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2016年02月22日

日本人は「名を惜しむ」つわもの/日本経済新聞社参与 吉村久夫

企業家倶楽部2013年6月号 二十一世紀の日本人 vol.5

子孫のために勲功を

 中世の武士は「名こそ惜しめ」「人は一代、名は末代」と言いながら勇敢に戦った。後世に名を残す立派な武勲を挙げて、子々孫々の繁栄を願ったのである。鎌倉幕府を開いた源頼朝が挙兵した時、味方して討ち死にした89歳の老武者の三浦義明はこう言った。「今老命を武衛(頼朝)に投げうちて、子孫の勲功に募らんと欲す」(『全訳吾妻鏡』新人物往来社)。

 三浦義明のいう勲功とはずばり言って所領である。彼は一族の長として、子供や孫たちを海の向こうの安房へ逃し、一人居城の衣笠城に踏みとどまって、平家方の大軍と戦って戦死したのだった。鎌倉幕府創立後、三浦一族は全国各地に所領を獲得し、北条氏と並ぶ有力御家人となった。

 名誉は実利を伴っていなければならない。中世の武士たちが大事にした「名」は一族郎党とその子孫を養う田畑その他の利権を意味した。武士は事業家だった。田畑を耕し、牧畜を行い、交易にも乗り出すという事業家だった。彼らは公家社会に不満を持ち、自分たち武士のための政権を樹立した。それが鎌倉幕府である。

 武士というつわものたちは、忠義を大事にしたが、その忠義とは観念的なものではなかった。主人が邪魔になれば、下克上を行ったり、他の主人の下へ走ったりした。常に事業家として自立しようとしたのである。そうした自立の動きが南北朝の動乱を呼び、戦国時代へとつながっていったのである。



武士道とはなにか

 1899年、滞米中の新渡戸稲造氏は英語で『武士道』(矢内原忠雄役、岩波文庫)を著した。「日本は宗教教育なしに、どうやって道徳教育を授けるのか」という欧米人の質問に答えるためである。彼は西洋の騎士道と対比しながら、日本の封建制度が生んだ武士道こそ日本の道徳体系であると書いた。その中身を「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」といった項目を挙げて説明した。

 西欧の古典や史実を引用しながら、英語で書かれた『武士道』はたちまち欧米の知識人の注目を浴びた。中でもテオドル・ルーズベルト米大統領はこの本を絶賛して知人に配ったほどだった。彼が日露戦争の講和の仲介を引き受けたのは、同書を読んで感銘を受けたからといわれている。訳者で東大総長だった矢内原忠雄氏は『武士道』の功績は「三軍の将に匹敵するものがある」と述べている。

 『武士道』から百年後、ニュー・スクール大学大学院社会学部教授の池上英子氏がやはり英語で『名誉と順応 サムライ精神の歴史社会学』(森本醇訳、NTT出版)を著した。敗戦後の日本のめざましい経済成長の謎を問われて、それに答えるべくサムライ精神のよってきたる所以を歴史社会学の面から解明して見せたのである。

 池上氏は日本ビジネスの成功の要因として「名誉ある協調」と「名誉ある競争」を挙げ、その背景としてサムライ社会が生み出した「自分の道徳的、行動的決断に責任を持つという名誉文化」を指摘した。彼女は欧米流の近代的個人主義と対比して、日本には名誉個人主義ともいうべき個の確立が見られたと説明した。



主体的に生きる

 武士として生きてきた人が晩年、武士の生きざまについて自分の考えを述べたものに『葉隠』(山本常朝口述、田代陣基筆録、岩波文庫)がある。江戸初期、まだ戦国の余風が残っている頃の武士道の書である。

 『葉隠』といえば有名なのが冒頭の一句「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」である。この一句が軍国主義に利用され、戦死することが名誉となり、ついには特攻隊を生んだ。このため戦後、『葉隠』は軍国主義の書として不当な扱いを受けた。しかし、それは誤解である。

 『葉隠』は「処世の書」であり「人生哲学の書」である。『葉隠』を哲学の書として愛読した三島由紀夫は「哲学書として三大特色を持つ」として、主体的な行動哲学、恋愛哲学、生きた哲学を上げた(『葉隠入門』新潮文庫)。残念ながら、彼は日本の前途を憂うあまり割腹して果てた。

 私は「死ぬ事と見付けたり」は「いつ死んでもいいように、主体的に精一杯、悔いなく生きよ」という意味だと解釈している。『葉隠』は武士たちの志が低くなったことを嘆き、先輩武士の言として「勝ちといふは、味方に勝つことなり。味方に勝つといふは、我に勝つことなり」(成富兵庫)と克己の必要性を訴えている。



切腹は行動の責任

 武士の切腹ーこれは自殺を禁じるキリスト教徒の欧米人には、なんとも野蛮な行為だった。彼らにとってサムライとハラキリは同義語に近いものだった。しかし、彼らの方から切腹を要求したこともあった。一例は大岡昇平氏が小説にも取り上げた堺事件である。

 明治元年(1868年)、堺港で不幸な事件が起きた。上陸した仏兵が乱暴を働いたというので、警備していた土佐藩兵が仏兵16人を殺傷した。怒った仏大使は賠償金はもちろん、殺傷された仏兵と同数の土佐藩兵の切腹を要求した。土佐藩兵は次々と切腹した。11人が済んだ時、たまりかねた仏側が中止を求めた。これが堺事件である。

 武士にとって切腹は責任を取ることだった。武士は主体的に行動するものである。であるなら、己の行動の責任は己れで取るべきである。その責任の取り方の一つが切腹だった。切腹は恥ではなかった。一方的に斬首されることは恥であった。

 切腹という美学を持つ武士の矜持は欧米人にも理解できた。1860年、日米修好通商条約の批准書交換に訪米した使節団は丁髷、裃、袴姿を恥じることなく毅然としていた。その姿をニューヨークのパレードで見た詩人のホイットマンは、感動して詩に書いた。それはニューヨーク・タイムズ紙を飾り、後に詩集『草の葉』に収められた。



文武両道を貫く

 武士は武道の心得があり、切腹する勇気があれば、事足れりということではなかった。幅広い教養が要求された。つまり文である。ひとかどの武士は文武両道に通じていなければならなかった。乃木大将は詩人でもあった。幼少時から道徳を教えられ、四書五経を素読させられた。藩校で合格点を取らなければ、家督の相続が許されない藩もあった。

 江戸時代には義務教育制度はなかったが、教育は充実していた。庶民でも読み書きソロバンは必須であった。庶民の中からも立派な人材が多く輩出した。明治維新は武士だけがやったのではなかった。武士だけだったら日本の近代化は進まなかっただろう。日本資本主義の父といわれる渋沢栄一氏も元は農民の出身だった。

 漢籍の教養を身につけ、かつ武道の心得のある文武両道の若者たちにとっては、西欧の言葉や技術の修得は容易だったようである。日本が植民地にならず、清国、ロシヤを相手に戦うことができたのは「名を惜しみ」「恥を嫌う」文武両道のつわものたちが育っていたためであった。

 しかし、その後の日本は自ら帝国主義の道を後追いし、無謀な戦に走り、下手をすると日本と日本人を歴史から消してしまいかねない惨敗を迎えた。これは西欧化を急ぐあまり、教育が専門家育成に傾き、文武両道の優れたゼネラリストが姿を消したからだ、と指摘されている(勝部真長お茶の水女子大名誉教授「文武両道の思想」、同氏編『山岡鉄舟の武士道』角川ソフィア文庫から)。



P r o f i l e

吉村久夫(よしむら・ひさお)

1935 年、佐賀県生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与 。著書に「この目で見た資本自由化」「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「マスコミ生存の条件」など。



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