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1996年08月27日

【ジャストシステム特集】孤軍、日本のパソコンソフト市場を守る  産、官、学の期待を担って急成長/ジャストシステムの強さの秘密

企業家倶楽部1996年9月号 特集第2部


パソコンソフト産業はいまや花形産業にのし上がっているが、実はその歴史は浅くて、若い。そして企業だけでなく、経営者も若い。その中ではジャストシステムの浮川和宣は40代後半で、兄貴株である。産業の黎明期の激烈な競争の中を生き抜いてみると、産業のリーダー格として産・官・学の期待を集めるポジションに立っていた。夫人の初子専務との二人三脚で築いた「ジャスト王国」を振り返ってみよう。

 




カジノの町で世界中に名を馳せるラスベガス。通常の観光客とは違う、いかにもコムデックス関係者と思しき男性が目につく。若くて、エネルギッシュなビジネスマンが足早に行き交う。

 毎年一回、十一月にラスベガスで開催されるコムデックスは世界最大のパソコン関連の展示会である。この展示会で次の時代を担う技術や情報を得んとする若者たちの期待で街が活気に満ちている。

 十一月十八日からの五日間、ラスベガスはコムデックス一色になる。街もホテルも普段の観光客は影をひそめ、二十万人のパソコン、情報関連人口で膨れ上がる。



■ベンチャー企業の代弁者

 九五年春。ジャストシステムの浮川和宣は、経済審議会の中に急きょ設けられた「高度情報通信社会小委員会」のメンバーに選ばれた。座長は三和銀行元頭取の川勝堅二、実質的に取り仕切っているのは国際大学グローコムセンター所長の公文俊平である。二十一世紀の日本の経済社会のキーを握る情報通信インフラを、日本はどのように充実してゆくのか。インターネットを中心に、情報通信の分野では、官民ともに、米国に圧倒的な差をつけられているのではないか。日本の現状は憂慮すべきものがある。

 経済審議会のメンバーとあって、他の委員は通産事務次官OB、大蔵事務次官OB、公立大学の学長や国立大学学部長などのそうそうたる顔触れであるが、平均年齢は六十前後とどうしても高齢になる。四十代の浮川はほぼ最年少のグループである。ことが二十一世紀の問題であり、また、コンピューターや通信をテーマにした委員会であるので、浮川の発言の一つ一つに委員会のメンバーは耳を傾ける。

 浮川が委員会のメンバーになった直接のきっかけは当時、国内のパソコンソフト会社を中心に組織した日本パーソナルコンピュータソフトウェア協会の会長を務めていた事情もある。しかし、その職になくても、二十一世紀の日本の情報産業を語る若手経営者ということになると、浮川以外に適任者は見当たらない。

 これからの産業の中核になると思われるコンピューターソフトウエアの分野は圧倒的に欧米勢が強い。マイクロソフト(日本法人)、ノベル(日本法人)、日本オラクル、SAPジャパンなど、日本国内で販売活動を展開している有力企業は欧米企業のソフト開発会社の日本法人がほとんどである。マイクロソフト会長の古川享、社長の成毛真、ノベル社長の渡辺和也、日本オラクル社長の佐野力、SAPジャパン社長の中根滋と、スターは数々いるが、いずれも米国製品の日本への適用が彼らの任務だ。直接にソフトウエアそのものを開発しているわけではない。

 その中で唯一の例外がジャストシステムだ。日本で開発し、日本で販売する純粋の日本企業である。欧米の企業が活躍する中で頑張る日本企業として応援団が多いのも当然だ。日本の二十一世紀計画に参加してもらう企業としても、まず名前が上がるのはジャストシステムである。情報処理学会の前会長でもあるNEC顧問の水野幸男も「日本には独自のソフトを開発していると誇れるベンチャー企業はジャストシステムしかない」と指摘している。



■期待される地方企業の活力

 単に、日本企業というだけではない。徳島に本拠を置く地方企業であるところも、官庁筋で評判が高い理由である。ネットワーク社会は国際的にも国内的にも距離の壁が克服され、産業や企業には新しい環境が出現する。その典型的な例が徳島に本拠を置いて日本全国を市場にするジャストシステムなのである。

 業績も九二年以降、売り上げで年率三〇%以上の高成長を遂げ、九六年三月期で二百八十一億円に達した。経常利益も売上高利益率で二〇%を超える六十億九千五百万円を記録した。大きな開発投資を続けなければならないソフト企業としては極めて高い収益力である。産業界、官界が成長企業の代表として注目せざるを得ない。

 もっとも、浮川にとっては、これは負担である。経済審議会もまだ、東京・霞ヶ関の官庁街の会議室の一室に委員が全員集まって議論を交わす。そのたびごとに浮川は徳島から東京まで飛行機で飛んで来なくてはならない。「テレビ会議システムを導入して徳島でも参加できるようにしてほしい」と事務局には何度か提案したが、受け入れられる気配はない。将来ありうべき社会と現実とのギャップはまだ大きい。



■二人三脚、夫婦で創業

 ジャストシステムは七九年、徳島市で浮川和宣と初子夫人の二人の会社として、オフィスコンピューターの販売会社として創業した。二人は愛媛大学の先輩後輩で、ともにコンピューターの技術者でもあった。企業としての形を整えたのは八一年。ちょうどパソコンが誕生した時期である。翌八二年には初期の八ビットのパソコンの日本語処理システムを早くも開発している。このころから外向きの営業は社長の浮川、内部での技術開発は専務の初子が分担し、自動車の両輪のようにしてジャストシステムが動き始める。

 さらに八三年には日本語ワープロソフトの開発にも着手し、その年の秋にはNECの十六ビットパソコンである「PCー100」向けのワープロソフトを発売している。国内のパソコン産業のリーダーだったアスキー副社長(当時)の西和彦やパソコンビジネスに意欲を燃やしていた京セラ社長(当時)の稲盛和夫らと取り組んだ意欲的なパソコンだったが、この機種は結局、長続きせずに終わった。

 ジャストシステムをここまで成長させたベストセラーソフト、「一太郎」を発売したのは八五年八月だった。すでに十六ビットパソコンとして猛烈な勢いで市場開拓を始めていたNECのPC9800シリーズ向けである。NECは社長(当時)の関本忠弘、常務(当時)の水野忠男のコンビで全社を挙げての市場開拓に突き進んでいた。この大きな波に、ジャストシステムは巧みに乗った。創業後、わずか六年だ。

 歴史をみると、日本語ワープロの開発はジャストシステムが初めてではない。すでに七〇年代には専用機としては東芝が商品化を終え、富士通やシャープもOA機器の主力商品として販売を始めていた。しかし、初期の専用機はいずれも百万円を超える高級機種がほとんどで、オフィス用の事務機器のジャンルだった。とても個人が購入して使える価格ではなかった。

 そこに八ビットのパソコンが登場したのである。すぐに比較的に廉価なパソコン向けの日本語ワープロソフトが、若い技術者が中心で自然発生的に誕生したベンチャー企業群によって商品化がされ始めた。アイ企画の「文筆」や管理工学研究所の「松」などが全国各地にオープンされたパソコンショップで、飛ぶように売れていた。中にはマンションの一室に若者たちが寝起きして夜昼となくソフト開発作業を続ける「マンションメーカー」もあった。パソコンソフトの産業は産声を上げたばかりだったのである。



■十六ビットへの転換機つかむ

 やがて八ビットパソコンは十六ビット機に移行し、日本語ワープロソフトも十六ビット対応へとシフトするが、技術的には数段、複雑になり、先行していたベンチャー企業も八ビットから十六ビットへのグレードアップに手間取っていた。「一太郎」が販売されたのは、先行各社が十六ビットパソコンの機能を取り込むのに苦労していた時期だった。

 今から振り返れば、タイミングとしては絶好だった。他の日本語ワープロソフトメーカーが八ビットパソコンで築いてきた資産を食いつぶし、先行優位の態勢が崩壊する中で、ジャストシステムは急速にシェアを伸ばしていった。八ビットパソコンでは限界があったさまざまな機能を十六ビット機に盛り込み、ユーザーに新鮮な驚きを与えたからである。「十六ビット機はすごい」。PC9800とともにジャストシステムは急成長する。また9800も「一太郎」とともに成長する。NECとジャストシステムの両輪によって日本のパソコン市場が立ち上がった、と言っても言い過ぎにはなるまい。

 ゲーム以外のパソコンソフトでは日本語ワープロソフトだけが日本のメーカーとしては活躍できる場所である。表計算ソフト、データベース管理ソフトなどのアイデアは米国のソフトウエアのベンチャーが次々と開発し、その日本語版が続々と発売されていた。パソコン技術を習得した若者達も、自分でソフトウエアを開発するよりも手っ取り早く、海外のソフトを輸入して日本語機能を付けて日本市場で販売する道を選んでいった。



■ランキング、独り気を吐く

 パソコンのメッカ、東京・秋葉原のパソコンソフト販売ランキングでは上位十傑のうち七つから八つは米国ベンチャー企業の製品だった。辛うじて日本のソフト会社の製品で食い込むのが日本語ワープロソフトだったが、「一太郎」以外の製品は徐々にシェアを低下させ、ついにランキングから姿を消していった。ゲーム以外の日本のパソコンソフト開発企業としては、辛うじてジャストシステムだけが生き残ったのである。

 ヒットの背景には、機能面での特色のほかに、「一太郎」という商品名も朴訥で好感をもたれたことが指摘できる。アップルコンピュータの「アップル」や「マック」、コモドールの「PET」、あるいはタンディ・ラジオ・シャックの「TRS80」など、米国からどっと初期のパソコンが日本に流入していた。ハードウエアはカタカナやアルファベットが乱れ飛んでいた。パソコン雑誌は米国から直輸入の英語やそれをカナに直しただけの「日本語」がまかり通っていた。そう言えば、NECとシャープが競って販売したパソコンも「PC」や「MZ」などのアルファベットの商品名だった。

 日本で爆発的にヒットし、後に輸出商品の花形になるゲーム用のソフトウエア群も比較的、バタ臭い名前が多く、そうでなければ「信長の野望」など、ぎらぎらした名前がほとんどだった。

 そこに「一太郎」である。地方の香りを色濃く漂わせた「一太郎」という名前の日本語ワープロソフトが現れた。その中で、「一太郎」は賢そうでもあり、呑気な田舎の善人な青年風でもあり、親しみがもてた。急速に広がり始めたパソコン市場の中で、先進的な利用者たちは何か変わったことが起こりそうな予感を抱いたのである。



■パソ協の仲間たち

 当時、ソフトバンク社長の孫正義(後に会長になり再び社長に復帰している)らの音頭で、日本パーソナルコンピュータソフトウェア協会(パソ協)が発足したが、そこには、やたらに地方の企業が目立った。北海道のハドソン、栃木の光栄、大阪のアイ企画など、パソコンソフトの中心は決して東京ではなかった。パソコンソフト会社は全国各地で一斉に花が開いたのである。

 この事情もジャストシステムにはプラスに働いた。ふだんならありがちな地方であることの気後れもここには存在しなかったのである。パソコンソフトの流通という形でパソコンソフト業界のリーダーシップをとったソフトバンクも本社は東京に置かれたものの、孫正義自身は九州の出身で大学は米国カリフォルニア大学と東京との縁はそう深くない。

 地方の企業は東京を過度に意識する。そのころ、パソコンソフト業界の忘年会は東京・六本木のにぎやかなディスコを借り切って開催された。ネクタイなどを着ける参加者は少ない。派手なカウボーイスタイルやカラーシャツなど思い思いの格好である。これまでの産業秩序を破壊するエネルギーに満ちたパソコンソフトの世界そのものの雰囲気である。こうした交流の中でソフトバンクの孫正義らさまざまな交友関係も生まれた。浮川は九〇年六月から六年間にわたり、日本パーソナルコンピュータソフトウェア協会の第四代の会長を務めたが、地方にいながら会長の職務を全うしたのは、こうした華やかな雰囲気を共有した経験が大きいと思われる。

 もっとも、ゴルフの腕も抜群である。やはりゴルフの達人であるソフトバンクの孫とのビジネス面での信頼関係も、ゴルフの付き合いに立脚しているのかもしれない。



■運命決めた「バンドリング」

 「一太郎」の評価はしだいに高まった。八六年正月には日本経済新聞社が主催する「八五年度日経・年間優秀製品賞」に選ばれた。以後、ジャストシステムが発売する図形プロセッサー「花子」、日本語変換ソフト「ATOK7」「ATOK8」がほぼ毎年、日本経済新聞社や日経BP社が主催する新製品賞や「読者が選ぶベスト製品賞」を受賞することになるが、八六年正月が記念すべき、この始まりである。一般社会もようやく、パソコンソフトを重要なビジネス製品として広く顕彰すべき対象として認めるようになったのである。

 さらに、この評価を決定的に高めることになったのは、有力メーカーによるパソコンへのバンドリング(予めパソコンに組み込んで一緒に売る)のソフトとして「一太郎」が選ばれたことだ。

 パソコンは本体を購入しただけでは使えない。コンピューターの動作環境を準備するOS(基本ソフト)と目的の仕事や娯楽を実行するためのアプリケーション(応用)ソフトウエアの双方が一対になって初めて機能する。MS-DOSやOS/2、ウィンドウズなどがOSで、各種のゲームソフトやワープロソフト、会計ソフト、家計簿ソフト、スケジュール管理ソフト、グラフ作成ソフトなどがアプリケーションに当たる。OSもアプリケーションも本体とは別に売られているので、それまでは本体を購入してもすぐにはパソコンを使えず、別途OSとアプリケーションを購入しなければならないのでユーザーの不満は強かった。

 そこで一部のメーカーはユーザーが必ず利用するワープロソフトを一緒に付ける販売促進策を打ち出した。九四年末からのパソコンの熾烈な販売合戦の中で各社は三十種類以上のパソコンソフトを無料で添付したが、その原型は八〇年代後半に始まったのである。その初期の販売合戦の段階で、バンドリングのソフトに採用されたのが人気商品の「一太郎」だった。日立製作所や東芝がいち早くこの促進策を打ち出した。



■群を抜く開発力

 もっとも、ソフト開発は他の製品とは違った販売の難しさがある。パソコン本体の性能が毎年、急速に向上するのに合わせて次々に新しい機能を追加して行かなければ、すぐに後発企業やライバル企業の製品に追いつかれ、追い抜かれてしまう。そこで、ハードウエアの進歩に合わせてソフトウエアの機能を挙げ、新しいアイデアを盛り込んだ新しい版(バージョン)の構想を、開発が終わっていない段階で発表する。開発陣の力量より、市場の要求をくみ取った営業側の意見が優先されるので、どうしても、精一杯背伸びした機能を発表することになる。開発陣は常に徹夜徹夜の作業を強いられる。

 それでも間に合わないケースも度々ある。無理して出荷すれば、今度は重大なプログラムミスが発見されて、市場から回収を余儀なくされる。企業の存続を危うくするような重大な打撃である。「実際、肝を冷やした場面が何度かあった」と浮川も回想し、これを認める。そのたびごとに初子を中心にした技術陣の頑張りで乗り越えてきたのだが、それは乗り越えてきたことによる自信につながるより、開発陣を充実しなければならないという痛切な反省につながる。

 ジャストシステムは、徳島の本社の開発施設だけでなく、八九年に岡山に研究所を開設したのを皮切りに、九一年に松山、九二年に福岡、九五年には東京研究所、基礎研究所と各地に研究開発拠点をオープンしている。膨大にふくらむ開発需要をこなすには、一にも二にも人材である。人材供給が徳島地域に限られれば、開発に必要な頭脳も集まらない。各地に研究所を開設しているのはその人材確保のためである。浮川は「特に東京に事務所を構えることで研究開発の頭脳を集めやすくなった」と指摘する。「いいものをつくるためには人もカネも惜しまない」とある同業のトップはジャストシステムの強さを語る。



■注目される言語処理機能

 しかも、日本語処理機能で培った技術についての需要が意外なところから生まれつつある。世界市場を目指す米国のソフトウエア企業からの期待である。英語圏以外の国の言語をパソコンで取り扱うには、ジャストシステムの日本語処理のノウハウが活用できる。今年五月、ジャストシステムは、ネットワーク・コンピューティングを推進する米オラクルとネットワーク・コンピューターを各国言語に対応させる技術の分野で提携を結んだ。次世代のネットワーク・コンピューティングの市場では、英語圏以外の各国の言語処理のビジネスでジャストシステムの活動の分野は大きく開けている。

 それとともに、ジャストシステムの研究開発の分野はコンピューターの基礎理論の分野まで深まって行かざるを得ない。コンピューター分野の学者で徳島県出身の東京大学教授、武市正人は「浮川初子専務などが積極的に研究分野の援助に動いている。基礎研究にかけるジャストシステムの活動は目をみはるものがある」と話しているが、いまやジャストシステムの活動は日本の産業界だけでなく、学問研究の世界からも期待を寄せられているようだ。基礎研究所の設立などは、地方のベンチャー企業から一歩脱皮して、社会的な存在としてのコンピューター企業へと発展しつつあることを示している。



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