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トピックス -企業家倶楽部

2014年11月17日

義憤を持った勇士とならん/イー・アクセス元取締役名誉会長 千本倖生

企業家倶楽部2014年12月号 ベンチャー・リポート


9月9日、通信の自由化30 年を振り返り、第二電電(現KDDI)の創業時、最高技術責任者として参画した千本倖生を囲む会が行われた。千本は記念講演の壇上に立ち、京セラの稲盛和夫、ソニーの盛田昭夫との創業秘話を明かした。インターネット総合研究所社長の藤原洋を始めとした千本ゆかりの名士も集い、千本の人物像、日本の若きベンチャーへの期待などを語った。

(文中敬称略)

 




「君も起業してみろ。起業したら外国に別荘が持てるよ」10年程前、元NECアメリカ社長の日比野は仕事でクライストチャーチに訪れたとき、偶然出会った千本に言われた言葉を回想する。千本は「人生に一度ぐらい起業してみろ」と人に勧めることがあるのだという。それは勿論、自らが数々の会社を立ち上げてきた生粋の企業家だからだ。

 千本は1966年に後のNTTとなる日本電信電話公社(以下、電電公社)に入社。84年には稲盛和夫と共に第二電電を立ち上げた。さらに99年にイー・アクセスを創業。わずか5年で東証1部に上場を果たすと、子会社のイー・モバイルを始める。通信の自由化、携帯電話サービス、モバイルブロードバンドが今日、ここまで当たり前になったのは千本の功績と言っても過言ではない。通信業界で大きな足跡を残した千本。彼の起業物語を振り返り、今でも通じる経営者のあり方を探ってみよう。



「ドクター合理化」との出会い

1952年、電電公社は「すぐ繋がる電話の普及」をミッションに、公共企業体としてスタートした。しかし、80年代に入りその目標を達成した途端、同社は転じて保守化、自壊し始める。これを食い止めようとしたのが、中曽根内閣のもとでの電電公社の民営化であった。

 
 80年代といえば旧ソ連で行われたペレストロイカが印象的である。「全体主義の計画経済はうまくいかない」という風潮の中、国の体制は自由主義至上経済へと動いていた。その中で起こったのが、公共事業の民営化による企業の競争政策である。そのターゲットとなったのが国鉄と電電公社だった。

 中曽根が送り込んだ刺客は後に「ドクター合理化」の異名をとる真藤恒。真藤は播磨造船所の社長だったが、同社出身で経団連会長だった土光敏夫に請われ、電電総裁に就任する運びとなった。これに対し当時の電電公社社員は「造船をやっていた人が電電のようなハイテク企業に来て改革なんてできるものか」と猛反発。

 しかし千本はこの真藤との出会いを「真藤との出会いが無ければ今の自分もKDDIもない」と印象深く語る。

 千本にこう言わしめる真藤の改革は実際的だ。民営化以前の電電公社総裁による地方視察とは、空港や駅に降り立てば豪華絢爛な赤い絨毯を広げられるような出迎えを受けるもので、世間からも冷たい視線を浴びていた。そこで、真藤はまずはこの既得権益化していた組織体質を廃止。地方の現場の課長と食事を交え何時間も語り合い、現場の社員から支持を得ていく。その結果、真藤の登場からわずか一年で電電公社は劇的に変化する。

 この変化を目の当たりにした千本は「自分も通信の自由化に参加したい」と第二電電創設に向けて動き出す。



千本倖生、電電公社を脱藩

 千本は創業のパートナーを見つけるべく、京都に経営者を30人ほど集め、日本の情報化に関する講演を開いた。講演が終わって息つぐ間も無く話し掛けて来たのが京セラの稲盛和夫だった。「俺は京セラが潰れるリスクを背負ってでも君と第二電電を起こすぞという覚悟を決めた。だから、電電公社を辞めて2人で一緒に起業しよう」

 今でこそ日本航空の再建で有名な稲盛も30年前は誰もが知っている人物という訳ではなかった。しかし、千本は「ファインセラミックという得意分野で年間1000億の売上を出しているこの人物とならばNTTと健全な競争ができる」と確信した。稲盛の熱い言葉に勇気付けられた千本は、第二電電設定のため、会社を飛び出す決意を固めた。

「電電公社を退社し、そこに挑戦しようなどと社内の誰も思っていませんでした。脱藩浪人のようになろうとも、通信の自由化に向けて動いた千本さんは勇気ある企業家といえるでしょう」と千本の電電公社時代の良きライバルである、東京大学名誉教授の青山友紀もこの決断に賛辞を贈る。


千本倖生、電電公社を脱藩

第二電電、社名は変えず

 こうしてできた第二電電。今でも千本が忘れることのできない創業秘話がある。第二電電の創業経営陣には千本や稲盛以外にもソニーの盛田、セコムの飯田亮と、後に伝説となる若手経営者たちがずらり。

 さて、社名はマーケティングの基本。千本は第二電電などという泥臭い社名ではいけないと思い至った。

 錚々たるメンバーの揃う取締役会で、千本は早速口火を切った。「第二電電の会社名は横文字の格好いい名前にしましょう」

 すると、間髪入れずに反論した男がいた。「社名はそのままでいい。第二電電といえば子供やお年寄りにも何をしている会社か分かってもらえる。この際、泥臭さが残るのは諦めなさい(笑)」

 そう助言したのはかのウォークマンの名付け親にもなった盛田だった。千本は当時盛田を先進的な経営者と捉えていたため、古くからあるイメージを残そうと提案したのは意外だと感じた。しかしそれ以上に、千本は利用者目線を忘れてしまっていたことを反省させられたという。



勃発、ADSL戦争

「通信の自由化は千本さんと稲盛さんを中心にした取締役たちの人間力によって競争力を持つようになりました」と、インターネット総合研究所社長の藤原は第二電電をこう評する。第二電電とNTTの競争もさることながら、その後のイー・アクセスでの競争はあの大物との人間力のせめぎ合いであった。

 1999年、57歳と常人ならそろそろ引退を考える頃、千本は第二の創業であるイー・アクセスを立ち上げた。「世界で一番速くて安いADSLを創る」という大志を掲げ、米国に渡り、ゴールドマン・サックスといった投資銀行からの機関銃のような質問攻めを突破し、100億程の資金を集めた。

 その甲斐もあってか2004年、イー・アクセスは月額5000円でADSLインターネットブロードバンドの開始を前に、社員一同でこのビジネスの成功を確信し、意気込みを新たにしていた。

 そのような中で、ついにあの驚天動地の事件が起こる。孫正義がヤフーBBを担ぎ、月額2300円の錦の御旗を掲げ、突如としてADSL市場に大挙して押し寄せたのだ。

 社員は「これだけの価格差をつけられては太刀打ちできない」と顔面蒼白。「イー・アクセスはもう倒産するだろう」と誰もが凍り付いていた。千本は社長として一晩考え続け、翌日、社員に向けてこう語った。「孫さんの参入によってマーケットが3倍に膨れた。これは通信業界にとって素晴らしいことだ。我々は孫さんの提案する金額に対してどれだけ安くできるか、1ヶ月で全てのビジネスプランを見直そう」

 会社が潰れそうな時こそ、トップは動じず、社員に明るい方向を示して原因の根本となるものを見直さなければならない。そう考えた千本は、危機的状況でも毅然と力強く激励することができた。

 その言葉を背に、社員は死に物狂いに奮起。それからの1ヶ月というものイー・アクセスは管理費、営業費からコストダウンを徹底した。その甲斐あって、顧客も増えマーケットは成長。半年で黒字化を果たし、翌2005年に上場を果たした。



好敵手、孫正義と合従連衡

 イー・アクセスで成功を収めた千本は2005年、62歳で第三の起業に取り掛かる。「ADSLの次は光通信だ」と言われていた時代。しかし、千本はこの時すでにモバイルインターネットの時代の到来を見越し、これに全力を注ぎ始める。

 当時は通信のための周波数を変えることは困難だったが、千本はブロードバンドが携帯電話でも可能になることを総務省に再三に渡り説得し、12年ぶりに新しい周波数が認められた。しかし、それでもこの変更には4000億円の資金が必要だった。

 かつてNTTドコモでiモードを始めとしたサービスを立ち上げた夏野剛は「起業の際、日本ではアメリカよりも資金集めで苦労する」と指摘する。しかも千本の会社は立ち上げたばかり。「こうなったらベンチャーでも投資してくれるアメリカで集めるしかない」と千本はアメリカの投資銀行で、これからはモバイルブロードバンドの時代が来ると訴え続けた。

 そんな交渉の最中、東日本大震災が起こり、「大災害が起きている国に投資しても大丈夫だろうか」と投資に後ろ向きの声もあった。そのような事業の必要性・将来性ではなく目先の状況にばかり関心を持つ態度に、千本は義憤に駆られる。説得はますます熱気を帯び、結果としては一層投資銀行と千本との結びつきは強くなっていった。こうして念願の4000億円の調達を成し遂げる。

 2012年、千本はイー・モバイルでの自分の任務はここまでと区切りを付け、会社を売ることを決意する。当然、多数のオファーが入ったが、その中から選んだのはかつてのライバルであった孫正義だった。「孫は最初に大風呂敷を広げ、それをクリアし続けることで次のステージに進む男だ」

 千本は孫が一歩一歩進化していく力を「孫さんの脱皮力」と評価する。

 今年3月に同社会長を退任。通信大手3社の全てに深く関わった千本の半生は通信の歴史そのものであった。



日本から世界に冠たるベンチャーを

「日本にグーグルやテスラモーターズのような世界に冠たるメガベンチャーを創るにはシニアが若い人を支援することが重要です」こう語るのはソニー元社長、出井伸之だ。現在、出井はクオンタム・リープという企業支援を行う会社を設立。今年2月にシリコンバレーに赴いたが、現地では元気な企業家が溢れていたという。しかしそこで問題になるのはやはり資金。若いベンチャー企業家ならではの悩みがビジネスの足かせになっていると気付いた。そこで出井は千本を筆頭にかつて成功を収めてきた創業経営者たちに若き企業家たちの支援を呼びかけている。

「イノベーションを起こす人間の動機は私憤ではなく義憤だ」

 社会のシステムに疑問を投げかけ、ビジネスで世の中を変える。千本も多くの失敗を重ねてきたが、それでも周囲のサポートを得られたのは千本の義憤の念への共感だったという。

 イー・アクセス時代にアメリカで資金集めをしていたとき、千本はゴールドマン・サックスの経営者から「世の中には3種類の人間がいる」という話を耳にした。

1.物事の変化に対して何が起こっているのか理解ができない人

2.何が起こっているのか分析し理解ができるが行動に移さない人

3.物事の変化を理解した上で事を起こす人

 3に該当する人間をメイクイットハプン(make it happened)の人と呼び、人類の発展に最も貢献している人間だと言う。義憤を持って行動する千本もこのタイプと言っていいだろう。

「世の中の変化を理解するだけで終わってはいけない。メイクイットハプンの人になって世界に出ていけるようなメガベンチャーを立ち上げてください」

 3度の起業を成功させ、日本の通信業界に一石を投じ続けた千本。会長職を辞してもなお、その功績は生活の中で息づいている。



PROFILE

1966年京都大学工学部電子学科卒業。日本電信電話公社(現NTT)を経て、84年第二電電(現KDDI)を共同創業。96年慶應義塾大学経営大学院教授。99年イー・アクセス、05年イー・モバイルを創業し、会長兼CEOに就任。07年イー・アクセス取締役会長、10年同社代表取締役会長、13年同社取締役名誉会長に就任。14年同社取締役名誉会長を退任。

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