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トピックス -企業家倶楽部

2003年02月27日

【フルキャスト特集】「若者応援企業」として 雇用就業の生涯パートナーでありたい/フルキャスト社長 平野岳史

企業家倶楽部2003年4月号 特集第3部 編集長インタビュー


25歳でサラリーマンを辞め、家庭教師派遣の会社を創業。その後4000人の学生データを活かして軽作業の請負業に転換し、以来飛躍的な成長を続ける。就業形態多様化の波に乗り、きめ細やかなサービスで雇う側・働く側双方の満足をめざす。「人を大切にする仕組み」にこだわる平野岳史氏は、「若者が中高年を経て老年に至るまで生涯のパートナーでありたい」と、人材サービス業界に新しい価値観を創出している。

(聞き手は本誌編集長 徳永卓三)



18歳から企業家を目指していた

問 まず創業のあたりからお聞きしたいのですが、初めは家庭教師の派遣事業から始めたのですよね。

平野 はい。二十五歳の時に会社をやめて自分で始めました。もともと十八歳ぐらいから自分で何か事業を興したいと思っていて、チャンスをうかがっていました。しかし大学時代、一緒にやろうと言っていた仲間たちが卒業間際になると「やっぱり就職するよ」と言って一人減り二人減り、結局は一人きりになってしまった。そこで私もとりあえず三年間は社会勉強のつもりで働こうと決めました。

問 企業家になろうと思ったきっかけは何でしょうか。

平野 私は母子家庭で育ったので、欲しいものが買えなかったし、母親も苦労していた。その影響で「絶対金持ちになってやるんだ」という思いがありました。企業家もしくはスポーツ選手でもよかったのですが。聞こえ良く言うなら「母親に楽をさせたい」ということになるのでしょうが、どちらかと言えば自己顕示欲が人よりも強かったのだと思います。自分自身をアピールできるのは何なのかずっと考えていたのです。

問 二十数年前はそのようなことを考える青年は非常に珍しかったでしょうね。

平野 少なかったと思いますね。

問 三年間会社勤めをし、三百万円の資本金を集めて、まず家庭教師の派遣業を始めたわけですね。

平野 今考えるとよくあんな無茶をしたなと思います。会社に入るときに三つの目標がありました。一つは何の事業で成功するかアイデアを考えること。二つ目は自分に資金を投資してくれる人を見つけること。三つ目は自分と一緒に仕事をやってくれる仲間を見つけること。しかし具体的なアイデアがあったわけではないし、ましてや二十五歳のアイデアもない若造にお金を出してくれる人もいない。結局果たせたのは三つ目の仲間だけでした。一年に百万円ずつ貯めた三百万円の元手と、「一緒にやってもいいですよ」と言ってくれた仲間と後輩、その二つだけを持って会社を先に辞めてしまったのです。その後すぐにまず企画書を書こうとしました。けれども自分はそれまで営業しかしておらず、企画書なんて書いたことがない。しかもだんだんと起きる時間が遅くなって、しまいには起きると『笑っていいとも!』をやっていた(笑)。「これではただのプータローではないか」と愕然としましたね。

問 それでどうされましたか。

平野 もう一度就職するのは悔しいし、考えてもしょうがないので、一度に四つぐらいアルバイトの掛け持ちを始めました。朝六時からゴルフ場で球拾いのアルバイト。これはタダで打てるからもしかしたらプロゴルファーになれるのじゃないかと真剣に思っていました(笑)。午後からは住宅リフォームとガソリンスタンドのチラシ配りのアルバイトを。両方のチラシを持って営業しながら配っていました。夕方六時からは家庭教師センターのテレフォンアポインターのアルバイトを学生に混じってしました。学生よりは営業経験があってうまかったので、ものの一カ月もしないうちに「アポインターじゃもったいないから営業に出なさいよ」と言われて、お客様のところに行って契約を取ってくる仕事を始めました。「家庭教師の派遣事業は意外と簡単に出来るのだな」と思い、その三ヵ月後ぐらいに自分で派遣センターをやろうと決めました。

問 これが初めての会社になるわけですね。

平野 最初は個人事業でした。自分の部屋に電話を一本引っ張って、「神奈川進学研究会」という名前を付けた。そして学生は自分の後輩や前の家庭教師センターに登録していた人間に声をかけ、営業先は自分でテレアポして見つけて。そのような形で細々と始めたのが、一番初めの創業です。



ひょうたんから駒で 新ビジネスの鉱脈を発見

問 それが現在のフルキャストに転換していくきっかけは。

平野 家庭教師センターの初年度の売り上げは約三千万円ぐらいでした。二年目が四千五百万円ぐらい、五年目には売り上げで一億円強、利益で一千万円ぐらいの会社になりました。社員は四、五名いて、給料は月五十万円ぐらいとり、食うには困らなくなったのです。しかし、どこか疎外感があった。さらに「自分は本当にこの程度の規模で満足なのか」という疑問もあり、そのころからもっと大きく飛躍出来る事業ができないだろうかと考え始めました。当時の私たちの強みは四千人の学生のネットワークでした。その四千人の登録者をいかにうまく活用するか。最初はこの学生たちに何かものを買ってもらおうと考えていた。まず始めたのは学生向けの旅行企画。もう一つは学生保険の販売。これがことごとく失敗しました。お金のない人にものを売ろうとしていたわけです。学生はお金がない、だったら家庭教師でなくても働くだろうと考えたのが今のフルキャスト事業です。登録者が四千人といっても、家庭教師の派遣先は四百件しかなく、十人に一人しか派遣が出来ない。あと九人は余っている。じゃあ残っている三千六百人を生かせる事業を考えようと。すると学生ですからできる仕事は限られてくる。引越しのアシスタントや倉庫の作業など、時間が空いている時だけやれるような仕事でないといけなかった。そんな仕事を探していいる、知り合いの運送会社の社長さんに「だったら二、三人使ってやるからよこしてくれよ」と言われました。

問 それが鉱脈にぶつかったような感じだったのですね。

平野 ひょうたんから駒ですよね。よく私は「今までの日本にないビジネスモデルの業態で…」などと偉そうに言っていますが、それはあとづけの理由です(笑)。何とか大きくしたくていろいろなことをやって失敗し、もがいているうちに見つけ出したのです。

問 その事業は初年度どれくらいの売り上げだったのですか。

平野 初年度から二億六千万円まで行きました。七月から始めてまず百五十万円、八月が六百万円ぐらい。そして九月にはもう一千万円に手が届きました。利益率は多少悪かったですが。当時のブルーカラーの派遣業界には、他にこのようなサービスをしている会社はなかった。あったとしても、無断欠勤、遅刻が当たり前のアバウトなものだった。そんな中で私たちは家庭教師派遣業の経験を生かして、お客様に対しては非常に細かい手配をし、登録者に対しては事細かく作業内容を伝え、しかもちゃんと行ってくれるかどうか前日に確認をしたり、当日学校から向かう時に念のために電話をさせたりしていました。笑い話なのですが、あるお客様から十人のオーダーを頂いて、朝八時に来てくれと言う。本当に朝時間通り十人揃ったら、お客様の方が驚いてしまって、「十人って言ってもどうせ半分しか来ないと思っていたのだから五人でいいんだよ」、「八時と言ったが本当は九時に集まればいいんだよ」なんて言われました(笑)。このようなアバウトな世界で、きめ細かい手配サービスをしたことで、お客様の方から「あそこに頼めばちゃんとやってくれる」という評判が広がっていったのです。

問 家庭教師派遣の経験が効いていたわけですね。

平野 職種は家庭教師から運送やイベントなどの仕事に変わりましたが、手配の仕方は家庭教師センターに近いやり方でやりました。そこが結果としてお客様に喜ばれたのでしょうね。給料を日払いにしたことも学生やフリーターに受けました。三ヵ月目で家庭教師センターで五年間かかった売り上げを達成できたときに、「これはすごいな」と思いました。

問 それからどんどん登録の数や拠点の数を増やしていったのですね。

平野 一九九二年七月にこの事業を始めてからずっと武蔵小杉に店があったのですが、東京都心に出店した方がもっとマーケットが大きいだろうと、二店舗目は九三年の夏過ぎに秋葉原に出しました。われわれにとっては最初の勝負です。一体どれくらいの採用が取れるのか、二ヵ所になっても自分たちはやって行けるのか、資金繰りは回るのか、いろいろなことを考えながら出店しました。しかしすぐに武蔵小杉を抜いて、二年目には売り上げが七億五千万円、約三倍なったのです。そして三年目には、大阪への出店に挑戦しました。



日本の派遣社員人口は二倍になる

問 三年目で大阪進出ですか。

平野 いまだに忘れませんが、一月十七日、阪神大震災の当日が大阪支店の開設日でした。繁忙日が三月ですから、その二ヵ月前に出店をするつもりで設定をしていた。私が当日乗り込んで立ち上げをしようとしていたのですが、行けなくなってしまって電車やバスを乗り継いでやっとたどり着きましたね。

問 それは印象に残っているでしょうね。では阪神大震災の復興にも相当関わったのでしょうか。

平野 電話網が寸断されていたので、支店をオープンして最初の三日間はまったく電話が鳴らなかった。しかし四日目から電話がじゃんじゃん鳴り始め、復興のための荷物整理や移動、残がい処理の仕事などがたくさん来ました。なかでも印象に残っているのはJRさんから頼まれた、寸断された東海道線の枕木の搬入作業です。非常に大事な仕事なので、最優先の仕事として、二十四時間作業でやらせていただきました。

問 人集めが大変ではなかったですか。

平野 大変でしたね。当初は本当に混乱していましたから。その後すぐに武蔵小杉店を横浜に移転させ、名古屋店を立ち上げました。大阪や名古屋でこの事業が成功するかどうかは賭でした。いわば私は手配師の親分みたいな仕事をやっていましたから、こんな仕事が大阪の商人に通用するかなと心配しましたが、思いの外順調に伸びていきました。

問 今はどこまで支店があるのでしょうか。

平野 九州から北海道まで全部ありますね。札幌や東北、あとは関東近郊、太平洋のベルト地帯は全部あります。近畿、中京、広島、岡山、姫路、北九州、福岡、南は鹿児島まであります。

問 このようにぐんぐん伸びてきた背景、日本の雇用形態の変化や事情をどのように分析していらっしゃいますか。

平野 特にこの十年、日本の若者を中心に就業に対する考え方が変わりました。日本の就業の中で良しとされているのは唯一、一流高校、大学を出て、一流企業に終身雇用され勤め上げることだった。しかしだんだんと終身雇用制が崩れ、必ずしも良い学校を出て良い企業に勤めることが幸福の定義ではなくなってきた。フリーランスで働く人、自分自身の適正を見極めて、正社員という形にこだわらない人が増えてきたのです。実は海外ではブルーカラーの派遣がすごく浸透しています。アメリカは四割近くが、特にフランスは五四%がブルーカラーの派遣なんです。しかし当初日本にはブルーカラーにダーティーなイメージがあって、マーケット自体が存在しなかった。ただ潜在需要は凄くありました。就業人口のうち半分はブルーカラーですから、本来はない方がおかしいのです。そんな中でわれわれはタイムリーに、最低限お客様の要望に答えられるサービスメニューを作った。最低限のサービスとは一言でいうと「安心感」です。われわれはこれまで決してスタッフのクオリティーで勝負してきた会社ではない。デリバリーの強さ=システムで勝負してきたのです。「前日の夕方三時までにオーダーしてもらえれば翌日の朝までに人数を確実にそろえましょう」と言うのは簡単ですが、何百人何百現場になればこれは至難の技です。それを支えるだけの仕組み作り上げた。こういった「安心感」とクイックレスポンス、つまり「スピード感」、この二つが圧倒的に支持された要因だと思います。

問 例えば人件費を少なくするとか、あるいはもっと柔軟にしたい、必要のあるときだけ欲しい、というように企業の構造が変わってきたのも大きな理由ですか。

平野 それは大きな要因の一つですね。企業が人件費を固定費から変動費化させたくなった時期にちょうどさしかかった。かつて日本の経済が右肩上がりに伸びていたときは、常に人員を多く採ってもそれを上回る経済成長がありました。しかしバブル以降の十年は右肩上がりで伸びなくなった。そうなると日本の場合労働分配率が高すぎてしまう。現在各企業が考えていることは、いかにしてこの高くなった人件費を下げるかです。しかし正社員の給与を下げるのは困難だから、できるだけ正社員を少なくして、その仕事を派遣やパート、アルバイトなどの非正規従業員に回すようにしている。実はアウトソージングマーケットにとって景気変動の波が大きい時期はチャンスなのです。企業側にしてみると好況の時は人を切りづらい。そこでダメなときに切る。次に立ち上がってきたときには、正社員を取らずに全部派遣やパートに置き換える。これを何回も繰り返して、今どんどん派遣人口の比率が高くなっています。ただ高くなっているといっても、まだアメリカなどに比べると遙かに低いですが。アメリカやヨーロッパでは非正規従業員が全従業員の三〇から四〇%ぐらい。高い産業になると五〇%を超えています。社員よりもパートやアルバイトが多い企業がたくさんあるということです。

問 日本の場合はどうですか。

平野 まだ二〇%ぐらいです。

問 今後はその倍ぐらいになりますか。

平野 なると思います。人口の割合も、今言った二〇数%のうち大多数はパート、次がアルバイトで、派遣が一番少ない。日本の派遣人口は約百二十万人と言われていますが、それでも全就業者の中の約一・三%です。イギリスが一番高くて約四・三%、アメリカは三・八%です。ということは日本の全就業者六千五百万人のうち三・五%としても、二百万人ぐらいが派遣人口でないと、先進諸国の平均に届かない。それくらいの派遣マーケットは出来て当たり前だと思います。

問 派遣人口百二十万人のうち、御社にどれくらいの方が登録されているのでしょうか。

平野 約六十五万人ですね。

問 そのうち実際に派遣されている人数は。

平野 アクティブで稼働しているのは三五から四〇%、だいたい十五万人ぐらいです。一日に約一万三千人ぐらいが常時稼働しています。



フリーターが増えるのは良いことではない

問 一つ辛口の質問をさせていただきますが、フリーターというのは本当に企業にとって個人にとっていいことなのか、という疑問があります。平野さんご自身はフリーターが増えることにどのようなお考えをお持ちですか。

平野 答えから言ってしまうと、フリーターが増え続けることは良いことではないと思います。ある時期、自分の事業に対して「われわれのような業態があるからフリーターが増えてしまったんじゃないだろうか」と悩んだことがありました。しかし結局はフリーターが増えたからこそ、われわれが流通業として成り立ってきたのです。今、われわれが考えている題目は世直し業です。一方ではしっかりと目的を持ったフリーターも増えていますが、「もっと何か自分に向いていること、楽しいことが他にある。決まった定職に就くのは面倒くさい」というように非常にモラトリアムなフリーターも多い。そういった彼らに早く自分の適正を見つけてもらって、活躍出来る場を探してもらうのはすごく重要なことです。若い人たちが活躍して、自分が活かされる場を早く見つけてくれないと、やはり日本経済は再生しないですから。

問 そうするとフルキャストは若者が定職につくための指導や手助けを何かされているのでしょうか。

平野 フリーターの中から実際に定職に就きたいという人をピックアップして、今アルパーム事業部というものを持っています。これはアルバイトtoパーマメントの略なのですけれども、ようするに定職に就きたい、何かをやりたいと思ったときに、その手助けをする事業部です。企業側からのニーズを拾い上げて、フリーターの中から「ちゃんと働いてみたいんだ」という人に自分の適正を見極めてもらえるよう手助けをしています。

問 これはどれくらいの人数がいるのでしょうか。

平野 登録者で約三千名います。



“若者応援企業”と位置付ける

問 今はだいぶサービスが多様化して工場のラインのそのものを請け負う例もあるそうですね。サービス内容はどのように進化しているのでしょうか。

平野 例えば今回、トヨタグループの車体製造会社セントラル自動車などとフルキャストセントラルという合弁会社を作りました。これは自動車組み立て工場のラインをまるまる請け負う、工場ライン業務請負事業です。実際の製造技術を教育研修をして習得してもらってから現場で働いてもらいます。またフルキャストテクノロジーは半導体製造装置や、メカトロニクス、開発設計などの高度なレベルの技術者の派遣を、さらにフルキャストオフィスサポートでは一般事務や秘書、通訳などのホワイトカラー分野の派遣をしています。今は人材というカテゴリの幅を広げ教育と研修を絡めて、人材の付加価値を高めた上でお客様に使っていただいています。

問 平野さんが考えているフルキャストグループの企業コンセプト、理想の形態とは何でしょうか。

平野 人の雇用就業に関しての、生涯パートナーでいたいという考え方を持っています。人が働き出してからリタイヤするまで、働くという切り口に常にフルキャストがパートナーとしてお手伝いをさせていただく。そのような関わり方が出来る企業をイメージしています。

問 サービスの多様化とともに地域的な広がりもあると思います。これから日本国内で強化して行きたいことはありますか。

平野 今、国内では採用に力を入れています。ブルーカラー分野は人不足になりつつあります。十八歳人口が減っていることもありますし、実はブルーカラー分野は若い人たちは好んでやりたいわけではないのです。そんな中でわれわれの業界は需要が回復してきています。ですから短期的にはスタッフの採用力を強化することが今後の業績を伸ばすための課題になりますね。

問 採用を増やすためにどういった手を打っているのですか。

平野 賃金を上げるのが一番わかりやすいのですが、われわれに対するブランドイメージ、あえてフルキャストで働きたい理由が大事です。自分たちを若者応援企業として位置づけ、一環としてフルキャストスポーツという幅広くスポーツを目指している人間の支援活動をしています。

問 若者応援企業というのはいいですね。そのスポーツというと具体的には。

平野 Jリーガーのマネージメントなどもしています。例えばワールドカップのGK楢崎君もうちに所属しています。彼らを通じてサッカー教室が出来ないかとか、選手同士の交流だとか、そういったことも考えています。

問 これからプロの人たちのマネージメントもやって行かれるのですね。スポーツビジネスもできそうですね。

平野 アメリカではIMGのようなスポーツ代理人事業がありますが、日本ではまだまだです。しかし可能性はあると思います。



人を大切にすることを仕組みに落としていく

問 フルキャストの強みは人の管理や教育のノウハウだと思うのですがいかがでしょうか。

平野 文化として、人を生かしていくという考え方が末端まで根付いているのがフルキャストの強みです。人材サービスのビジネスは仕組みさえ出来れば、ある程度ワークフローは回るのでそんなに難しいことではない。しかし人を生かす、活用していくには、人に対して敬意を持って接する必要があります。主人公は最前線で働くスタッフたちです。そのことを各社員、アルバイトに伝えていかないと「俺たちは仕事をおまえらにやってやっているんだ」という感覚になってしまう。お客様に対しても、忙しい日などは「キャスティングしてやってる」という考え方になってしまいます。現場で働くスタッフが活躍して初めて成り立つわけですから、常日頃私をはじめ、会社の幹部に人を大切にすること、生かすこと、最前線が主人公であってわれわれはそうではないということを言い続けないと、なかなかいい仕事にならないですね。

問 具体的には現場が主人公だと思わせるために何をしていますか。

平野 登録しているアルバイトを社員総会の時に表彰したり、内勤アルバイトと言われている各支店で働いているコディネーターを表彰したりする表彰制度を作っています。人を大切にすることを仕組みに取り込んでいるのです。それとアシスターから始まって、サブリーダー、リーダー、サブチーフ、チーフというように現場スタッフを五段階に分けるクラスター制度もあります。それによって賃金も違えば、人事裁量権もちがいます。

問 平野さんがこれからもっとも力を入れていくことは。

平野 やはりブルーカラー分野ですね。一番強い得意分野に集中していきます。

問 フルキャストと他の会社に登録している人との違い、フルキャストの優位性とはなんなのでしょうか。

平野 今後の人材ビジネスの基本は、メーカーと合弁会社を作っていくことです。各業種業態に特化した教育訓練、教習をしていくことが、他社との差別化を図ってゆく優位性になると思います。

問 派遣と請負の違いはなんでしょうか。

平野 法的に言いますと指示命令系統がどちらにあるかということです。実際に派遣の場合には極端な言い方をすると、人さえ伺わせておけば、それを生かすかどうかはお客様サイドの問題です。しかし請負の場合はお客様から受けた命令や目的を達成出来るかどうかなのです。今お客様のニーズは請負に近くなっています。

問 そうしますと請負型を増やしていくのも御社の戦略なのですか。

平野 スタート時点では品質、スキルでの勝負をしていませんでしたが、今はまさしくそこにこだわってゆく時期に入ってきています。

問 ところで、平野社長は社員の前でいろいろな芸をすると聞きました。

平野 新年会の時ですね。さすがにここ一、二年ぐらいは控えているのですが。きっかけはまだ会社が二十名程だったころ、お正月に社員と家族全員を中華街のレストランに招待したことです。いつも帰りが遅い会社なので家族にも迷惑を掛けていますからね。日頃の感謝とお詫びにご飯をごちそうして、子供の前では手品をした。その翌年にはちょっとした出し物を披露しようと、会場を借りてダンスをしました。最初は私と社員の距離も近いですし、一体感が生まれて盛り上がったのですが、今は管理社員だけでも五百人いて派遣社員を入れると千人いますからね。だんだん一人よがりでしているような雰囲気になってきて、「やめたほうがいいんじゃないですか」ということになってしまいました。みんな楽しんでいると思っていたのですが(笑)。さびしいですよ。

問 社員との距離感を保つのは難しいですね。会社の規模が小さいときと大きくなったときに、どのくらいの距離感がよいのか。創業社長としては迷うところがあるのではないでしょうか。

平野 私自身は常にスタッフであろうが社員であろうが、同じ目線で話をしようと思っています。しかし会社が大きくなってくると、たまに支店に行ってざっくばらんに話をしようとしても、向こうはこちらに凄い距離感を持っていて本音がなかなか出てこない。下手に距離感を縮めようとすればするほど逆効果になるときもあって、今は無理して縮めようとするよりも自然体のままでいようと開き直っています。



平野 岳史 (ひらの・たけひと)

1961年8月、横浜市生まれ。1984年、神奈川大学経済学部経済学科卒業後、ハーベストフューチャーズ入社。1989年7月、神奈川進学研究会設立。家庭教師の斡旋・仲介事業を始める。1990年9月、フルキャスト設立。軽作業請負事業を始める。1997年フルキャストレディ(現フルキャストオフィスサポート)設立。1998年フルキャストウィズ(現フルキャストテクノロジー)事業開始。2000年フルキャストスポーツ、フルキャストファクトリー設立。2001年6月、ジャスダックに株式上場。2002年フルキャストセントラル設立。2000年7月YEO第5期会長。2002年1月、日本ベンチャー協議会会長。(現副会長)



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