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トピックス -企業家倶楽部

2004年02月27日

新生アスクを担う百戦錬磨の経営幹部たち/廣崎利洋を支えるスタッフ

企業家倶楽部2004年4月 アスクプランニングセンター特集第4部



 野村グループで法人営業とM&Aを手がけ、多くの大型案件をまとめてきた佐々木弘亜。ダイヤモンド社の社長・会長を長く務め、松下幸之助から若手ベンチャー経営者まであらゆる創業経営者を見てきた川島譲。最も古いプロパー社員として設計・プランニングの分野で卓越した実績を上げてきた有田勉。長銀で培った金融知識とノウハウで新しいビジネスモデルを構築する若きCOO(最高執行責任者)村瀬晶久。上海アスクをトリプルAの優良企業に育て上げた原田利明。廣崎をとりまくアスクの幹部は多士済々である。それぞれがトップと夢を共有し、持ち味を発揮し、新生アスクの実現に向かってひた走る。(文中敬称略)



法人営業とM&Aのプロフェッショナル

取締役副会長 佐々木弘亜氏

 一九六二年、野村證券入社。七二年から法人営業畑を歩んできた。八〇年当時、大阪支店事業法人部にいた佐々木の上司は“法人営業の神様”と言われた豊田善一(元野村讃券副社長)であった。そして、佐々木が担当していたニチイ(現マイカル)の副社長は廣崎の叔父で、専務が廣崎の実父という縁があった。

 佐々木は「おもしろい仕事をしている若者がいるのだが」と廣崎を紹介され、上場を考えていると聞き、さっそく豊田に報告した。

 「どんな経営者か見てくる」と出かけた豊田が興奮して帰ってきたのは八三年のこと。

 「久しぶりにきちんとした戦略を持った起業家に会ってきた。ハードでなくソフトに目をつけているところがいい。目の輝きが違う、いい男だ。是非とも上場を達成させてやろう」と豊田は言った。

 アスクはこうして八八年九月に野村證券を主幹事として店頭市場に上場したが、その少し前に佐々木は、M&A仲介会社の野村企業情報の設立に奔走していた。豊田は八六年に国際証券に転籍。社長 ・会長を務めた後、病を得て少し体が不自由にな っていた。

 九二年、 アスクは創立二十周年 の一環として東京本社ビルを竣工。本社ビル披露式典を行い、それまでの恩人を多数招いた。

 「この時、車椅子の豊田さんが現れると、アスクの社員が我先にと奪い合うようにして、豊田さんを車椅子ごと抱えて新社屋を案内していた。私はそれを見たとき、 一期一会、縁を大事にし、情と理を熱心に説 いていた廣崎の経営理念がきちんと浸透する様子に、涙が出るほどうれしか った」と佐々木。

 野村企業情報では専務として、”営業の天才“である社長の後藤光男(現イトーヨーカ堂監査役)とタッグを組み、ニチイによる日産建設の買収、松下電器産業による米国映画会社MCAの買収といった大型M&A案件を成立させていた。法人営業のプロフェッショナルとして築いた人脈は半端ではない。

 二〇〇〇年、野村グループ役員定年で退職したあと、廣崎に請われ経営の補佐をするため入社することを豊田に報告に行ったとき、「それは良かった、廣崎さんを頼むぞ」と豊田も喜んでくれた。

 これからのアスクは、プランニングと金融と不動産を融合させたビジネスモデルを推進していくが、そこで求められるのはアセットマネジメント(資産運用)とセキュリタイゼーション(証券化)のノウハウ。これがあればアスクが直接、投資家から資金を募り、都市再生ビジネスに独自で取り組むことも可能になる。野村で培ったノウハウと経験、広い人脈を存分に発揮する舞台が整う。
 
 「銀座三丁目のダイエービルを『シャネル』が日本市場の旗艦店にすべく買収した時、そのアレンジャーをしたのがアスク。『ファッションビル』という言葉を最初に使ったのも廣崎です。これからはいかに不動産に付加価値をつけ、収益を高めるかというビジネスに入っていく。単なる内装業ではなく、投資と金融・証券の世界に入っていきます。エキサイティングで創造力に富んだスケールの大きな廣崎の心友として、新しい世界を切り拓いていくことを役割の一端として支えていきます」と、アスクニュービジネスマネジメントの社長もかねる佐々木は言う。野村グループで培った証券・金融の知識と営業力、豊富な人脈で新たなビジネスモデルを推進するニューアスクの支柱を担う。



オーナー経営者を知り尽くした指南役

取締役 川島譲氏
 
 一九三六年生まれ。五九年、ダイヤモンド社に入り、週刊ダイヤモンドの記者となった。七二年同誌編集長兼役員となり、三十八歳で代表取締役になり社長代行として、同社の経営を一手に引き受けた。その後社長、会長を長く務め九五年に退社。九六年にはオーナー経営者らの出資を受けて、ベンチャー経営者の応援をする会社を立ち上げた。そこでは約二百人の若手経営者と面談し、そのうち四十三人の経営者を塾生としてCEO塾を始めた。平均年商十五億円であった。三年後、そこから年商百億円を超える会社が五社出た。もう教えることがなくなった。そんな時に、廣崎と出会ったのである。

 「友人の紹介で九八年、廣崎会長と出会いましたが、瞬間的に思ったのは新しいタイプの経営者だということ。三十代のベンチャーとは違って、すでにできあがってはいるけれど、松下幸之助、本田宗一郎、盛田昭夫などと会ってきた私からすると、戦後生まれのオーナー経営者の中で、こういう人が出てきたんだなと思った。頭の回転が速く非常に合理的な判断ができるところが強い印象に残った。しかし、つき合っていくうちに、恐ろしくアナログの人だとわかった。両方持っている異彩の人ですね」と廣崎を語る。

 三十代の経営者とは言葉が通じないが、廣崎とはよく分かり合える、と川島。ジャーナリストで経営者でもあった彼は松下幸之助から経営を教えられた経験を持つ。

 三十八歳で代表取締役に抜擢された川島を待っていたのは、凄まじい労使紛争であった。あんまりひどいので新聞に載り、松下幸之助が心配して、電話をかけてきた。そこで川島は大阪まで行って、状況を説明した。

 「オーナーでもないのに、社長になったばかりに無能経営者だとかひどいことを言われて、もうやってられませんよ」と川島は幸之助に思いの丈を吐露した。

 「それはかわいそうでんなあ」と幸之助。

 「そうでしょう」言うと、「あなたではない、そんな社長の下で働いている社員がかわいそうだ」と言われた。

 愚痴を言うぐらいなら辞めてしまえ、と幸之助に言われ、はっと気づいた。それから気持ちを入れ替え、団体交渉も苦にしなくなった。

「どんなに辛いことでも、どこかで楽しめるような人間でないと、絶対にリーダーになってはいけないということなんです」

 その意味では、廣崎もどこかで辛さを楽しんでいるようだ、と川島。

 「廣崎会長は完壁主義者。他人に対しても自分に対しても完壁を求めるから、ものすごい努力をしている。年中、これでも足りない、これでも足りないと自分にプレッシャーをかけ続けているはず。絶対に弱みを見せないが、非常にきついはずです。それが彼のバネの源泉であることも事実。弱気なことは言わないし、言えないんじゃないかな」

 オーナー経営者には社内で相談できる人間はいない。それでもAかBか、どうしても迷うときは、相談してくれと廣崎には言っている。

 「それとベンチャー企業というのは総じて馬力はあるけれど、行儀はよくない。大企業のように躾が行き届かないからです。家庭と一緒なんです。いくら馬力があってもローギアで走り続ければ、いつかエンジンが焼きついてしまう。そうした意味で、社員の躾の面で協力できればと思っています」



廣崎学校の筆頭

取締役 有田勉氏

 七八年、第五期の新卒で入社した。一九五六年生まれ。元々工業デザインを志望していたのでTOTOやINAXなども受けたが、当時のアスクのオフィスがブティックのクレヨンにそっくりだったのに衝撃を受けた。社長の廣崎は三十歳、長髪で江ロ洋介風であった。かっこいいな、と思い、設計部員として入社した。

 初めて手がけたのは松山市のミミカというブティック。「デザインをよく見ておけ。俺はこうした方がいいと思う」と廣崎に言われた。人に興味を持たせるファサード正面の作り方。照明、ウインドウの飾り付け等々、廣崎から手取り足取り教えられた。

 うすっぺらなものでなく、長く愛されるという考え方で、黒っぽい店をつくったところ、その店は非常によく売れた。

 入社するなり生活が変わった。毎日のように徹夜で、一年で三十から四十軒の店を設計した。一糸乱れぬ統率がとれていた。

 営業で客先に訪問するときも、「今からお客様のところに入ります」と必ず電話を入れる。すると、こう言われたらこう言う、こういうときはこう答えると、すべてを廣崎と想定問答してから打ち合わせに臨んだ。客との交渉の中で少しでも嘘があると、それが後から高いツケになって返ってくる。一つの言葉が命取りになる、非常にシビアな世界だからだ。「見積書もデザインだ」と廣崎に言われた。

 「廣崎が会社に入ってくると、入り口側から社内の雰囲気が変わってくるので本人の姿が見えなくてもわかりましたね」

 それまで音楽を聴きながらリラックスして仕事をしていたのが、ぴりぴりとした緊張感に包まれる。非常に厳しい。的を射すぎて言葉もない、という怒り方だ。

 毎年年初から「人が三時間かかるものは一時間でせい」「このビル一棟を企画せい」という勢いで仕事をし、十二月には年末研修になる。そこでもまた叱咤激励。

 「二十五年間やってきましたが、褒められたことは一度もないですね。叱咤ばかりです」と有田。

 二十八歳で部長、三十歳で取締役となる。プロパー社員のホープである。しかし、紆余曲折もあった。十年ほど前、年末に向かって緊張していた時期、大阪のニューオータニで廣崎と面談し、辞めたいと言ったことがある。自分の評価が低いという不満があった。

 「辞めたらいい」と廣崎に言われ、返す言葉がなかった。「思い上がっていた自分を思い知らされました。その言葉は年末の研修旅行で忘れちゃいましたよ」

 入社したときの二十一歳と三十歳の関係がそのまま続いている。その関係を全うし、人生をかけて付き合っていきたい。



第2創業の担い手

上席執行役員 COO兼管理本部長

村瀬晶久氏

 九一年、京都大学経済学部卒業後、日本長期信用銀行(長銀)に入行、大阪支店に配属された。六カ月後に担当会社として割り振られた十二社のうちの一社がアスクであった。「あいうえお順ですから、社会人になって初めての担当会社がアスクだったんですよ」二十三歳、生意気ざかりの村瀬はアスクを訪問するとさっそく「ここはよくない、こうするべきだ」などと遠慮会釈ない意見を述べた。アスクの役員も舌鋒鋭いの新人行員に手を焼きついに、廣崎が相手をすることになった。

 「何で君なんかにそんなことを言われなければならないんだ」さすがの廣崎も怒った。

 その後、長銀は破綻。途中で辞める同僚も多かったが、自分が選んだ会社だからと、二〇〇〇年二月二十九日の長銀最後の日まで勤め、翌三月一日アスクに入った。経営企画室長となり、商業施設、不動産、金融を組み合わせるビジネスモデルの構築にかかわってきた。

 「こういう発想は今出てきたものではなく、元々長銀や興銀などがめざしていた事業モデルなんです。また産学官の連携モデルが脚光を浴びているように、互いのよいところを出し合えばいいものが生まれるという発想は昔からあった。ただ役所や銀行は絵は描けても、実際に動いてそれを具現化させることはできない。それができる人は少なく、現実には同床異夢でうまくいったためしがない。なぜなのか。今になってやっとその理由がわかってきました」

 みんな見ているところが違うのだ、と村瀬は言う。

 「たとえば商業施設のオープンにしても、ある人は儲かっているだろうなと思うし、ある人はどんな人が来ているのだろうと思うし、金融の人はここが儲からなくなった時はどうしたらいいかと考える。一つのことをやってもみんな目的が違う。その落としどころをどう見つけるかは、いろいろなノウハウを持っていて、いろいろな人と話すことができないと無理なのです」

 だからこのビジネスをうまくやっていくには会社の枠を超えた発想でプロジェクトを生み、多様なネットワークをつくりながら実行していくことが大切。その上で、みんなの思っていることが違うとき、落としどころを心得ていて、一つにまとめることができる存在が求められる。その役割を担うのがアスクだと考えている。

 COOに抜擢されて半年あまり。第二創業に向けた新生アスクの構築を期待されている三十六歳である。

 アスクに入って、言うこととやることを一致させる難しさがよくわかった。判断はできるが決断は難しい。廣崎には「詰めが甘い。理屈で考えている」と言われる。生意気を言うが、まだ緻密さに欠けると、自分でも反省している。

 週の初めは大阪、後半東京という生活。出社した瞬間に仕事を始めなければ気がすまない。気分転換したい時はプールでさっとひと泳ぎしてくる。学生時代は野球をしていたが、最も得意なのは四歳で始めたピアノである。アスクのカルチャーフォーラムではショパンを弾いて聴衆をうならせる。

 新しいことを導入できるパワーを持っているのがアスクの強味。廣崎については「もっと注目される人になってほしい」と思っている。



中国ビジネスの切り札

上海アスク社長 原田利明氏

 原田の父が家庭用品の卸問屋を営んでいた関係で、ニチイの専務だった広崎の父と交友があった。原田は家業の卸問屋に勤めたが、潰れたのを機に、原点に戻ろうと思った。三人に相談したうちの一人が廣崎だった。

 「アスクに入れば、いろいろな企業を見ることができます。明日から来なさい」

 ゆっくり考えようと思っていたら、いきなり言われた。八五年三月三日、四十三歳だった。

 すぐに新入社員研修と合流することになり、原田は研修所の校長先生ということで研修に行った。

 「廣崎の言葉が新鮮だったんです。無から有を生む、礼儀・礼節とか、私が日頃漠然と思っていたことが、そこでは言葉になっていたので、ここでがんばろうと決めたのです」

 原田の希望はプランニングだったが、総務部で人事を任された。

 九二年夏、上海で投資コンサルティングをしている友人がいた原田は、「上海に行きませんか」と廣崎を誘い、同十月に上海に行った。それがきっかけで九三年十一月、中国の建工集団グループと組み、日本六〇%、中国四〇%の出資で上海アスクをつくった。

 「(上海には)誰が行きますか」と聞くと「あなたがやったらいい」と廣崎に言われ、思ってもみなかったことに唖然とするばかりだった。

 即答できず、当たると評判の易者に見てもらったのは五十歳の時。行きなさいと出た。チャンスかなと思った。

 上海に行くにあたって廣崎は言った。

 「雨の日には雨の中を、風の日には風の中を。原田さん、贅沢はいつでもできる。上海では上海の生活をしてください」

 九四年一月、女性社員を一人連れて上海に赴任した。

 最初の仕事はカラオケ店の内装。日本のように後払ではなく先払いでやった。おカネさえ先にもらっておけば、トラブルになることはない。ただ現金の中にもニセ札が混じっていることがあるので注意を要する。

 中国での一番の悩みは、社員の真面目さ緻密さロイヤリティといった面で、日本人とではレベルに差があることだった。一生懸命教育しても、仕事を覚えるとすぐに独立してしまう。

 ある日、四人の中国人社員が辞めて独立したいと言ってきた。

 「自分でゼロからやるのは大変だから、アスクの信用の中で独立しなさい」と原田は言って、彼らそれぞれを事業主の形で処遇することにした。すると、それまでは与えられた仕事をするだけだったのが、暇な時は自分たちでも営業をするようになった。

 「辞めたい?ダメ。私はあなたのお父さんよ。アスクはあなたの会社よ。だから掃除をしなさい」といった感じで、今では中国人社員の扱いもお手のものだ。

 上海アスクの顧客は森ビル、日本総領事館、電通、三井物産、ソニーなど日系企業が大半だったが、九七年のアジア金融危機を機に、日系の顧客だけに頼るのでは危ないことがわかり、中国企業への営業も積極的に始めた。昨年は中国銀行の頭取、副頭取、部長らのオフィス、VIPフロアの内装を手がけた。これは同社が上海で最も高級な仕事をしていることを意味している。

 現在、社員は日本人四人を含め三十五人。売上高は約六億円、利益六千万円。中国の金融機関からは信用度トリプルAの評価を得るまでに成長した。「来年は売上高七億円、その翌年は入億四千万円をめざします。北京や深馴にも進出したいと思っています」と原田。中国ビジネスを一手に引き受ける頼もしい社長である。



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