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トピックス -ビッグベンチャー

2014年06月27日

環日本海交易の拠点だった/吉村久夫

企業家倶楽部2014年6月号 歴史は挑戦の記録 vol.3


 P r o f i l e

 吉村久夫( よしむら・ひさお)1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「二十一世紀の落とし穴」など。



岩木川は昔の高速道路

 十三湖を造った岩木川は、津軽平野と日本海を結ぶ、今でいえば高速道路でした。岩木川が津軽の物産を日本海へ運ぶ一方で、日本海の物産を津軽に運び入れたのです。その結節点にあったのが十三湖で、交易拠点の「十三湊」を世に送り出したのでした。

 昔は河川が今日の幹線道路だったのです。船舶の方が人馬が足元にも寄れない大きな輸送能力を持っていたせいでもありました。今日の道路や鉄道を頭に置いて、昔の物流地図を描くと間違ってしまいます。当然、時間距離も変わってきます。それに昔は沿岸航路が大変重宝がられました。特に日本海です。北前船の繁盛がよく知られているように、荒波の太平洋航路よりも、比較的波静かな日本海航路がよく利用されました。

 日本海には暖流の対馬海流と寒流の千島海流、リマン海流があります。リマン海流は樺太から南下し、沿海州をたどって朝鮮半島の北東に達します。実は、日本列島沿いに北上する対馬海流は北上するにつれて冷やされ、やがてリマン海流に合流し、アムール川の淡水とまじって南下するのです。つまりは日本海を還流するのです。

 還流する海流に乗って、また季節風を利用して、本州、北海道、樺太、沿海州、朝鮮と行き来することが可能です。人々は古くからそうした海の道を知っていました。このことは十三湊が初めから国内交易と同時に海外交易、つまりは環日本海交易の拠点となるべき役割を担っていたことを意味します。



東北アジア経済圏

 2004年7月、私は招かれて初めて中国の瀋陽(昔の奉天)を訪ねました。「東北アジア科学技術経済合作セミナー」に講師として招かれたのです。当時、中国は温家宝首相や遼寧省の張文岳省長が率先して、中国東北の振興策を打ち出し「東北アジア経済圏」構想を唱えていました。講師は中国、日本、韓国、ロシヤから招かれていました。

 私は「資源と技術の経済回廊」と題してこんな話をしました。「ロシヤや中国東北部には資源があります。日本、韓国には技術があります。人口も合わせれば、米国を上回ります。この資源と技術の回廊をうまく生かせば、世界に冠たる東北アジア経済圏を作り出すことができるでしょう」。今でも夢の構想とは思っていません。

 この時、現地の要人がこういうのを聞きました。「われわれの対岸は札幌なんですよ」。一瞬、変なことをいうなと思いました。第一、瀋陽は海に面していません。近い海は渤海です。しかし、日本海を意識すると、対岸の日本は北海道であり、その中心地である札幌となるらしいのです。私は「回廊」などといいながら、瀋陽の人たちの日本海への実感を理解できないでいたようです。

 所変われば物の見方考え方も変わります。沿海州から見れば、日本の東北、北海道は近いのです。もちろん、樺太はもっと近いのです。ということは、奥津軽や十三湖の人たちにとっては、北海道はもちろんですが、樺太も沿海州も対岸のきわめて近い存在だったということです。



海を渡った縄文人たち

 日本は海に囲まれています。海洋国家です。当然、海洋民族です。先祖は海のあちこちから渡ってきました。子孫たちも海を渡ることを恐れません。渡海先は自分のルーツの地かもしれないのです。だから、古代から日本人は盛んに海を越えて交易してきました。

 十三湊は中世に栄えました。しかし、人は縄文時代から住んでいました。現に縄文時代の遺跡が出ています。それも十三湖北岸の砂丘の下層からです。もちろん、貝塚も発見されています。彼ら縄文人は船を造り、それを使って漁労するだけでなく、海の向こうとの交易にも出掛けて行ったに違いありません。

 ここで青森県が縄文時代に輝いていたことを思い出す必要があります。わが国を代表するような縄文遺跡があります。もっとも有名なのは三内丸山遺跡と亀ヶ岡遺跡でしょう。三内丸山遺跡は縄文前期から中期の大規模な集落跡です。人々は豊かな狩猟生活をしていました。栗の木を栽培したりしていました。

 亀ヶ岡遺跡は岩木川左岸にある縄文晩期の遺跡です。ここから出土する土器は姿が優れているので江戸時代から知られていました。中でも遮光器土偶が有名です。雪めがねかと思われる遮光器をかけた土偶です。この遮光器はイヌイットなど北方民族がかけていたとされています。亀ヶ岡の縄文人たちは北方民族と交流していたのではないでしょうか。

 みちのくの津軽は縄文時代には先進地帯でした。それだけに狩猟中心の生活が長引いたようですが、稲作も意外に早く始まっていました。



三津七湊に認定される

  これまで見てきたように、十三湊は古代以前から活躍してきたはずですが、実際に文書上、日本の主要湊として明記されたのは中世の終わりでした。戦国時代に書かれた『廻船式目』に「三津七湊」の一つとして紹介されているのです。『廻船式目』というのは、全国の廻船業者の商慣習法をまとめたものです。その中で、十三湊が代表的な湊としていわば認定されたのです。

 それによると、三津というのは、伊勢の姉津(安濃津)、博多の宇津、泉州の堺津です。続いて七湊というのは、越前の三国、加賀の本吉(三馬)、能登の輪島、越中の岩瀬、越後の今町(直江)、出羽の秋田、奥州の津軽十三湊です。日本海沿岸沿いに七つの湊が列記されているのです。当時、日本海沿岸航路がいかに盛んだったかを物語っています。

 これに先だって史書に「津軽船」というのが出てきます。14世紀の初め頃の古文書に「関東御免津軽船二十艘」という記事があって、その内の一艘が『大乗院文書』によって、越中の放生津にあったことがわかっているのです。この津軽船はかなり大きな船で、鎌倉幕府によって通行税を免除されていたのです。二十艘は各地の湊にあって、津軽十三湊との交易に従事していたと見られています(国立歴史博物館が行ったフォーラムを編集した『中世都市十三湊と安藤氏』の中の網野善彦氏の基調講演)。

 免税措置を受けた津軽船の話は、とりもなおさず中世十三湊の存在の重要性を雄弁に物語るものでしょう。私は津軽船が十三湊に出入する姿が目に浮かぶような気がします。現地で聞いた話しですが、十三湊に入る船は行く手の向こうにすっくと立つ霞山を目印にし、反対に湊から出る船ははるか彼方に雄大に聳える岩手山を仰ぎながら日本海へ出ていったということです。

 日本海から十三湖に出入りする水戸口は当時は、現在のそれより4キロ南にありました。そこに今も湊神社があります。水戸口が北へ移動したのは土砂が堆積して水路が浅くなったからです。もちろん、十三湖自体の水深も浅くなりました。それでも江戸時代は、弘前藩の後押しもあって、米や木材の積み出し湊として、十三湊はそれなりの役割を果たしました。しかし、中世に活躍した大型の津軽船は出入できません。残念ながら津軽船の時代を再現することはできなくなったのです。



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