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トピックス -企業家倶楽部

2014年10月20日

宝物を運んでくる十三湊/吉村久夫

企業家倶楽部2014年10月号 歴史は挑戦の記録 vol.4


吉村久夫(よしむら・ひさお)

1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「二十一世紀の落とし穴」など。



家康を驚かせた蝦夷錦

 1593年(文禄2年)のことです。太閤秀吉の朝鮮進攻の命で、名護屋城の留守を守っていた徳川家康の所へ、蝦夷の大名の蠣崎慶廣が訪ねてきました。見ると見事な錦の陣羽織をまとっています。家康は欲しくなりました。「それは何という衣だ」と尋ねます。慶廣は「蝦夷錦です」と答えます。そしてその場で蝦夷錦を家康に進呈したと伝えられています。

   蠣崎氏は太閤秀吉によって、当時は蝦夷といっていた北海道の唯一の大名としての地位を認められたばかりでした。ナンバーツーの徳川家康にも認めてもらいたかったでしょう。蝦夷錦は格好の進物となりました。慶廣は家康に対面した後、蝦夷の本拠地の名前を取って姓を松前に改めます。松前氏は参勤交代の度に蝦夷錦を纏いました。

   蝦夷錦は実は蝦夷で織られたものではありませんでした。織られたのは、絹の産地として知られていた中国の蘇州でした。それが高級官僚の官服となって沿海州へもたらされたのです。それというのも、中国政府は沿海州に出先機関を設けていたからです。出先機関の役人たちは雲竜などを刺繍した錦を纏いました。それが蝦夷へ流れてきたのです。

   蝦夷錦は正確には中国錦でした。それが沿海州、樺太を経て蝦夷に流れたのです。つまり蝦夷の人たちが沿海州と交易して入手していたのです。これを山丹交易といいました。山丹人は黒竜江(アムール川)の下流に住む人たちでした。実は、古くは平安時代から、蝦夷錦は日本にもたらされていたようなのです。高僧の袈裟や武将の陣羽織に使われていたらしいのです。



三つの主要交易ルート

   この山丹交易には十三湊も係わっていました。なにしろ十三湊は環日本海交易の拠点だったのですから。十三湊にはこのほかにも二つの主要な交易ルートがありました。一つは津軽海峡の向こうの蝦夷(北海道)との交易です。アイヌの人たちとの定期的な交易が行われていました。いま一つは、いうまでもありませんが、京都、大阪つまり上方との交易です。この三つの交易ルートは互いに物資を融通したり、情報を交換したりする関係にありました。それでこそ環日本海交易なのです。

   津軽は上方の人たちに「みちのく」と呼ばれていましたが、実は津軽海峡の存在によって大きく開かれていた地方でした。そして津軽海峡の向こうから、いろいろと珍しい物資が渡ってきました。それらは上方はもちろん、日本列島の各地に届けられました。例えば昆布です。昆布は上方はもちろん沖縄まで届けられて、人々の食生活を豊かなものにしたのです。その実情は今日でも変わりありません。

   蝦夷からもたらされた食料は昆布のほかに鮭、鰊、鮑などがありました。これまた今日も変わりありません。そのほかには熊皮、熊胆、鷹、ラッコの皮、オットセイの皮、白鳥、鶴、真珠などもありました。樹皮を細かく裂いて織った仕事着のアツシもありました。アツシは和人の漁夫たちにも重宝がられました。

   代わりに津軽から蝦夷に渡って行ったものは鉄製品、米、陶磁器、食器、衣類などでした。アイヌにとって米は貴重なものでした。それから様々な生活用品も彼らの生活を豊かなものにしました。交易とは元々お互いに利便を分かち合うことなのですから。もっとも、江戸時代になると、アイヌ側が不利な交易条件を押し付けられるケースが増えたようです。


三つの主要交易ルート

朝鮮、中国とも交易

   十三湊は大陸と山丹交易に係わっただけではありません。中国そのものとも交易しました。そしてもちろん、手前の隣国である朝鮮とも交易しました。十三湊の遺跡からはおびただしい数の輸入された陶磁器片が姿を現しています。例えば、中国製の白磁や朝鮮製の青磁です。天目茶碗や香炉、硯なども輸入したようです。青玉などの玉類、絹織物なども重宝しました。それに中国の貨幣。中世の日本では宋銭が通用していたのですから。

   では、日本からは何を輸出したのでしょうか。まずは魚介類があります。海鼠、鮑、鱶ひれなどです。これらは古来からの日本の特産品として、中国人に喜ばれてきました。扇、刀剣などもあります。日本製の刀剣は鋭利な武器であると同時に見事な美術品でもありました。皮革類、漆製品、船材なども積み出したようです。

   江戸時代になると、幕府の方針で対外交易のできる港は厳しく制限されました。いわゆる鎖国といわれた状態です。しかし、各藩は密かに貿易に乗り出していました。特に幕末になると、薩摩、長州など討幕の中心勢力になった西国雄藩は密貿易で資金を稼ぎ出していたといわれます。今日の日本は世界に冠たる貿易国ですが、その伝統は古来から受け継がれてきたものだったのです。



京都は東北に魅せられた

   十三湊が入手した物産の中で、貴重なものは京都の朝廷へ献上されました。同時に、貴重な国産品も朝廷へ献上されました。例えば、鷹です。鷹は矢羽になる貴重品です。例えば熊です。皮はもちろん、蜜を吸い込んだ手、薬になる胆も貴重品です。例えば馬です。津軽は駿馬に恵まれていました。さらには金です。金売り吉次の話は有名です。もちろん、昆布はいまや生活にかかせません。鮭その他の魚介類。それに蝦夷錦も忘れるわけにはいきません。

   それやこれやで京都は東北のもたらす富みに魅せられてしまいました。それは大阪も同じことです。公家や僧侶や武士だけに止まりません。商人たちもそうです。とりわけ利に聡い商人たちは、津軽船が物語るように、十三湊に熱い視線を注ぎました。当然、十三湊に支店を設けたいと思います。できれば蝦夷にも直接進出したいところです。

   商人でなくても蝦夷で一旗挙げようという人たちが出てきました。これらの人たちを渡党といいました。出身はまちまちですが、蝦夷を開発して一儲けしたい点では共通していました。彼らは北海道の南部に住み着きました。福山(松前)、江差、函館といった辺りです。後には十二の館ができました。その中から蠣崎氏、後の大名の松前氏が登場してきます。

   そうした動きに先だって古代、大和朝廷は東北に食指をのばしました。その第一弾が阿倍比羅夫の蝦夷征伐です。越の国の豪族で国守だった阿倍比羅夫が658年、水軍180雙を率いて日本海沿岸を北上し、北海道の蝦夷を討ち、さらに樺太から南下してきていたらしい粛慎を平らげたというのです。粛慎が何者かいまひとつはっきりしませんが、『日本書紀』の記述ですから、大筋間違いはないでしょう。

   その後、大和朝廷は幾度も蝦夷征伐を試みますが、なかなかうまくいきません。阿倍比羅夫の征伐から百年後、坂上田村麻呂が出てきて、やっと蝦夷との和平時代が訪れます。とはいえ、坂上田村麻呂の肩書は「征夷大将軍」でした。しかも、この征夷大将軍の名称は幕府が代わる毎に将軍に受け継がれていったのです。

   日本にも米国の西部開拓に似て、東北開拓の時代がありました。騎馬隊もいたのです。しかし、日本の場合は征伐とはいえ、基本は蝦夷と融和することでありました。



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