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トピックス -企業家倶楽部

2010年04月28日

それぞれに闘い修羅場を見た歴戦のつわもの集団/フリービットを支えるスタッフ

企業家倶楽部2010年6月号 特集第4部


フリービットで石田宏樹を支えるスタッフは百戦錬磨のつわものぞろいである。盟友にして右腕の田中伸明。山一證券最後の総務部長、永井清一。フリービット参画のため遥かオランダから帰国した人材育成の第一人者、酒井穣。完全子会社エグゼモードの創業者、藤岡淳一。そして中国拠点のリーダー、王剣鋒。経歴も個性もさまざまながら熱い想いを一つにした幹部5人が今、語る。(文中敬称略)



決断は石田、相談は田中 それを自らの役割と心得て

代表取締役副社長CFO 田中 伸明(たなか・のぶあき)


決断は石田、相談は田中 それを自らの役割と心得て


「見たこともない21歳」

 それが初対面の石田宏樹に対して田中伸明が抱いた驚異の印象であった。94年、のちに幻と終わる都市博の企画提案のためのブレストで、今や盟友となった二人は出会う。石田はインターネットの話題にアンテナを張っていた慶應義塾大学の学生。5歳年上の田中は個人事業主としてコンピューター系雑誌などの企画や編集に携わっていた。

「石田は初めて会ったときからよくしゃべり、面食らうほど目立っていました。物言いも話す内容もはっきりしていたし、仲間の学生もみんなしっかりしていましたね。それですぐに『一緒にやろう』ということになったんです」

 そう語る田中と石田は95年、パソコン通信をする人にインターネットを伝道するべく「リセット」という雑誌を創刊。毎日新聞コードにより、全国で発売することとなった。設立した有限会社リセットの代表取締役は田中。「5歳年上の大人でしたから」と笑う。

 さらに田中は石田とともに三菱電機のグループ会社によるドリーム・トレイン・インターネット(DTI)設立に参画。取締役就任後は管理部門と事業推進部門を統括した。だが、DTIの激務に忙殺される石田に、あるとき田中はメールでこう告げる。「もうDTIは辞めろ。ネットの世界を世に知らしめたいなら、自分自身でやるべきだ」。

「あの状態では単なる下請けだし、雇われサラリーマンと同じでしょう。石田のような才能が世に出て自己実現するためには、やはり自分の会社を興さなければだめだと思ったんです」

 そしてまた機も熟していた。リセット、 DTIの業務は十分な勉強や準備の期間となり、内外ともに状況は整っていたと田中は言う。かくして00年、現フリービットを設立。田中は代表取締役副社長兼最高業務責任者に就任して主に営業部門を管轄し、現在は財務全般を統括。自らの役割をこう語る。

「石田の軸のブレない理念やビジョンを実現するのが自分の役割。そのために何が足りないかを考え、それを集めます。またキャラクター的に石田にない部分を埋めるのも役目かな(笑)」

 実際、社員達も田中自身も口をそろえて言う。「決断は石田。相談は田中」。確かに田中はどんなときにも温かな笑みを絶やさない。「楽観的なんですよ」と本人は笑う。たとえば石田体制と管理系とのあつれきが原因で会社の仕組みを変え、一時、田中自身が代表取締役社長を務めた時期も、05年期末頃の資金繰りに苦しんだ時期も、そして三度目の正直で上場を成し遂げたときも、この笑顔で乗り切ってきたのであろう。

「以前、管理系との摩擦を生んだいわゆる“石田スタイル”は理念がはっきりしているがゆえに、賛同できない人には『宗教法人みたいだ』と思われるかもしれません。でも会社は全員が同じ理念を共有してこそです。石田は物事をはっきり言うし、ピュアでまっすぐ、それに根は情にもろくて優しいんですよ。失敗した者は激しく叱責しますが、決して見捨てず、再チャレンジさせるんです」

 盟友ならではのこんな評もする。

「昔の石田は苦手なことがはっきりしていて、そういうことはあえてやらないところがありました。たとえばお金や営業的なこと。僕達も『あんなに才能があるんだから、苦手なことはやらなくていいよ』と思っていたけれど、今の石田はそういう部分も見て理解を示そうとするようになりましたね」

 そう語る田中はフリービットの今を「通過点」と見る。新規投資も行なっている今、今年来年が勝負だ、と。

「特に重要なのは人材の開発と、さらなる理念の共有。それがあればビジネスは結果的に生み出されていきます」

 石田のかけがえのない盟友にして右腕は、きっぱりとそう言い切った。



山一證券最後の総務部長が手腕を奮う鉄壁の危機管理

常勤監査役 永井清一(ながい・きよかず)

山一證券最後の総務部長が手腕を奮う鉄壁の危機管理


 山一證券最後の総務部長であり、伝説となった最後の株主総会を中心的に取り仕切った人物。江波戸哲夫が著した「会社葬送 山一證券最後の株主総会」の主人公。それが永井清一である。「企業のゆりかごから墓場までを見た」と語る山一破綻後は、シュウウエムラ化粧品取締役や三和証券(現三菱UFJ証券)顧問、SMBCフレンド証券引受部顧問、日産センチュリー証券引受本部副本部長などを歴任。09年7月、フリービットの常勤監査役に就任した。フリービットとの出会いは約8年前。株主総会の相談役を務めたことが縁であった。幾多の企業、数多の経営者を見つめてきた永井は、フリービットについてこう語る。

「ソニーにしてもホンダにしても、素晴らしい企業はツートップ体制がキーファクター。フリービットも石田宏樹と田中伸明の出会いによって生まれ、今も続いている。これが強みです。しかも石田はソニーの歴史に学び、出井伸之さんを社外取締役に招いてサジェスチョンを得ている。これはよき先生とよき企業のモデルケースでしょう」

 そう語った上で、永井は石田を“一種の天才”と評する。エジソンは「1%のインスピレーションと99%の努力」と語ったが、石田の場合は「20%のインスピレーション」だと永井は言う。「彼は人の5倍のスピードと密度で仕事をし、人生を駆け抜けていますよ。もちろん努力もしているし、問題点の現状把握など飲み込みも早い。論点整理などの思考訓練もできている。しかも、あれだけ技術に強い経営者はいないでしょう。出井さんら年配の人から学んでいるのも強い。みんな彼のいい参謀であり、師範代であり、かつ“石田ファンクラブ”なんですよ」

 その石田と、温厚で怒った顔を見せたことのない田中の求心力が社内できれいに働いている、と永井。その影響で社員の知的レベルと勉強意欲も高い上、品がいいのも特長だと見る。そんなフリービットでの仕事を今、永井自身も楽しんでいるという。

「山一時代、企業間組合書記長として組織拡大に携った経験もありますが、それによって会社と社会へ貢献している達成感を覚えていました。また私自身、昨日より賢くなりたいという知的欲望が強い人間。だから、この会社での業務は張り合いがありますよ」

 若きフリービットが永井に望むのは、長く磨き上げてきたビジネスマンとしての手腕の教示と、修羅場を体験した男ならではの危機管理である。

「ある種の危機管理上の症状が出たとき、地獄を見た人間ならではの熟練した直感で注意喚起をし、未然防止してほしいということです。たとえば会計処理で疑問や気になる点があったとき。また中国戦略においては外資規制もあるし、会計制度がはっきりしない部分もある。詐欺まがいもある。さまざまな人間を見てきた私なら人品骨柄を見抜くこともできるでしょうからね」

 その永井からするとフリービットの技術力は強みでもあり、課題にもつながるという。BtoBのビジネスは難しい業態で、なかなか認知度が上がらず、IR活動のネックにもなるからだ。

「一般の投資家には正確に把握しづらいんです。今後のIR活動をどうすべきか考え、ITやインターネットに詳しくない投資家も投資できるようになるといいですね」

 永井の深いまなざしはフリービットの転換点を見つめている。売上100億円が一つの節目、さらに1000億円になったときを考えるべきだというのだ。

「ファンドマネージャーやアナリストによれば売上100億円の会社はあってもなくてもいい存在。1000億円になれば、なくては困る会社。その売上1000億円になったときの管理体制を今から考えていくことが重要なのです」



知のカリスマが満を持して取り組む最強の人材育成

戦略人事部 ジェネラルマネージャー 経営企画グループリーダー(兼務) 酒井 穣(さかい・じょう)


知のカリスマが満を持して取り組む最強の人材育成


 戦略人事部ジェネラルマネージャーとして人材の育成を担う酒井穣は、ベストセラー「はじめての課長の教科書」「あたらしい戦略の教科書」の著者である。フリービット参画後の今年1月には最新刊「『日本で最も人材を育成する会社』のテキスト」も発表した。

 石田と同い年の酒井は、慶應義塾大学の理工学部を卒業後、日立系ハイテクノロジーの商社に入社。オランダ出張を機に結局1年間滞在することとなり、台湾向け精密機械の輸出営業に携わった。その後、オランダの精密機械メーカーにエンジニアとして転職し、本格的にオランダへ移住。知的財産権部で働く一方、MBAを取得。さらに06年には、ワーク・シェアリングが発達した柔軟で寛容な労働環境を活用して、ベンチャー企業「J3 Trust B.V.」を創業。CFOに就任し、各種ウェブ・アプリケーションを開発する業務に取り組んだ。

 前述の著書や人気ブログ「NEDWLT」でも知られていた酒井が09年、8 年間暮らしたオランダを離れ、帰国。フリービットに参画したのである。石田との出会いもまた2冊目の著書「あたらしい戦略の教科書」であった。上場後、次の仕組み作りに動き出すとき、石田が頼りとしたのがこの本だったのである。08年末、一時帰国した酒井はフリービットで戦略について講演。その夜の食事会で、早くも石田と“握手”をすることとなる。

「私のモットーの一つは、最も大事な決断は一瞬ですべきだということ。そこを逃したら、もう先はありません。物事を決めるときにはもちろん直感とロジックの両方が必要ですが、最後はジャンプしないとだめでしょう。石田のことも自分が長く求めてきた真のリーダーであると確信したから、直感で『一緒にやらせてくれ』と言えたのです。人生は一度きり。それならば歴史に残る仕事をしたいですから」

 酒井の人材育成の根幹、それは慣れない英語に苦しみながらもクビを切られないよう奮闘したオランダで培われたもの。「たとえ環境が違っても、生き抜くための効率はある」との確信から生まれたものだ。それを踏まえた上でフリービットの人材育成をこう考える。

「人材が好きなことと企業が求めることが一致していることが重要です。ネットは嫌いなことをやっていて勝てる業界ではないですから。だから知的好奇心が旺盛であること、いいかげんに生きておらず、常に自分をあきらめないこと。そんな人材を育てたいですね」

 さらにフリービットの社員達に植え付けたいのは自発の経験、取り組みだ。

「待っているだけではなく、自分で考えて手を挙げようということ。それを促すアフォーダンス、つまり意味や条件付けを与えることが必要です。その一方、部下の行動に対して上司は60秒以内に、瞬間的にフィードバックすることも重要。1カ月後では遅く、優秀な人は育ちません。石田とは細かいフェーズに合ったやり方をディスカッションしながら、判断してもらっています」

 自ら考え、自発的に行動する。石田はそれをも実践していると酒井は言う。

「『もっと考えろ。すべての物事に意図を明確にしろ』。それが石田です。だから意図がはっきりしないまま口にしたことは『なぜ?』と突っ込まれ、言葉に詰まってしまう。厳しいけれど、おかげで、すごい勢いで成長できますよ」

 その石田が父親、田中が母親、そして取締役の栗原理がデキる兄貴。それが酒井の見るフリービットだ。

「3人とも全然似ていないんです。不確定な未来に向けては、クルーの特徴が全員違うことが大事。似たタイプの人やイエスマンばかりではだめなんです。リスクを分散するということは生き物も企業も同じですから。これがフリービットの強みの一つでしょうね」



石田と一緒ならとんでもないものを生み出せる予感がする

エグゼモード 代表取締役社長 藤岡 淳一(ふじおか・じゅんいち)


石田と一緒ならとんでもないものを生み出せる予感がする


 製造責任者を務めていた会社の自己破産-それは藤岡にとって地獄のような日々の始まりであり、同時に経営者という未来への第一歩であった。技術者派遣会社や半導体商社勤務を経て入社したエヌエイチジェイ。ニチメンと共同でデジタル家電の企画販売を行なっていたインド系香港企業の日本支社であった。05年、破産が明らかとなるや電話は鳴りっ放し。部品メーカーの社員に捕まえられれば、泣いて詫びる。中国にある十数社の契約工場へも自腹で出かけ、土下座して謝罪した。

「台湾駐在時代に必死で中国語を覚え、同じ釜の飯を食べ、一緒にラインに立って親しくなった中国の工員達はなじるどころか、『藤岡さんのせいじゃないよ。悔しい』と一緒に泣いてくれました。それに日本にも私の行動を待ってくれている仲間がいた。だから『自分でやってみよう』と思えたんです」

 かくして5人の仲間を連れ、プリント基盤の商社、KFE JAPANへ。新規事業インキュベーションの形で間借りし、デジタル家電商品の企画・開発・製造・販売を開始。やがて利益を上げて分社化。07年10月にはエグゼモード代表取締役社長に就任した。現フリービット100%出資の子会社である。1万円のデジタルカメラを年10万台以上売り、量販店やパチンコ店の景品などでも存在感を示した同社に、やがてフリービットが注目した。

「面識のあった石田から電話があったんです。『エグゼモードを買うことにしたから。KFEに会いに行くから、うんって言うんだよ』と。でもKFEは『困る』。石田は怒るし、栗原はオロオロするし、田中は相変わらずニコニコ(笑)。私もデジタル家電とITの融合にチャレンジしてみたかったから、『一緒にやりたい』と返事をしたんです」

 09年の完全子会社化後も、高精細なハイビジョン(HD)映像を撮影できる1万円未満のビデオカメラや、YouTubeへも手軽にアップロードできる2万円台のフルHDビデオカメラなどを発表。藤岡によれば、大手が手をつけられない、または手を引く隙間を狙い、低価格で質のよい製品を生み出している。在庫を持たないPBに注力し、今後も受託の仕事を積極的に拡大していくという。その製品の低価格を実現しているのが、100%中国に位置する工場での製造だ。

「長い間、一心同体の付き合いをしている製造工場だから、多くを語らずとも空気を読んで的確に作り上げてくれる。一見の相手では絶対に無理です。時間をかけて築き上げたものは大きいですね」

 月の3分の2は中国出張という藤岡はそう語る。一方、フリービットとの技術融合の成果第一弾がアンドロイド端末とサーバーズマンを搭載したデジタルフォトフレームの共同開発。フォトフレーム自体がウェブサーバーとしての機能を持つものだ。その開発の過程で印象的な出来事があったという。

「アンドロイド端末の開発が遅れたとき、私が『このままなら出せるから、出そう』と言ったんです。でも石田に『だめだ。わざわざ買収して中途半端なことをするくらいなら、やらない方がいい』と叱責されました。トップに立つ人間は極めて誠実でなければならない。それが評価され、結果的に近道になるということを痛感しましたね」

 その厳しい誠実さの一方、藤岡は石田のこんな素顔も垣間見ている。

「開発や製品について話すとき、石田はふだんと違うワクワクした顔をするんですよ。一人のアイデアマンのような、少年のような。その顔を見るたび、二人一緒ならとんでもないものができる気がして、私もワクワクするんです」

 石田と藤岡、二人のワクワクから、今後も世を驚かせ、喜ばせる新しい知恵と製品が生まれてくることだろう。



技術を愛する中国拠点の若きリーダー

中国事業推進室マネージャー 王 剣鋒(ウォン・ジェンフォン)

技術を愛する中国拠点の若きリーダー


「将来、技術を使って、人間の生活を変えるような何かを成したい」

 小学生の王はそう夢を描いていた。中学生、高校生とその技術に対する想いは、日に日に高まっていった。猛勉強の末、王は中国を代表する清華大学へ入学する。大学院では通信情報システムを専攻し、無我夢中で技術を学んだ。卒業を間近に控え、その多くが研究所や大企業へ進路を決める中、王は起業を決意する。

「無線通信の技術を活かして、無線インターネットの世界を新たに作る」。修士課程を卒業した2003年7月、上海で起業。5人共同で創立した上海HAMM情報技術は、中国の独自無線LAN規格に関する通信機器の開発、製造、販売を手掛け、王は副総裁&CTO業務を担った。「人間の生活を変えたい」という子供の頃の夢を、ひたすら追いかけていた。しかし、開発に熱中する中、ある疑問が膨らみ始めた。「技術と社会を変えられる力の間にギャップがある。優れた技術を持っていることと、人間の生活をよりよく変えられるかは、また違った話ではないか」。

 そのギャップを埋めることに王は悩んだ。その答えを探して04年7月、王はソニーの一員となる。テレビ事業本部に加わると、ソフトウェア開発のキーエンジニアとして、新たなBRAVIAブランドの市場導入に注力した。06年7月には BRAVIA Eng ine画質チームのサブリーダーへ、07年9月にはBRAVIA GUIチームのリーダーへと昇格していった。

 主力商品のテレビ開発に携わる日々に、大きなやりがいを感じていた。しかし、それと同時にまた新たな疑問が生じた。「ソニーは人間の生活を変えられる技術力を持っているが、大きい組織ではスピード感ある決断・実行が難しい」。

 ある日、王は石田のブログ「A ’sBIT WORKs」を読んだ。そこには、フリービットが設立間もない00年頃から現在までのロードマップが、事細かく記されていた。王は驚き、感動した。「今でこそよく目にしますが、当時はまだブログの認識はそこまで高くありません。その頃から石田さんは、毎週の様に習慣づけてブログを書いていたのです」

 石田のビジョンや責任感、持続力に触れた王は、フリービットへの参画を熱望する。採用面接で石田と出会うと、その想いはより固くなった。「実行力や発想力、コミュニケーション力が抜群でした。経営者として常に新しいものを創り出そうとする意識も非常に高かった」。

 石田が社員へ繰り返し伝える言葉がある。「早く実行して、早く失敗して、早く修正する」。失敗を恐れずに挑戦することを重んじるため、自然と社員のモチベーションも高まる。王にとっては、ソニーで感じた自らのミッションやビジョンを、実行できるのがフリービットだった。そして09年3月、フリービットに加わる。

 現在、同社の中国拠点では研究開発を中心に手掛けている。ラボはまだ数名規模だが、北京の大学から優秀な卒業生が集まっている。同拠点のリーダーである王がいま目標としていることの一つが、日本の開発を中国へ移行することだ。「日本は理系の人材が少なくなる一方ですが、中国では理系が人気で優秀な卒業生がどんどん出てきます。日本の知識、経験、技術を中国で活かしていけば、いずれは中国がフリービットの基盤となるでしょう」

 中国のインターネット市場はこれから爆発的に伸びる。フリービット設立から10年。まさに、これからIPアドレス需要も爆発しようとしている。

「これからの中国の方向性とフリービットの技術が合致しています。今年が勝負です。経営基盤とR&D基盤を揃え、中国発、アジア発の世界をリード出来る会社を目指します」



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