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トピックス -企業家倶楽部

2004年02月27日

街づくりのオンリーワン企業となり後世に残る仕事をしていきたい/アスクプランニングセンター社長 廣崎利洋

企業家倶楽部2004年4月号 アスクプランニングセンター特集第3部 編集長インタビユー


 1973年25歳の若さで兵庫県西宮市に創業。3年あまりで東京進出し、「ビブレ」などの専門店街を提案、「ファッションビル」という新しいコンセプトをつくりだした。88年店頭公開。その後バブル崩壊の影響を、受けながらも耐え、都市再生時代に向けて再躍進を狙う。規模は追わず「高質なオンリーワン企業をめざす」廣崎利洋会長の狙いは、3年後、売上高100億円、経常利益35億円を実現することだ。

(聞き手は本誌編集長 徳永卓三)



商人の感性とオリベッティの体験

問 廣崎さんは一九七三年、二十五歳で創業されましたが、当時それだけの若さで独立するのはめずらしいですね。

廣崎 昭和四十八年、日本列島改造論、脱サラ、消費美徳というキーワードが印象に残っていますね。学生時代はそんなに目立つ人間ではなかったが、心密かに自分の考える通りの人生を歩みたいと思っていました。

問 企業家になる家庭的な環境があつたのですか。

廣崎 実家がスーパーマーケットを経営しており、大阪商人の家に生まれたので幼少の頃から商売にはなじんでおり、年末が一番忙しいことを知っていました。十二月三十一日、サラリーマンの家庭はみんなが一番ゆっくり休んでいる時に、実家では社員がみんな集まってきて、ご苦労さんとやっていました。その光景が目の中に焼きついています。学生時代にはレナウンルックのブティックをつくってくれと言われて、店づくりをしたこともあります。それと、仲間を集めて何かをやりたいという気持ちや野心もありました。兄は家業を継ぎましたが、次男なので自由でした。家業は後に合併してニチイという会社になり、ニチイはマイカルになり、その後更生会社となりました。

問 学生時代はどんなことをしていましたか。

廣崎 軽音楽部でギターとボーカルをしていました。その武器を使ってダンスパーティーを主催して儲けました。それからスキーバスでも稼いだ。学生時代に商売の妙味を知りました。

問 大学卒業後、日本オリベッティというイタリア資本の会社に入社した動機は。

廣崎 学生から見て、あこがれの会社の一つでした。三年間しかいませんでしたが、そこに入ってよかったと思います。日本オリベッティでは、情報化時代の先駆けとしての情報機器を売りました。当時コンピュータと言えばIBMの大型のもの。まだパソコンはなく、タイプライターでシステムつくっていました。ライバルはNCR、バローズという米国の会社でした。ヨーロッパのオリベッティは伝統的な機械式の情報化システムで、ライバルに比べると価格ほ高く、スピードは遅いものでした。では何で勝つか。オリベッティマンで勝つ。オリベッティマンは機械を売るのでなくシステムを売る。具体的にはIBMのコンピュータと組み合わせて、一つのシステムとして売りました。会社からたたき込まれたというより、そうしなければ売れなかったのです。

問 システムをもう少し具体的に言うと。

廣崎 ストラクチャー(構造)、即ち取引の大きな枠組みを作り上げることです。幼少期から体に染みついた商家の体験と、オリベッティで学んだストラクチャーの考え方。この二つが今の私のべースになっています。



26歳からガンガンやってきた

問 創業時から店舗の内装、ディスプレイ業をしたのですか。

廣崎 そうです。

問 内装では乃村工藝社が最大手ですね。

廣崎 乃村工藝社さんはいいものをつくっていますね。われわれはいいものというより、最高の環境をつくることを目的としていますので、ちょっと違うんですね。

問 兵庫県西宮市で創業し、三年目には東京に進出している。

廣崎 一九七四年に法人化し、七七年には横浜のダイヤモンド地下街のデッドスペースを活用し、DC(デザイナーズ・アンド・キャラクター)ブランドのアパレルメーカー六店舗を集めた「ファッションアベニュー・エル」をつくりました。当時はスーパーブランドとかファッションブランドといった言葉もなく、レナウンとかワールドさんがようやく出始めた頃。そんな時代にわれわれが日本のファッション業界でお役に立てたのは、パリコレクション、ニューヨークコレクション、ミラノコレクションのように、東京コレクションを育てようということで、コムデギャルソン、コムサデモードなど六つのアパレルが、自社ブランドの店を全国に展開していくことを装置化していったことです。

問 ニチイ(前マイカル)の専門店街『ビブレ』も御社がつくったそうですね。

廣崎 ダイヤモンド地下街を手がけてから四、五年後ですね。大型スーパーが郊外にどんどん出ていき、都会に中型ビルが残った。それをファッションビルに変えようと、ビブレをつくりました。「ファッションビル」というコンセプトを全国に展開したのがうちなんです。

問 そして創業から十五年後の一九八八年に店頭公開とスピード成長されましたが、創業期はどんな感じでしたか。

廣崎 なにしろ夢中でした。創業メンバー七名のうちオリベッティから三人来ました。私が二十六歳で、あと二十五歳が二人と二十四歳が一人、二十二歳が一人、二十歳が二人といったメンバーだから、平均年齢二十三歳ぐらい。今、考えると、うちの新卒社員より若いかもしれない。そんなときに、ガンガンやってました。初年度から税金を納めてました。だから上場会社になれたのだと思います。二十六歳から仕事を絶やしたことがないです。

問 店舗の内装といった仕事はある程度の信用、伝統、センスなどが問われますが、二十六歳の若手ベンチャーがそれをやり遂げてきたのは立派だと思います。何が御社の一番の武器でしたか。

廣崎 クライアントのニーズを聞いて、それを実現させること。とにかく結果を出すことだと思います。それはいまも変わりません。私にはマーケットに網を張って獲物を捕るといい考え方はあまりないんです。すべて一本釣りなんです。一度縁があり、問題をもらったものに対しては、絶対に答えを出す。そんなことができるかと思うでしょうが、曲がりなりにも三十年はやれてきました。

問 クライアントはかなり勝手な注文も出すと思いますが、それを実現した具体例は。

廣崎 最初の十年で一番大きいのは業態をつくったこと。流通の量販店に専門店の業態を持ち込んだこと。前マイカルグループにビブレといい高収益の生活百貨店をつくったり、あるいはイオングループなら、フォーラスをつくった。異質な業態の開発。いわゆる無を有にする。不可能を可能にする。こういうことをやり続けてきたことです。

問 それは廣崎さんの方から提案したのですか。

廣崎 そうです。これは一番難しいがオンリーワンになれるから一番リターンが大きい。いまだにそのスタンスは変えていません。



都市再生事業をプロデュースする

問 これからはどんなものをつくっていきたいですか。

廣崎 後半の十五年は、バブル経済のすさまじい荒波に翻弄され、不動産の硬直化という問題も起き、成長路線に乗れませんでした。この三十年、われわれは生活者に一番近いところから店づくりをやってきましたが、思えばそのノウハウが、全然生かされていなかった。だからこれまで商業施設の設計、デザイン、プランニングというところで終わっていました。しかし、ここにきて、ようやく不動産は動きだし、戦後の都市づくりが老朽化してきたことと相まって都市再生の動きが起きている。そこにかけて第二創業のつもりで、新しいビジネスを生んでいこうとしています。

問 具体的にはどういうことですか。

廣崎 われわれが培ってきた店舗開発のノウハウに、金融と不動産運用のノウハウをかければもの凄い収益を生み出す新たなビジネスができます。具体的には土地と建物の証券化。証券化は以前から言われているが、土地と建物の価値を高めること(高収益化)に関しては誰もやっていなかった。それはわれわれがやってきたことですから、その機能を金融と不動産ビジネスの中に組み込むことによって、都市再生の事業に関わっていきます。つまりプロジェクト全体をマネージメントする事業がビジネスモデルとして生まれてきた。先ほど申し上げた様に提案をすることで、われわれのビジネスは無限に広がる。これから一挙にいきます。

問 新しいビジネスの具体例は。

廣崎 二〇〇三年の暮れに福岡市博多区中洲にある福岡玉屋百貨店跡の開発主体を不動産ファンド運用のケネディ・ウィルソン・ジャパンにすることに決め、運営主体をわれわれが手がけるための取引を完了しました。二〇〇五年の末にオープン予定です。

問 それは何という名前のプロジェクトですか。

廣崎 仮称ですが「タイムトンネルゲート」と呼んでいます。二十四時間型のショッピングセンターです。玉屋はこれから取り壊され、延床面積一万一千坪の建物に生まれ変わります。博多では一九九九年に玉屋が閉鎖して以来、老朽化した建物が放置され、夜は真っ暗になり、中洲の街がつぶれかかっていた。これを再生するのは、福岡に二つしかない中心部の一つを蘇らせることなので、非常に大きな意味があります。総事業費は百五十から二百億円ぐらいかかります。メインの事業主がケネディ・ウィルソン・ジャパン。その中には投資家も入っており、われわれも投資家の中の一人。自信があるから、自分で投資もしているのです。

問 その中でアスクの役割は。

廣崎 事業全体を代行運営するプロジェクトマネージャーです。おカネは他から入ってきますが、魂の部分はうち以外にないのです。昔のように資本を持っている者が事業の運営をするのでなく、資本と経営を分離するケースが増えてきていますが、そうした意味で運営の部分を私どもがやっているのです。

問 仕事を受けたきっかけはなんですか。

廣崎 玉屋のオーナーから何とかしてくれという話を頂いたのです。

問 大変な事業ですね。

廣崎 それから旧小倉そごうの跡地を再開発した小倉伊勢丹もこの二月十日にオープンしました。ビルの地下一階から六階までに伊勢丹が入り、七階から十四階までが当社が企画した専門店ビルです。二〇〇二年十一月にそごうの管財人から依頼され、約一年で、延べ床面積三万五千坪のビルの上層部に、百二十一の専門店を入れました。

問 福岡、小倉共に大がかりな仕事ですね。

廣崎 だから忙しいのです。その他にもたくさん別の仕事をやっていますから。

問 小倉の総事業費はいくらぐらいですか。

廣崎 これは元々建物はあるものを使っていますが、それでも百二十億円ぐらいはかかっています。

問 ここのプロジェクトマネジメントをやっているわけですね。

廣崎 はい。完成後もわれわれがずっと見ていいきます。よいものをつくるだけでなく、完成後によい運営をしていくことが大事ですから。

問 むしろ後者が難しいかもしれませんね。

廣崎 結婚するのは簡単ですが、日々の生活を持続していく方が難しいですからね。

問 福岡玉屋跡地のプロジェクト案はいつ、どのように決まったのですか。

廣崎 一番最初に話があったのは六、七年前で、田中オーナーとはその頃知り合いました。そして二年ほど前に米投資銀行のバブコック・アンド・ブラウンとの話し合いの中で「私が運営を担当するから、あなたはおカネを担当して、大きなリターンを得たらいい」と、こういう話ができていた。しかし、投資家側からすれば、これから開発していく、まだ形のないものに投資するのですから、倒産から自然災害まであらゆるリスクに備えなければならない。こうしたことに取り組むことで、われわれにとっては大変なノウハウになりました。開発主体はその後、不動産ファンド運用のケネディ・ウィルソン・ジャパンに代わりましたが、外資が開発型の商業施設を買うのは初めてだと思います。すでにある商業施設を買つ例はありますけれどね。外資はこの四、五年、日本の不動産の硬直化を改善する大きな力になりました。日本の会社では絶対にできない投資を、外資が仕組みをつくってやってきた。そのノウハウをもって今、都銀などが徐々に、建物に対するローン、ノンリコースローン(返済を親会社の保証に遡及させずプロジェクトに限定したローン)を行うようになってきましたね。その流れが今、地方に波及しています。これからわれわれのつくったビジネスニーズがマーケットの中に広がります。

問 地方の中核都市を活性化させる動きが今後各地で起きるのですね。

廣崎 その先駆けをわれわれはやりました。このタイプで第一号です。アスクは常にask(問いかけ)して、時代の先取りをしてきた会社です。

問 時代の一番槍をつけるというのが、廣崎さんの信条ですね。

廣崎 ただ本業以外の先取りはことごとく失敗しています。早すぎるんです。研究開発費を出したようなものだと思っています。それでもバブルは超えることができました。バブル経済の崩壊ではずいぶん、金融機関と一緒になって重荷を背負いました。

問 投資に関してはかなり損失を出しているようですが、一番の失敗は何ですか。

廣崎 山ほどあります。製茶業、調剤薬局チェーンなど。人様がつくった会社を買収するよりも、自分でやるほうなんですよ。だから、研究開発費が大変かかります。

問 いろいろなアイデアが浮かんでくるタイプですか。

廣崎 挑戦するタイプです。人が言つてきたことに対して、何らかの手応えを感じたらやる方です。



都市再生で東京は生まれ変わる


問 東京では新丸ビル、六本木ヒルズなど超高層オフィスが次々とオープンする中で、オフィスの供給過剰を懸念する二〇〇三年問題が言われましたが、今はそうした声を聞かない。むしろ、東京の都市再開発から景気を盛り上げる…機運が出ているのではないかと思いますが、どう思われますか。

廣崎 アメリカ、ヨーロッパは不況に向かっている。今、世界の投資家は日本を見ているのではないか。これからですよ。六本木ヒルズ、汐留、品川再開発などを含めてこの四、五年でつくられたものが、商品として動き出すのようになると思います。

問 汐留、品川はすごいですね。

廣崎日本は香港などに比べてもまだまだ都市ができていません。汐留など不動産証券化の条件をクリアしたビルがようやくできてきたので、これからマーケットができていくのです。

問 東京駅周辺にもすごい構想があります。また不動産、再開発ブームがくるのでしょうか。

廣崎 もちろんです。戦後五十年で出来あがった街が疲弊化しているので、今は外資が投資する物件はまだ少ないです。汐留、品川、六本木ヒルズなどがこれからの標準になり、流通市場に出始めて、今のオーナーがどんどん売買し始めたときに日本は一流のマーケットになる。ニューヨークのロックフエラーセンターがいまだに売買されているようにです。ブームというか、すごい市場になる。昔から財産は現金と不動産と株式、金などに分割して保有するのが安全と言われていましたが、不動産が証券化されると土地を丸ごと買えなくても、受益権という形で保有できるようになります。街を歩きながら「あのビルは私が百万円分保有しているものです」とか「今度あの建物を買いますよ」といった会話が頻繁にされるようになるでしょう。その時に、商品を加工できるわれわれの存在は非常に大きな意味を持つのです。

問 不動産証券化の業務には直接携わっているのですか。

廣崎 やりたいと思っています。外資や銀行などは机上の計算でやっていますが、実際のノウハウを持っているわれわれがやれば、もっといいものができると思います。

問 米国の高級百貨店サックス・フィフスアベニュー(五番街)を日本に誘致するそうですね。

廣崎 二〇〇三年十一月に米国サックス社との合弁会社を日本につくりました。アメリカ側から約二割出資してもらい、日本のメンバーを集めて、二年後には第一号店を完成させます。今後十年で十店舗にするつもりです。

問 第一号店はどこにつくるのですか。

廣崎 東京で、場所は選択中です。

問 一店舗の規模は。

廣崎 二千坪から三千坪です。日本の百貨店のようにフルラインではなく、食品などは扱いません。日本人の感覚では百貨店というより、大型専門店ですね。

問 事業費はどれくらいかかりますか。

廣崎 賃貸ですが、トータル的には一つつくると東京で五十億円前後、地方でも三十億円ぐらいかかるでしょう。

問 これもおもしろいですね。

廣崎 まだまだあります。とにかく今は攻撃の時期です。あと何年かでこういう時期は終わってしまうから、早くやっておかないといけない。どうしても商業系をやってきたから、今までファッションのところに入っていく傾向がありましたが、とにかく後世に残せるような仕事をやっていきたい。それが私の仕事だと思っています。

問 いろいろなプロジェクトがスタートすると当然、人材が求められます。その辺の準備はどうですか。

廣崎 私どもの会社に似合う人材は、われわれがつくるのが当たり前ですよね。だから文化が違う人を寄せ集めるのではなく、新卒採用にこだわっています。コストも時間もかかり面倒くさいですが、新卒のいい点は、自分たちの将来に似合う人材をあらかじめ素養を見て採用できることです。欠点は、新卒社員がどうしても年々優秀になるので、上にいる人の方が追いつかなくなること。今までの悩みはそれです。

問 どんなアスクマンをつくりたいど思っていますか。

廣崎 みんなが欲しくなる人材をつくりたい。魅力のある人、好かれる人。爽やかな人。スキルは会社の中で自然に覚えますが、人格はなかなかつくれません。三月からまた、一万人の中から選ばれた二十二名の新卒社員が入ってきますが、楽しみでしょうがない。それだけが生きがいです(笑)。



高質なオンリーワン企業をめざす

問 これからの業績の見通しは。

廣崎 先述したように、ここにきて当社はビジネスモデルが変わりました。三つあります。一つは三十年間やり続けてきたデザイン、プランニングを中心とした店舗づくりで、「スペースプランニング事業」と呼んでいます。それに対して「スペースコンサルティング事業」は、スペースプランニング事業におカネと不動産を掛け合わせたものです。この二つで商業施設を完成させます。完成させた後は、商業施設の運営代行をする「スペースデベロップメント事業」を行う。この新しいビジネスモデルで三年後には単体で売上高百億円、経常利益が三十億円から三十五億円の会社にしたいと思っています。

問 利益率の高い会社はいいですね。

廣崎 われわれは大きい会社を目指しているのでなく、高質なオンリーワン企業をめざしています。顧客に「アスクに頼まないとならない」と言われる存在になりたい。

問 これからはそういう会社が求められるようになると思います。

廣崎 連結で言うと、約二百名の社員で売上高百五十億円ぐらいで十分ではないか。結局、私には仲間をつくりたいという哲学があって、全てそこから来ているのです。収益よりも人材にこだわっている。人材が利益を持ってきてくれる。この人材をどれだけつくれるか。そのように考えており、その装置化をするのが私の役目と考えています。

問 いろいろな子会社をつくっていますね。

廣崎 タスクという会社は高島屋さんの子会社を買ったもので、木工の会社です。良質なものをつくってきた職人さんに興味があったのです。

問 アスクデザイン研究所の役割はどんなことですか。

廣崎 デザインを研究する会社です。大きい会社では合わないけれども、小さい会社では働けるという人材がいます。そういう人たちの場のつもりでつくりました。しかし、こうした枠組みは三十周年を迎えた今、またゼロから見直していき、すべてを生きた会社、強い会社にしていきたいと思っています。

問 アスクニュービジネスマネージメントの役割は。

廣崎 今後はアセットマネジメントをする会社にします。今は他社のファンドを使っていますが、これにより自社のファンドで事業展開できるようにしたいです。外資から「アスクさんにおカネを預けるから全てやってくれ」といった問いかけがものすごくあるのです。

問 海外については。

廣崎上海に上海アスク(上海愛思考建築装飾工程有限公司)という会社をつくっていますが、順調に成長しており、現地でトリプルAの評価をもらっています。中国銀行のVIPフロアの内装も上海アスクが行いましたが、その際、中国銀行のトップがわざわざ私のところまで、あいさつに来てくれました。

問 交友関係がものすごく広いようですが、秘訣はあるのですか。

廣崎 私は人と接点を持ったときにベストを尽くすんです。私と会った人がいつまでも自分を記憶してくれるようにと。だから多分、私は嫌われることは少ないと思います。嫌っている人がいたら、どうしてそんなに嫌いなのと聞きにいきます。向こうが嫌っているなら、こちらも嫌いでいいやと、それですましてしまうことができない人間なのです。「一期一会」を座右の銘としています。

問 創業時から六つの理念にこだわっていますね。

廣崎 ①無を有にする②無限への挑戦③礼儀・礼節④秘密厳守⑤人に迷惑をかけない⑥人に借りをつくらないーです。私はこれを軸に生きています。たとえば⑥でいえば、誰かと食事をするときは、必ず自分がおごるようにするとか。けれどもどうしても逆になってしまうときもありますよね。そういうときは倍返しをすると。逆に言えば、やることはそれぐらいしかないんですよ。

問毎年、全社でスポーツ大会を行い、自ら活躍しておられる。スポーツが得意のようですね。

廣崎 創業の翌年からずっと本格的なスポーツ大会を続けてきました。本社で面接して採用する人は野球かサッカーかバスケットをしていた人がほとんどです。野球ではまだ私がエースとして完投しています。六年前の大会では星野仙一さんと投げ合いました。その時は彼が最後に私の球を打ち、二対一で負けました。星野さんとは同い年ですが、球は私の方が速かったですよ。

問 ルマン24時間レースのスポンサーもやったそうですね。

廣崎 一度だけやった。「これは人間として、違う世界を見るよ」とある人に言われて、一度だけやりました。

問 どんな世界があるのですか。

廣崎 リスクを払わないで観客としてレースを見るのと、自分がその一部を仕切っている立場でレースを見るのとでは全然違います。

問 夢は何でしょう。

廣崎 三十年やってきましたが、いろいろなことをやり残しすぎています。それを全部やり遂げたい。それは夢というより義務だと思う。三十年間、何をしていたんだと思うけれどもバブルの崩壊で一時、どん底に落ちたから。あと三年で仕上げたい。それが務めです。それをしたら、何か一つ小さいものをつくりたい。夢はそれから考えます。



廣崎利洋(ひろさきとしひろ)

1947年神戸市生まれ。70年、甲南大学経営学部卒業後、日本オリベッティ入社。トップセールスの実績を上げる。73年、アスクプランニングセンター創立。商業施設のデザイン・内装事業を始める。旧ニチイに専門店街『ビブレ』を提案するなど活躍。88年、ジャスダック市場に上場。バブル崩壊の打撃にも耐え、再び盛り上がってきた「都市再生」の機運に乗り、第二創業へ意欲を燃やす。スポーツ万能。



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