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トピックス -企業家倶楽部

2014年12月18日

幻の港湾都市が蘇った/吉村久夫 

企業家倶楽部2014年12月号 歴史は挑戦の記録 vol.5


吉村久夫( よしむら・ひさお)

1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「二十一世紀の落とし穴」など。



本格的発掘が始まった


 港には港町があります。よく歌にも唄われます。エキゾチックで情緒たっぷりな町だからでしょう。十三湊にも湊町がありました。歌に唄われたかどうかは知りませんが、古くからいろいろな文書にその存在が記されていました。本格的な発掘が始まったのは平成時代に入ってからでした。やっと中世の幻の港湾都市が蘇ったのです。

 発掘調査をしたのは国立歴史民族博物館と富山大学でした。1991年(平成3年)から2003年(同15年)へかけて、砂州に埋もれた十三湊町を発掘したのです。その結果、きちんと計画的に造られた都市だったことが判りました。道路の幅の大きさなどから見ると、西の博多にも匹敵するような立派な湊町でした。2005年(平成17年)には国史跡の指定を受けました。

 湊町は、船が日本海から出入する前潟と呼ばれる細長い水路と十三湖の間の砂州に造られていました。したがって、細長い町です。今も集落が存在しています。旧十三小学校もあります。その半島状の町を南北に二分して、大きな土塁と堀が造られていました。土塁は幅10 メートルもありました。版築工法で固められていました。土塁の南側には幅6メートルの水堀が掘られていました。

 なんだか城の土塁と堀を想起させます。しかも、南側から北側に抜ける場所は、いまも古城でよく見かける桝形になっていました。真っすぐには行けないのです。簡単に侵入できない構造になっていたようなのです。もしかしたら番人でもいて通行人を誰何したのかもしれません。その理由は土塁の北と南では町の性格が違っていたからでした。北側は役所と役人、つまり武家屋敷地区、そして南側は商人や職工の住む、いわゆる町屋地区だったのです。



東西南北を分けた幹線道路

 東西に横たわる大きな土塁と水堀を貫いて、南北に中軸となる幹線道路が造られていました。この中軸道路は両側に側溝が掘られていました。道幅は土塁の北側が7.4メートル、南側が5メートルでした。北側の役所地区が道路幅が大きいのです。西の港湾都市博多でも幹線道路の幅はおよそ6メートルでしたから、十三湊の中軸道路はそれに匹敵します。ここから十三湊が博多と比肩する港湾都市だったのではないかという見方も出てくるわけです。

 土塁を渡って北側へ入ったすぐ右手に旧十三小学校の跡があります。ここが領主がいた政庁のあとではないかと見られています。ここから中国や朝鮮から輸入したと見られる白磁、青磁の陶磁器、天目茶碗、また国内産の陶磁器、仏花瓶など貴重なものが出土しています。私も旧小学校の跡に立って見ました。運動場はまだそのままでした。すぐ横に大土塁の跡が見えました。

 中軸道路を土塁の南側へ車で走りますと、すぐに道路脇に「中世の国際港湾都市」という看板がありました。それを過ぎると町屋跡です。短冊型に区画された町屋地区が500メートルほど続きます。中軸道路沿いにきちんと区画されているのです。昔の区画がそのまま現在の畑の区画になっているのに驚きました。町屋は間口が5~6メートル、奥行きが約15メートルです。道路に面して家が建ち、奥に井戸があったといいます。各家の間は板塀や溝で仕切られていました。

 この町屋地区に住んでいた人たちはどんな人たちだったでしょう。港湾から250メートルほど離れた砂州の中央部ですから、港湾の仕事と直接関係しない人たちだったでしょう。商業、金融業、醸造業などに従事していた人たちでしょう。中には異国の商人もいたかもしれません。職人たちも住んでいました。商人と職人は住み分けされていたといいます。都市計画がちゃんと行われていたのです。



最盛期は13~15世紀

 十三湊の湊町はいつごろ形成されたのでしょうか。最盛期は鎌倉時代の13世紀から室町時代の15世紀といわれています。実際にはもっと古くからあったのだと思います。十三湊が環日本海交易の拠点として浮上してきたのは鎌倉以前、平安時代からだったと思うからです。もちろん、町は自然発生的なものだったでしょう。港湾事業の直接の関係者が中心だったかもしれません。

 都市計画に沿って大土塁や中軸道路ができたのは14世紀の半ば頃でした。南北朝動乱を経て室町幕府ができた頃です。世の中は混乱していましたが、その背景にあったのは経済の成長でした。海外貿易も盛んでした。世の中全体が新しい秩序を求めて動き出していたのです。それは戦国時代まで続き、江戸時代になってやっと静かになりました。

 エネルギーに溢れた動乱の時代にあっは、己の権益を守り発展させるための挑戦が必要不可欠です。そうした社会風潮の中で十三湊の都市計画が行われたのです。そこには土塁と堀に守られた政庁の存在に見られるように、新しい指導層が求められていました。実は港湾都市十三湊はまだ全貌を現してはいません。現在人々が住んでいる地区も発掘すべきだという意見もあります。それはなかなか難しいことかもしれませんが、発掘関係者の一層の挑戦を期待したいものです。



湖周辺に城と宗教施設

 湊町は湊と町だけで成立しているわけではありません。周辺施設があってはじめて大湊町が成立するのです。では、その周辺施設とは何でしょうか。それは城と寺社仏閣です。近年、湊町と平行してそれらの史跡も発掘されています。

 城の代表は福島城と唐川城です。福島城跡は十三湖の北岸すぐの所にあります。内郭と外郭の二重構造になっています。内郭は一辺200メートルの居館跡です。外郭は一辺約1キロメートルの三角形になっています。面積にして62ヘクタールという大きなものです。十三湊の最盛期に築城されたことが確実視されています。私も内郭に入って広い緑の原っぱを眺め、周囲の土塁を確認してきました。

 唐川城跡も十三湖の北岸にあります。ただし、標高160メートルの独立した丘陵の上にあります。遠く一帯を眺望できる交通上の要衝に立地しています。軍事施設としては福島城に勝るといっていいでしょう。十三湊の領主が最後の防衛城としたというのもうなずけます。江戸時代末期の国学者で旅行家として有名な菅江真澄も訪れて紀行文を遺しています。

 宗教施設としては山王坊遺跡が有名です。十三湖の北岸の谷の奥まった所にあります。福島城と唐川城の中間地点といっていいでしょうか。中世に十三千坊といわれた聖域でした。日吉神社があります。昼なお暗い杉林の中に神社仏閣の遺跡があちこちに散らばっていました。苔蒸した礎石が往時の盛時を語りかけているようでした。

 これらの遺跡を経巡って、私は十三湊が湊だけで孤立した存在ではなかったことを確認しました。城や神社仏閣によって、ぐるりと周りを守られていたのです。それは大十三湊と呼んだほうがいい都市構造でした。しかし、盛者必衰といいます。挑戦者は成功する時もあれば失敗する時もあります。それに時の移ろいは無情なものがあります。大十三湊の構造も敵に破られる時がきました。次回からはその話をいたします。



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