかいつまんで紹介しよう。 

 泰蔵の前には正義と憧れのジェリー・ヤンが座っている。ほかにヤフーから来たスタッフ、ソフトバンクの社員が合わせて10人近く席に着いた。

 まず、正義が口を開く。「ヤフージャパンのスタートは4月1日としよう。ジェリー、4月1日までに作るとしたら、どういうふうにやるべきだと思う」と正義がいきなり難題を持ち出した。 

 4月1日まで2カ月余り。いくらなんでも時間がなさ過ぎる。ジェリー・ヤンたちは大学の研究室で2年の歳月を費やして、プログラムを完成させた。それを10分の1の時間で完成させよう、と正義は言っているのだ。 

 ジェリー・ヤンがちょっと困った顔で「何から手を着ければいいのか、僕にもちょっと分からないです」と答えた。会議室はシーンと水を打った静けさになった。数秒後、ジェリー・ヤンはよりによって、泰蔵に視線を投げかけ、「君はどう思う?」と振って来た。 

 動転した泰蔵はたどたどしい英語で、頭に浮かんだアイデアらしきものを話さざるを得なかった。

「僕らがお手伝いできるとすれば、コンピュータの検索情報を日本語にするということですが、とにかく人手を集める事が先決じゃないでしょうか。ネットサーファーを最大限100名ぐらいは集められると思います」。 

 ものの3分ぐらいのスピーチだったが、泰蔵は脇の下にびっしりと汗をかいていた。 

 途端に会場が色めき立った。

「oh!」

「すごいじゃないか!」

「本当か?」 

 どうやら、泰蔵の即興のスピーチはジェリー・ヤンたちの心をつかんだらしい。調子に乗って、泰蔵は質問した。

「コンピュータのサーチエンジンは、何か用意がありますか」

「ないんだよ、君は何か持っていますか」

「僕は持っていませんが、友達に調べさせます」

「今週いっぱいに調べて下さい」

 泰蔵たちはいきなり社員のようにこき使われていることに気がついた。しかし、時すでに遅し。泰蔵と5人の友人はもはや引き返すことができなくなっていた。この時から2カ月、地獄のような日々が待ち構えていた。

 最後に正義がとどめを刺した。

「これからスタートまでの準備を、日数の割り算でやらなきゃいけません。仕事はスピードが勝負。しかもアメリカと日本では簡単に行き来できないので、連絡は全部メールにします。24時間以内に返信すること。返信しなかった人にはペナルティーを課し、ペナルティー3つで罰金5万円。打ち上げパーティーの飲み代にしましょう」


■ヤフー立ち上げ


   ジェリー・ヤンに会いたい一心でキックオフミーティングに参加した泰蔵たちは会議が終わってみると、ヤフージャパン立ち上げチームに組み込まれていた。しかも、中核部隊の役目を背負わされていた。

 泰蔵たちの仕事は、学生たちがサーファーとなり、当時すでに日本にいくつかあったサーチエンジンを使ってホームページを洗い出し、ヤフーのカテゴリーに分類、自分たちでコメントを入れるというものであった。 

 学生アルバイト100名を募集、アルバイトのローテーションを組んだ。ヤフーには「ホットリスト」というデータベースへの登録アプリケーションがあり、登録はその3万件のカテゴリーに埋め込んで行く作業で、当初はアメリカのスタッフが日本語版のホットリストを作ってくれることになっていた。それなら「楽勝だ」と泰蔵たちは安心し切っていた。 

 ところが、そのホットリストの日本語版が2月半ばになっても届かない。そして、登録作業の開始まで余すところ3日という時期、1通のメールが届いた。「すいません、間に合いません。日本語版の翻訳ができませんでした」ーー。泰蔵たちは真っ青になった。作業場を重苦しい空気が支配した。このままでは、折角集めた100人のアルバイトやローテーション表も無駄になる。絶望のどん底で1人の友人が叫んだ。「やるっきゃねえよ。自分たちで作ろう!」。とりあえず、英語版「ホットリスト」を取り寄せ、「エクセル」で日本語版を作るという途方もない作業を開始した。泰蔵も加わり、6人が3日間貫徹で日本語版「ホットリスト」をなんとか完成させた。

 いよいよ学生アルバイト100人を動員して、ホームページの登録作業が始まったが、またもやアクシデントが発生した。バグを取る時間がなかったため、プログラムのあちこちでエラーが発生、登録開始、至急修復のサイクルが延々と続いた。

 「僕たちに用意された部屋が“死体置き場”状態になるのに、時間はかからなかった」と泰蔵は当時を振り返る。15台並ぶパソコンの横にテント村も出現した。

  こうして死闘の結果、データベースへのオートに成功したのが、3月31日のこと。なんとか4月1日のヤフージャパンのオープンにこぎつけた。「やった 」と声が上がり泰蔵たちは肩を組んで男泣きした。100年前、日立製作所の創業者小平浪平たちが初めて国産モーターの製作に成功、「回った、回った!」と男泣きしながらモーターの周囲を回ったシーンに似ている。 

 今、ヤフージャパンは1日のページビュー4億、年間売り上げ2924億円(2011年3月期)、経常利益1602億円(同)と我が国最大のポータルサイトに成長した。ソフトバンクが06年3月、2兆円の巨費を投じてボーダフォンを買収出来たのも、ヤフーというドル箱を持っていたからだ。その意味でヤフー立ち上げに死闘を演じた泰蔵たちの功績は大きい。

 「泰蔵こそはヤフージャパンの創業者だ」と孫正義が弟の労をねぎらうのも、うなづけるような気がする。



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