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トピックス -企業家倶楽部

2014年12月08日

質にこだわり 保守にこだわる/東日本ハウスを支えるスタッフ

企業家倶楽部2014年12月号 東日本ハウス特集第4部


伝説の営業マン成田和幸が新たな歴史を作った。680億円の負債を抱えた東日本ハウスを社長就任12 年で東証一部上場へと導いた。その原動力となったのは、成田の峻厳な優しさを理解し、顧客第一主義を徹底したスタッフの努力だ。今、彼らが目指すものとは何か。その熱い思いに迫る。    (文中敬称略)



誠実な心と粘り強さで日本の家を丈夫にする

沖田髙広常務取締役 Takahiro Okita
  
事業統轄本部長東日本ハウス事業部本部長


誠実な心と粘り強さで日本の家を丈夫にする


 1977年、沖田は創業10年にも満たない東日本ハウスに、わずか18歳にして入社した。「入社試験までビニールハウスを作っている会社だと思っていた」と笑う沖田の入社動機は、高校時代の教師の勧めに素直に従ったことがきっかけ。しかし、当時はそうしたケースも珍しくはなかった。

 八戸支店に配属されて早々、沖田を予期せぬトラブルが襲う。独立した先輩社員が八戸支店の社員を次々と引き抜いていったのだ。20人以上いたはずの社員は、1年半の間に5人まで激減。風前の灯火となった八戸支店で沖田は、頭を抱えながらもアフターサービスを担当することとなった。「行って、濡れてこい」

 一体何の話かと怪訝に思った沖田だが、現場に着くなり言われた意味を理解した。当時の東日本ハウスはデザイン重視。漏水対策が万全ではなく、雨漏りが起きることも少なくなかった。もちろんお客はカンカン。沖田は玄関前で、ぐしょ濡れになりながら頭を下げ続けた。

「苦情があればすぐに駆けつける。毎日5着の着替えを持って出勤していましたね」

 そうしたアフターを務めること1年余。ようやく雨漏り問題が片付いた頃、沖田はさらなる試練に挑む。辞めた先輩たちの穴を埋めるべく、営業職に志願したのだ。

 自ら願い出たものの、自分でも認めるほどの口下手。最初はうまく話ができなかったが、沖田は粘り強い男だ。断られてからが営業である。

「毎日、目標を立てていました。断られても1分は話ができるようにしよう。それができたら3分、5分という具合です」

 営業を始めて約40日間。3000件の面談を回り、念願の第1棟の受注を獲得。初めてのお客は今でも忘れられない。水産業を営む人で、仮契約の段階では一度断られもした。それでも奥さんが「絶対に建てよう」と押し切ってくれたのだ。沖田が誠実で素直だったことが決め手になった。

 こうして1棟目の受注を達成した沖田だったが、次の2棟目までにはさらに半年以上を費やすことになった。しかし、沖田は諦めず、深夜2時まで飲み屋街のサラリーマン、タクシー運転手、警察、消防を相手に営業を続けた。家に上がり込んで話し、そのまま泊めてもらったことさえある。

「理路整然と組み立てた営業方法で結果を出す人もいる。それでも私は、最終的には数と粘り強さが勝負を決めると思っています」

 沖田が2棟目の受注を掴み取った時、面談数は1万件を超えていた。

 成田に出会ったのは、それからしばらくして沖田が八戸支店長になった折である。成田は支店長時代からリーダーシップを発揮。会議や朝礼で社員の舵を取るスタイルはカリスマ的であった。統率力を特に意識してこなかった沖田は「これこそ組織のあり方だ」と目を覚まされた。

 成田とは、4年前に東京本社勤務となってから共に仕事をする機会が多くなった。「褒めることはめったにありませんが、そこが父に似ていて、不思議な縁を感じます」と慕う。

 沖田は現在、主軸事業である東日本ハウス事業部本部長を兼任。扱う商品は「やまと」、同商品は太陽光発電を標準搭載。檜を使用し、制震性、耐震性の高いグッドストロング工法で建てられている。入社直後、雨漏りのアフターで苦々しい教訓を得た沖田だからこそ、住宅の耐久性がいかに重要かを誰よりも理解しているのだ。

「住宅は嗜好品ではなく資産です。耐久性を売りにすることは世の流れとして理に適っているでしょう。皆様には丈夫な家に住んでいただきたいので、ベストを尽くします」



価格は明快、丈夫で長持ち木造提案住宅もそれが強み

南保 隆 Takashi Nanpo

J・エポックホーム事業部 取締役 事業本部長 


価格は明快、丈夫で長持ち木造提案住宅もそれが強み


 サラブレッドのふるさと・北海道日高支庁に生を受けた南保隆。高校の先生から「若いけれど面白い会社がある」と勧められ、1978年に東日本ハウスに入社した。入ってみれば、その言葉通り会社はイケイケドンドン。急激に伸びている時代であった。その中で南保は工事担当者として現場を覚えていった。営業に移るまで15年間のこの経験は大きな糧となった。

「現場で働いたから、ある程度は何でもわかる。例えば、うちと他社の材料の違い、鉄筋の精度の違い。そうした差別化をお客にきちんと説明できることが営業で役立ちました」

 そう語る南保であるが、とはいえ、こうも痛感した。「現場を知っているからといって、売れるもんじゃない」。では営業では何が大事であったのか。そう尋ねると、こう即答する。

「相手のことを思うこと。何を願っているか、何を不安に思っているかを見極め、自分の意見を伝えることです。その言葉を信頼してもらうためには誠実でなければなりません。いいものはいい、だめなものはだめ、できないことはできない、と正直に言うことです」

 そうして挑む営業は、南保によれば“勝負”。客はみな何社か比べて検討しているので、勝てば100点、負ければ0点。勝てたときの喜びがやはり営業の醍醐味だという。その南保は営業に異動後、小樽、釧路などで所長を務めたのち、東京へ。リフォーム事業部の責任者を経て、現職のJ・エポックホーム事業部の本部長となって4年になる。J・エポックホーム事業部が扱うのは木造提案住宅。細かく注文をプランニングする東日本ハウス事業部と違い、合理性のある間取りで2割程度安く仕上がる提案住宅だ。その強みを南保はこう語る。

「東日本ハウス全体に言えることですが、価格が明快であること。お客様が価格の結論を求めても他社はきちんと出しません。含みを持たせた“後出しジャンケン”なんです。でも、うちは価格も、素材も、機能も明快。『実直に生きようや』ということです。それに加えて丈夫で長持ち。これが大きな強みです」

 その南保にとって常に全国トップの営業マンであった成田はまぶしい存在だったようだ。

「馬力があって、統率力があって、先を見る目があって、打つ手が早い。私達はよく『甘い!先を見ていない』と言われます。成田は厳しいが、叱りたくて叱るわけではない。実際、気を遣いすぎるほど優しい面もあります。社員だけでなく、その家族も大事にしてくれる人で、よく『そんなことじゃ、社員も、家族も、業者も守れないぞ!』と叱咤されます」

 そんな成田の期待に応えるためにも、南保が今注力すること。それは営業マンの育成だ。

「現在、J・エポックホーム事業部には約100名の営業マンがいますが、その6割が入社後3年未満。若い上、競争心に欠ける者が多いので、いかに勝負をさせていくかが重要です。『面談3000件』を目標に飛び込み営業をさせたあと、展示場へ入れるなどして経験を積ませています」

 さらに人材不足が深刻な職人に関しては、今後、「工務部」などを設け、棟梁を抱えて育成することも必要だと考える。そして南保自身の目標については、こう話す。

「東日本ハウスグループが1000億企業を目指す中、住宅部門が750億円を請け負うなら、J・エポックホーム事業部は最低120億円を売らねばならない。充分やれる数字ですが、そのためには努力を惜しみません。『成果の出ない努力は、努力にあらず』。成田のこの口癖を肝に銘じて頑張ります」



その家がある限り訪問を続けリフォーム事業で守り抜く

真田和典 Kazunori Sanada

住・環境リフォーム事業部 取締役 事業本部長


その家がある限り訪問を続けリフォーム事業で守り抜く


福岡出身の真田和典は建築関係の専門学校を卒業後、1983年に東日本ハウスに就職した。先に入社していた学校の先輩から「面白い会社だから、来いよ」と誘われてのことだったが、「入ってみたら、先輩はもういなかった」と笑う。工事を8年間手がけた後、長崎出張所の所長に。さらに鹿児島支店、静岡支店の支店長を務めたのち、東京本社へ。本社勤務は今年で丸8年となる。九州時代を振り返りながら、真田は冗談まじりに、こう語る。

「当時は本社も岩手だし、あの頃の九州では知名度はない。そもそも九州で“東日本”なんて通じず、『西日本ハウスさん』なんて言われましたよ。それでも建物自体は間違いなく、いい。その自信と熱気にあふれていました」

 当時の東日本ハウスは耐震性を強くしていこうとしている時期。この取り組みのかいあり、その後の阪神淡路大震災のときも東日本ハウスが建てた家は半壊すらなかったという。

 さて東京本社での真田はやまと事業部(現東日本ハウス事業部)、J・エポックホーム事業部を経て、現在の住・環境リフォーム事業部に移って今年で9年目。木造注文住宅のノウハウを生かし、高品質かつ省エネな増改築などを行なう部署で、環境事業にも今後さらに力を入れていく。そもそもリフォーム事業は成田が社長になったときに立ち上げられた。

「家を建ててくれたお客が遠のいてしまわぬよう、アフターサービスのしっかりした会社になろう。そしてお客さまを大事にしよう。こうした会社の思いを形にした事業です。引き渡し後5年間は年2回、その後は年1回、感謝訪問(ホームドクターシステム)をして家をチェック。10年を過ぎるとリフォーム営業が引き継ぎ、家がある限り訪問して守ります」

 実際、今年8月の広島土砂災害で大きな被害を受けた八木地区には72軒の既存客があったが、迅速な対応により、すぐに無事を確認することができた。このように万一、何かが起きれば、すぐに社員が飛んで行く。また、外部委託ではなく社員が三交代・24時間態勢で電話を受けるコールセンターの活動、今年5月のホームサービス課との統合も、アフターサービスを充実させるための取り組みである。さらにリフォーム事業部では来春、介護リース事業にも着手。要介護者が激増する将来、自宅介護が中心になることを見据え、介護用のリフォーム、介護用品のリースに力を入れる。

「現在、リフォームのお客は紹介が2割、新規2割、既客6割。これは金額での話で、件数なら既客が8割です。クロスの張り替えや絨毯の取り替えなど、数千円の仕事から2~3000万円のリフォームまで様々です。何かトラブルが起きれば、本部長の私も床下にもぐって作業をしますよ」

 そう話す真田は本社転勤後、出張などで成田と密に行動を共にした。そこで学んだのは、目標を持ってがんばることの大切さだという。

「成田には今も毎日のように叱られていますが、面倒見がよく、裏表のない人だから社員はみな、ついて行くんです。『厳しさの倍以上の愛情を持て』と成田はよく言いますが、その言葉を自ら率先垂範していますね。ああなりたいな、と素直に思います。こんなことを言うと、『おまえはほめすぎだ!』と、また叱られそうですが(笑)」

 そんな真田から成田へのメッセージ。「これからも、ますます元気に、パワフルに、ご指導願います!



成田と語り合ったあの一夜が自分の人生を大きく変えた

小嶋慶晴 Yoshiharu Kojima

不動産事業部 執行役員 不動産事業部本部長 兼 マイタウン課担当部長


成田と語り合ったあの一夜が自分の人生を大きく変えた


 小嶋慶晴は北海道の苫小牧生まれ。道産子らしく大らかな印象で、ユーモアをまじえて明るく快活に話す。J・エポックホーム事業部本部長の南保隆は苫小牧高校の同窓で一学年上。小嶋曰く「頭が上がらない」先輩である。小嶋は高校卒業後、東日本ハウスに入社。札幌支店を皮切りに地元・北海道で働いた。成田との出会いは、本人の弁によれば「北海道の売れない営業マン時代」。出張でやって来た成田を、ひょんなことから寮の自室に泊めることになったのだ。

「当時の成田は課長で、トップ営業マン。雲の上の人でした。初めてじっくり話してみると、夢と希望に満ちていて、豪快で面白くてユニークで、発想もすごかった。『こんな人がいるんだ!』と驚きました。あの夜に、僕の人生が変わったんです」

 その刺激もあってか、小嶋は営業に心血を注いだ。お客様に書類を提出する必要が生まれれば、必ず翌朝持参し、先方の主人が出勤する前に手渡す。たとえ前夜、どんなに遅く帰社したとしても。とにかくスピードが大切だ。またお客様の引っ越しは2トントラックを借りて手伝いに行くか、鮨を届けさせたという。

「大切なのは『いかにお客様を味方につけるか』。営業は結局、“ 人”対“人”。それが面白かったですね。それに、この業界の人間関係は意外に温かいんですよ。それも営業のやりがいにつながっていたと思います」

 そう振り返る小嶋はその後、仙台支店長を経て東京本社へ転勤。今はマンションや分譲住宅を扱う不動産事業部の本部長である。現在、函館に3棟、関東も北浦和・船堀・日本橋に各1棟ある。函館は成田の地元であり、「石を投げれば東日本ハウスの家に当たる」といわれる地。さらに少子高齢化が顕著で雪の多い地方都市では、特に高齢者にマンション人気が高い。雪下ろしの必要がない上、セキュリティがしっかりしていて安心に暮らせるからだ。このように独特の強さを誇る函館などのほかは、東京と近県のみを狙う。

「東日本ハウスのマンションの強みはやはり戸建ての注文住宅で培った実績。設計、資材、アフターサービスなどノウハウを生かし、数より質を追求します。成田が厳しく言うのは『安物は使うな!』。ペラペラしたシートでなく無垢、本物のフローリング。それに『ドアはいいものを使え!』。そこで鏡面仕上げなどで高級感のある印象を大切にします」

 そう語る小嶋が常に最も頭を悩ませているのが土地の取得。「とにかく土地がほしくてほしくて、たまらない。土地がないと、首をくくらなきゃなりません」と笑うが、事実これが一番難しく、今後の大きな課題の一つである。そんな小嶋が見習っているのは、成田の「あきらめない」姿勢精神だ。

「成田はへび年ゆえもあってか、本当にあきらめないんです(笑)。それに商売勘、事業勘もすごいし、数字にも強い。書類など記録を見なくても数字が全部、頭に入ってるんですよ。一方、僕はいつも『頭が悪いのに、難しく考えるな』と言われてます(笑)。難しく考えすぎずにやってみて、もしだめなら方針を変えればいいんだ、とね」

 そう語る小嶋にとって、成田は「あの人生を変えた夜」から少しも変わっていない。

「僕は人間として成田が好きなんですよ。ああいう人になりたいとも思います」

 そうまっすぐに語って、小嶋はまた彼らしく明るく、笑った。



付加価値を守り 安売りはしない それがホテル東日本

ホテル東日本 

代表取締役社長 鈴木直一 Naoichi Suzuki
付加価値を守り 安売りはしない それがホテル東日本


 長身で、がっしりとした体躯ながら、穏やかなたたずまい。どこか民主党の“黄門さま”渡部恒三最高顧問を思わせるような福島なまりにも温かみが漂う。ホテル東日本社長、鈴木直一はそんな人物である。福島市に生まれ、地元の高等職業訓練学校を卒業したのち、1976年、東日本ハウスに入社。成田和幸より年齢は下だが、同期入社である。

「営業マンとして常に金バッジを獲る成田のことは、入社当時からもちろんよく知っていました。私も入社後9月に営業に配属されてからは、販売件数では成田がトップ、私が2位という間柄でした」

 そう振り返る鈴木は福島支店長、埼玉支店長、リフォーム事業部統轄、工場生産管理部長、名古屋支店長などを経て、ホテル東日本副社長に。昨年には代表取締役社長に就任した。成田が今後、より投資に力を入れていくと語るホテル事業の長である。「ともにがんばって、いい会社にしていこう。基本的にはホテル東日本として自立できるように」。それが就任時、成田から託された言葉である。

 ホテル東日本が抱えるホテルは、第1号店である「ホテル東日本盛岡」と、「ホテル東日本宇都宮」、秋田県の田沢湖畔にある「ホテル タザワ」、岩手県雫石の「ホテル森の風 鶯宿」、「ホテル森の風 立山」、岩手県の「沢内銀河高原ホテル」の6拠点。「ホテル森の風 立山」は今年8月にリニューアルオープン。「ホテル森の風 鶯宿」には7月、「フラワー&ガーデン 森の風」が併設された。世界的ランドスケープ・アーティスト、石原和幸プロデュースによる日本最大級の本格的ガーデニング公園である。こうした東日本ハウスからの投資に感謝しながらも、鈴木は実際、ホテル事業で厳しい状態が続いていることを認める。

「今年7~8月、『森の風 鶯宿』では初めて満館にすることができず、成田からも『無策』と叱責を受けました。そもそも11~4月の上期の落ち込みを、夏季で取り戻そうとしてもだめなのです。今日やれることを今日しっかりと行い、今後11月からどうやって立て直していくかが課題です」

 鈴木が掲げる目標は現在3~4%である売上対営業利益率を東日本ハウス本体と同程度の10%にまで引き上げること。また75億円前後の売上を100億円に伸ばすことも目指す。そのためにホームページなどインターネット集客の充実や、ホテル会員への発信などに力を注ぐが、安売りだけは決してしない。

「価値に見合った適正な価格と、最高の料理やサービス。地域内では料金を下げてでも空き室を埋めるホテルも少なくありませんが、我々は、単価は下げずに付加価値を守ります。さらに自分達の手で手入れをし、草むしりをし、ホテルに愛着と誇りを持つスタッフが生き生きとした笑顔で接客をすること。それによって記憶と記念に残るホテルとなる。それこそがホテル東日本のありかたなのです」

 そう語る鈴木が社長として経営に立ち向かう上での大きな指針は、やはり成田である。

「支店長時代から成田を身近で見てきましたが、物事を見る観点がすごい。人を指導するポイント、改善するポイント、仮説を立てて実行し、万一うまくいかなかったときの修正や対策のスピード。何事も期日を切って全力で挑む姿勢を手本として、私もできうる限り精一杯取り組んでいく。東北・宇都宮・立山の6拠点が一致団結し、何としても地域ナンバーワンを目指して闘っていきます」



「経営は利益」貫き黒字化

銀河高原ビール

代表取締役 横川一雄 Kazuo Yokokawa
「経営は利益」貫き黒字化


 銀河高原ビールは東日本ハウス創業の想いに描かれた一つの夢だった。

 一般に販売されているビールはろ過されているため味・品質は一定だが、同社のヴァイツェンビールはドイツ由来の無ろ過製法で手間がかかる分、芳醇な香りや味わいがある。そのため、1缶あたり300円近い価格設定でも根強いファンは多い。

「サントリーを抜く」と、大手銀行の反対を押し切って飛騨高山、阿蘇、那須に工場を建設。全国展開したものの、一時は赤字に転落した。その建て直しの際、社長に就任したのが横川だ。

「順風満帆の会社は自分には合わない」と語るが、元はみずほ銀行の支店長を1年半務めたほどの男。

「このまま銀行に残っても上には行けない」と早期退職に手を挙げた折、みずほ銀行から東日本ハウス建て直しを行っていた当時専務の林に「銀河高原の建て直しを一緒にやらないか」と声をかけられ、2004年11月末旧銀河高原ビールに入社した。

 横川は入社時に出会った成田のことを「厳しい人」と回想する。その一方、「経営は利益です。1円経費を圧縮すれば1円利益が出るため、社長は末端までチェックしなければならないという経営論に共感しました」と語る。

 その言葉通り、横川は入社後ビール販売に関する経費をチェックした。

 その結果、販売する際、店舗の棚に商品を置いてもらうために1本あたり数10円かけていたことが判明。利益率を高める上で横川はそれら経費を全て取り払い、さらに資材メーカーとの取引条件を見直し、納品基準を1万ケースから3000ケースに圧縮し、廃棄のリスクを低減させることで無駄を省いたのである。

 また、閑散期に入る1~3月、11~12月には期間限定のビールを生産することで工場を休ませず、その間の固定費をまかなうという工夫も面白い。

「1円、2円でも儲かるような仕組みを作らなければ再投資もできず、従業員の給料も払えなくなり、企業の未来はありません。一人ひとりがそろばん意識を持ち、いくらまで経費をかけられるのか、どのくらい売れるかと具体化することが大切です」

 現在、銀河高原ビールの販売量は1800キロリットル。ビール市場全体でいえば0・05%のシェアだが、品質を重視する富裕層をターゲットにし、大衆向けのビールとは一線を画すことで十分利益を確保することができている。

「糖度やアルコール度数の指標通りでも、時期ごとに麦芽の状態も異なることがあり、仕込みは料理と同じように感性が重要です。今の社員には全員がその仕込みをできるようになってもらい、ビールの品質を上げることに集中してほしいと考えています」

 毎日味が変化することから、横川自身も毎晩2本、自社のビールを飲んでいると笑顔で語る。

「ビール業界が不振だという声もありますが、銀河高原ビールは少しずつ成長しています。ビールという垣根を越える発想をグループの中で見つけたい」と意気込む横川。グループ内のホテル事業、住宅事業と連携し、各ホテルで限定のビールを提供するなど、互いの広告宣伝ができる仕組みづくりに意欲を示した。

「来月で定年を迎えますが、健康であるうちは一緒に頑張らせてください」

 次の課題は5年で後継者を育成すること。横川の銀河高原ビールにかける日々はまだ終わらない。



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