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トピックス -企業家倶楽部

1998年10月27日

【ディスコ特集】自分に厳しく人に優しいトップのもとで可能性を切り拓く六人/関家憲一を支えるスタッフ

企業家倶楽部1998年11月号 特集第4部



広島県呉市で生まれた一砥石メーカーだった第一製砥所が、半導体市場で欠かせない役割を果たす世界のディスコになった裏には、多くの人間の汗と涙がある。先代の創業者と二代目の関家だけの力ではない。関家姓の幹部が多いのは同社が同族の団結力を核に成長してきたことを示しているが、決してそこに留まろうとしていない。志を共にするさまざまなキャラクターがディスコを発展に導き、いまを支えている。そして志の輪はさらに広がり、未来への橋渡しをしていく。



創業期から息づく進取の精神

 ディスコの創業は一九三七年、先代の関家三男(みつお・故人)が広島県呉市に第一製砥所を設立したことに始まる。先代は八人兄弟姉妹の三男(さんなん)で、男性兄弟全員が事業に協力した。

 「もともとは兄弟で和気あいあいと始めた会社なのです」と語るのは取締役ASカンパニープレジデントの関家英之。英之は五男の長男である。憲一は三男(さんなん)の長男。四男の長男が広島を守る常務取締役広島事業所長の関家巌である。人に説明するときには、憲一が三の一、巌が四の一、英之が五の一というようにいう。この言い方で表せば、代表取締役副会長の関家臣二は三の二。関家の三つ下の弟である。


 先代は事務系の人間で、創業三年後には兄弟たちに工場を任せて上京、東京に本社を移している。この積極性がその後の発展の基になった。製品開発にしても、他社と同じ砥石をつくり続けるのを嫌い、競争相手より薄いものへ、薄いものへとシフトしていった。


 「脱皮しない蛇は死ぬ」と関家は口癖のようにいうが、新しい方向へ常にチャレンジしていく精神は創業当初からあったのだ。


 一九五六年、厚さ〇・一四ミリ(一四〇ミクロン)という極薄レジノイド砥石を日本で初めて開発。万年筆のペン先の切割りや注射針の切断などに、盛んに使われるようになった。



一点集中の突破力で半導体装置事業を切り拓く

 この頃、関家憲一・臣二兄弟は神奈川県大磯町で青春時代を謳歌している。二人は共に慶応義塾大学に入り、空手部に籍をおいた。性格は違うが仲のよい兄弟だった。兄が四年のとき弟は一年である。


 当時のことを知っているのが、代表取締役PSカンパニープレジデントの溝呂木斉である。空手部で兄の後輩、弟の先輩という立場だった。


 「関家社長は私の二年先輩で、全日本級の選手でしたから憧れの存在でしたね。当時は痩せていて、切れ味のよい空手がびしびし決まっていた。それでいて非常に紳士的で、サンビームというオールドファッションのかっこいい車に乗っている。大磯の自宅に遊びに行くと、ウクレレを弾いたりして、とにかく、かっこいいという印象が強いです」


 臣二については、学生時代は目立たなかったという。学生で三年の差は大きいからそれも無理はない。が、仕事を一緒にするようになると、兄に一方的に従うわけにはいかなくなる。


 二人とも気は強いが、弟もすごいんですよ、と溝呂木。

 
 「一点集中の突破力では、右に出るものがいない。いい砥石、いい機械をつくっていこうという発想は副会長から生まれる。副会長がエンジニアを使ってどんどん推進していき、社長が全体を見るという組み合わせです。兄弟が猛烈な議論をしながら進めてきた結果、いまがあるんです」


 関家が先代から社長を継いだのは八五年。それまでは先代をトップにして、三人のスクラムを組んでいた。兄弟はよく喧嘩をしたが、上に先代がいたから、仲直りは自然にできた。


 臣二は子会社のテクニスコに移ろうとしたことがある。同社は製品を切るサービスをする会社である。


 「若いころは、兄弟いっしょにやると絶対喧嘩になるよと、みんなに言われた。実はテクニスコはそのためにつくったんです。ところが親父が、おまえがその気なら(テクニスコを潰すために)徹底的に戦ってやると言うんです。なんでもいいよという人が、そこだけは譲らなかった」と臣二。


 事業の根幹である「切る、削る、磨く」については社内一のスペシャリスト。切るノウハウが頭と体に染みついている。


 六八年、同社は厚さ四〇ミクロンの超薄型砥石を開発したが、砥石を使いこなす装置がどこにもないため自社でつくることになった。ここで生きたのが臣二のノウハウである。当初は装置を外注でつくるつもりだったが、外部の技術者は、臣二のアドバイスを聞き入れてくれなかった。砥石屋のくせに、機械屋に生意気なことを言うなと言われた。


 「あんたの言うとおりにやれたら、億万長者になっちゃうよと、バカにするんです」
 
 偉い博士に頼んでも、やはり全然言うことを聞いてくれない。文学部出身で図面も書けないから素人だと決めつけられた。しかし、臣二はどんな偉い博士より、切ることを知っていた。刃の回転数や押す強さ、スピード、水のかけ方、その複雑な組み合わせを体得していた。


 思い通りの装置をつくるため、技術者を自社に引き入れた。自社で試行錯誤を繰り返し、七五年ついに本格的半導体切断装置ダイシングソー一号機を完成させた。当時、アメリカにも同様の装置はあったが、切る能力では「クラウンと軽自動車ぐらいの差があった」という。


 半導体切断装置部門を立ち上げ、主力事業に育てた功績は大きい。



実を結ばなかった海外事業も、いまはいい思い出

 関家英之が入社したのは七四年、ダイシングソー一号機が完成する一年前だ。呉市の工場の隣で育った。幼い頃から砥石に親しみ、なんの疑問も抱かずディスコに入った。


 入社三年目、二十五歳のときに、ニュージーランドに行った。現地の会社とライセンス契約を結び、レジノイド砥石の製法指導を行ったのだが、その後、その会社は競合会社に買い取られ、結果的にライバルに技術を渡すことになった。


 「裏に大きな組織があったように聞いてますが、それほど重要な技術ではなかったので、いまではいい思い出です」という。そういうことより、当時日本で生まれた子供に生後百日目で対面し、この子がいま二十歳になっていることの方が印象深い。


 「子供の年を数えて、あれから二十年経ったんだなと思うんです」


 その後、三十五歳まで呉で製造、総務に関わり、三十九歳まで大阪支店長を務め、四十歳から本社にいる。振り返ると「シリコンサイクルの波の中で踊っていた」気がする。


 ディスコの商品開発については、これは売れるぞという感覚で開発して売れたものは一つもないという。


 「ディスコの場合は、お客様に育てられたのです。お客様の方から、こういうものが欲しいというニーズを常にいただき、それに対応できる会社だったから、ここまでこれたのです」


 メーカーの心得として、一つの重要なポイントであろう。



国際企業の先兵として活躍した 学卒一期生

 より性能アップしたダイシングソーが発売された七七年、神田外語学院から新卒として入社したのが、取締役サポート本部長代行兼総務部長兼経営情報部長の田村隆夫である。ディスコが学卒者をまとめて採用した第一期生である。


 「当時は会社側も新入社員の対応に慣れてなくて、二千円ぐらいのお弁当を出してもらったものです」


 海外を担当していた関家(当時副社長)に直接、あいさつの仕方から、ノックの仕方まで指導された。


 入社三年目にオーストラリアに飛んだ。販売のパートナーだった現地のオーナーと五〇対五〇で工場を立ち上げ、その会社の利益代表として行ったのだが、最初にやった仕事は工場のペンキ塗りだった。


 「工場オープンの日。短パン姿でペンキを塗っていたら社長がやってきて、おまえ何をやってるんだと言われました」


 現地を訪れたとき関家は必ず、田村のアパートを見にきた。


 「もっと、きれいにしろよ」と注意されたが、気遣いがありがたかった。


 入社して二年目の頃、田村の同僚の女性が風邪で休んでいたとき、関家がインスタントのおこわなどをもってきて、これを渡してくれと言われた。気遣いの一つひとつが非常に配慮深い。優しい人だなと思った。


 オーストラリアの会社のオーナーは販売の人でメーカーのことがわかっていなかった。工場で生産せず、台湾から安い品物を買ってきて、ディスコの名前をつけて売ったりする。メーカーは工場の稼動率を上げることによってコストダウンするのだ、と何度説得しても聞き入れられないため、パートナーシップは解消することになる。


 オーストラリアに四年いて、帰国して半年後にアメリカへ。カリフォルニアの青い空の下で三年過ごし、次にスイスとドイツ。ヨーロッパには五年半いた。海外勤務は合計十二年半。その間、三人の子供が生まれたが、それぞれオーストラリア生まれ、アメリカ生まれ、ドイツ生まれだという。



部下の意見を正面から受けとめ、議論しながら器を広げる

 半導体切断装置ダイシングソーは瞬く間に世界のシェアを拡大していった。そうしたなかで、ディスコはキャリアのある人材を求めていた。


 溝呂木は八三年、二十一年勤めた横浜ゴムから転職してきた。慶大空手部で一年後輩だった関家臣二と、中華レストランで偶然出会ったのがきっかけ。しばらくして、ディスコに誘われた。横浜ゴムでは本社で全体の計画を立てるセクションの責任者をしており、最初はその気はなかったが、半導体業界の将来性、おもしろさを説かれ、心が動いた。


 営業企画部長として入社、翌年取締役に昇格した。入ったばかりで、なぜ彼が役員なんだという先輩社員の不満の声があった。確かにその通りだ。実績で示さなければと思った。


 その後、同社の新規事業である半導体前工程の縦型拡散炉プロジェクトのリーダーを五年間担当した。


 大手企業のサラリーマンからオーナー企業に転職して、とまどうことも多かったが、関家兄弟のしたたかさには感心した。


 「たとえば、これは大事だと思ったら、実験などにもどーんとおカネを使う。いかに会社を発展させるかという場面での決断力は、大企業のサラリーマン社会とはまったく異質なもの。企業家精神があるんです」


 溝呂木は一方で、サラリーマンの立場からの意見を、関家にどんどん言った。溝呂木が入社した当時は、先代社長と関家憲一副社長、関家臣二専務のトロイカ体制で会社は運営されており、すべての権限が三人に集中していた。経営手法としては完全なトップダウンであり、当時としてはそれは正解だった。しかし、会社が大きくなるにつれて、権限委譲が必要な部分も出てくる。


 八五年、関家が社長を継ぐが、下から意見されることには慣れていなかった。溝呂木が言いたいことを言うと、その反応が関家の顔に出る。溝呂木も社長に意見するときは顔が強ばる。こんなやりとりをしたことがあった。


 「溝呂木さん、だいたいね、そんなに怖い顔をしてものを言うもんじゃありませんよ」

 「冗談じゃない。社長の顔の方がよっぽど怖いじゃないですか」


 溝呂木はサラリーマンの立場から、多くの人はこう考えていると関家に進言する。関家はその意見を聞き入れながらも、企業家としての考え方もわかってくれと説く。溝呂木の方も勉強させられた。こんな会話もあった。


 「社長は言いたいことはどんどん言えと言ってますけどね、部下からすれば、社長にそんなに簡単に言えるものではありません。うちはそんな雰囲気じゃないですよ」

 「もし私がそうでなかったら、溝呂木さんはとっくにうちにはいませんよ。あなたが言っていることを、私は受け入れてきたでしょう」


 関家は言われたことを決して聞き流さない。意見の対立はあっても、それに対して真剣に考え、翌日には必ず、答をもってきてくれた。


 考え抜いた結果、自分が変わらなければいけないと思うと、変わることができる人だという。


 「社長は脱皮しない蛇は死ぬとよく言いますが、その言葉通り自分自身が脱皮しているんです」


 溝呂木から見て、いまの関家は十五年前と比べて、比較にならないくらい器が大きくなっているという。



体質強化のためにやってきた助っ人

溝呂木が入社する少し前、八二年八月に、三和銀行から業務命令で出向してきたのが、取締役経営企画室長の中山勉だ。株式公開の手伝いをするという名目だった。


 半導体装置メーカーとしては、まだまだ内部固めができていなかった。最初にやったのは定款のチェック。内容が古かったので、現代的にしましょうと進言して、ほぼ現在の表現にした。人事関係の規定はそろっていたが、組織規定などの基本規定ができていなかった。職務権限規定などの基本的な規定の原案をつくって、関家と一対一で一行ずつ詰めた。


 出向して一年半後に、ディスコの正式な社員となった。当時四十一歳。銀行の上司からは、転職の最年少記録をつくる気かと言われた。


 経営近代化プロジェクトを立ち上げ、経理面の整理を行い経営企画部長、総務部長、経営サポート本部長を経て現職に至る。


 アメーバ経営導入の際は責任者をした。またディスコフューチャープロジェクトでは、事務局業務を担う。関家のスタッフとして、資本政策、IR(自社株の投資価値を投資家に訴える広報活動)、法務関係など、さまざまな仕事を担うが、「言えない仕事が多いんです」という。


 入社当初に比べて、ディスコの企業体質は相当強くなっているが、それは関家が新しい経営手法を積極的に導入してきたからだ、と中山。会社の数字をガラス張りにするアメーバ経営の導入はその一つ。これにより、社員が利益意識に目覚めたのが大きい。


 勉強熱心な社長に遅れをとるまいと必死である。ディスコの成長と共に、自分も成長してきた。関家は人に好かれる人柄。それも徳の一つだと、中山は思っている。


 まじめすぎて息苦しくなるときもある


 取締役ASカンパニーバイスプレジデントの関家圭三は関家の長男である。八九年入社の三十三歳。臣二の長男である取締役PSカンパニーバイスプレジデント兼技術開発部長の関家一馬と共に、次世代のディスコを担うことを期待されている。


 慶応大学理工学部卒業後、スタンフォード大学に二年間留学。その後二年、サンフランシスコ郊外のディスコハイテクアメリカに勤務、本社に戻ってからは経理部に所属した。


 大学卒業時、ほかの会社で働くか、アメリカに留学して英語を学ぶか、どちらかを選べ。どっちにしても二年間だぞと、関家に言われた。


 経理部で一年数字を学んでから、アメーバ経営プロジェクトに参加。五年前、砥石部門であるAS事業部の部長になった。現在はASカンパニーの海外関係を担当。建設中の韓国工場を見ている。


 特に力を入れているのは、今年二月に設立したアメリカの販売現地法人ディスコセアアメリカを軌道に乗せること。同社は石材など荒物を削るための砥石を売る子会社。五年後には十億から三十億円の売り上げにするつもりだ。


 息子として見ると、関家は他の人に対してより、より自分に厳しいと感じている。週末に家で顔を合わせるときも、最近は会社との違いがなくなっている。家でも堅い話になることが多い。


 八九年の暮れに亡くなった先代に、入社の直前、一馬と二人で会社を盛り上げてくれと言われた。それ以来、自分たちがやるしかないという気にはなった。ただ関家は細かいことは言わない。わかっているだろうという暗黙のものがある。それがプレッシャーにもなる。


 関家は公私混同にうるさい。会社のものを家にもって帰るのも、自分のものを会社にもっていくのもいけない。線を引かないと、だらしなくなると言われている。


 いろんな局面に関家のまじめさが表れる。まじめすぎて息苦しくなる部分もある。


 「こんなことをやりたいというとき、まじめさだけで駄目になることがあります。また数字に強いので、チェックも細かく入り、それを辛いと思っている人も多いです。社長は完全に任せられる人がいないから俺が細かくなるのだと言いますが、下の立場で言うと、任せてくれないからそうなると思う」


 カンパニー制になったのだから、細かいところはもう見なくてもいいのではないか、というのが息子の意見だ。


 関家は、物事を整理して要を鋭く突く判断力が優れている。また、早くから世界を歩き回ったバイタリティは、なかなか真似できないと感じる。


 「海外に一緒に行くとき、通訳しろと言われるんです。ところが、いざやってみると、父はつたない英語だけど、自分でばーっと話してしまうんです」。よくありそうな話だ。


 次期社長について、関家は明言していない。圭三自身も、社長の息子という理由だけで社長になるのは嫌だという。周りに支持されてこそ社長である。関家もそう思っているから、息子には厳しくなるのだろう。



入社三年目に桶狭間の戦いを演じた自信家

 関家一馬は、圭三より一つ年下。二人は隣同士で育ったため、兄弟同然、互いをよく知っている。


 「自分の乗った車だけは絶対に事故を起こさないと信じるタイプ。その図太さがうらやましい」というのが圭三の一馬評。父親の臣二は「ものすごく生意気だから、ディスコには入らない方がいいと思っていた」という。


 一馬自身もディスコに入る気はなかった。大学卒業後、アメリカに一年留学。そのままアメリカで就職活動し、現地のインベストメント会社に内定をもらった。


 ところが日本に帰ると、先代から毎日呼び出しがかかった。

 「おまえはディスコに入る気はないのか。入るんだったら早い方がいい」と説得が続き、最後は根負けし、八九年七月に入社した。


 画像処理の研究開発チームに配属され、九一年の十二月までいた。その間にダイシングソーは近いうちにモデルチェンジをしないと、競争力がなくなると強く感じた。


 上司の溝呂木に盛んに進言し、九二年一月一日から有名なXプロジェクトが始まった。入社三年目の一馬がリーダーになり、主力四機種を一年間でモデルチェンジするという前代未聞のプロジェクトを成功させたことで、マスコミで話題になった。


 「あれは私の桶狭間の戦いだった」という。


 九四年四月に技術開発部長になり、一年後に二十九歳で役員になった。


 Xプロジェクトでは理由のわからない部品をすべて取り外したが、理由が見つからないことはやらない、をポリシーにしている。


 サイエンスは理屈を見つけること。テクノロジーはノウハウ。職人はやり方を知っており、科学者は理屈を知っている。物事はなぜそうなるのか理屈がわかってやるべきだ。ディスコの事業もまだノウハウに頼っている部分が多いが、一つひとつサイエンスにしたい、という。


 圭三と一馬の組み合わせは、憲一と臣二のコンビを彷彿とさせる。力を合わせることができれば、三世代目のディスコも安泰であろう。



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