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トピックス -企業家倶楽部

1996年06月27日

【カルチュアコンビニエンスクラブ特集】増田宗昭を支える六人のスタッフ/カルチュアコンビニエンスクラブを支えるスタッフ

企業家倶楽部1996年7月号 特集第4部

情報結集の重要性を思い知ったF C 展開

日本ソフトサービス社長 伊藤康史

 「お前にずばり言っておこう。もはや信用はゼロになったぞ」。

 その増田の言葉が鮮明に甦る。CCC創業間もない頃のことだった。伊藤は、当時を思い返すと、今でも胸の奥が疹く。

 一九八五年九月に設立したCCCは、その年のうちに、新たに四店舗のフランチャイズ店をオープンする計画になっていた。二百坪程度の店にレンタルビデオとCD、書籍販売を展開する。伊藤は、商品、備品からハード設備の手配まで、店づくりの一切を任されていた。既に、枚方店と江坂店はオープンしているものの、フランチャイズの展開は初めてのこと。過去に前例のない仕事に、若き日の伊藤は胸が高鳴った。

 だが、結果は厳しいものだった。四店舗全て、経営が思わしくない。仕方なくフランチャイズ募集を一時打切り、スタッフ全員で、店の建て直しにエネルギーを集中した。

 伊藤の心は張り裂けんばかりになる。他のスタッフとの絆は残っていたが、増田の言葉通り、信頼回復は至難の技だった。この時ほど、衆知結集の大切さを思い知ったことはない。省みれば、他のスタッフ達には、それぞれの仕事に応じて様々な情報が集まっていた。その情報の組み合わせもせずに、自分一人の力で、全てをこなそうと気負ってしまったのだ。「加盟店のオーナーに対しても、うちのスタッフに対しても、適当な応対しかしていなかった、と後で気づいた。全ての人々の信用を失ってしまったんです」。

 そこで、伊藤は決心した。「客の望んでいることをいかに吸い上げるか、そしてスタッフとの間でいかに情報を交換するかに力を注こう」と。

 信頼回復の第一歩は、翌年夏にオープンした京都の醍醐店の店づくりだった。スタッフ達と徹底議論を重ね、出店反対運動にも、果敢に立ち向かう。苦労の連続の中、良い店づくりのコツのようなものを掴んだ。この店は、一気にナンバー1の売上げを記録。三十歳の伊藤はようやく信頼を回復し、店づくりの面白さにものめり込んでいった。その二年後には、東京本部を立ち上げ責任者に。東日本のフランチャイズ店開発に力を注いだのだった。

 増田との付き合いは、スタッフの中でも最も古い。TSUTAYA 一号店が枚方駅前にオープンする以前からの同士である。

 同志社大学を卒業後、鈴屋に入社した伊藤は、入社研修の期間に「おもしろい人間がいる」と、先輩から増田の名前を耳にしていた。やがて、増田が京都の店長になると、バイヤーとして共に働くチャンスを得る。増田が鈴屋を去る一年程前には、TSUTAYAを始めるたあのマーケティング調査に協力もしていた。増田に遅れて一ヵ月後、伊藤も鈴屋を去った。サラリーマンで一生を終える人生に、疑問を抱き始めていたのも事実だ。尊敬する先輩からの誘いに、心の迷いはなかった。以来十三年間、増田に追いつけしばかりに突っ走ってきたのである。

 九一年に、伊藤忠商事との合弁で設立した「ビデオチャンネルジャパン」は、量販店や、書店・コンビニなどにビデオのパッケージを販売する会社。伊藤は、昨年八月まで開発部長として商品提供のフォローを行なった。現在は、そのノウハウを活かし、一昨年に立ち上げたTSUTAYAレコードに対する商品供給を日本ソフトサービスで行なっている。

 全国に散らばるTSUTAYA店舗にも、同レベルの情報と価格を提供していく構想で、今のところ輸入盤が中心だが、セル用商品の仕組み作りに余念がない。

 そんな伊藤を、「管理社会の中にあって、去勢されない逞しさがある。人間的に素朴で、朴訥で、僕にはない何かを持っている」と増田は言い、伊藤は「面倒見がよくて、人を大切にする懐の深さがある」と増田を慕う。だが、ここ数年、少し寂しい思いがするのも否めない。企業の急速な成長に伴い、増田を取り巻く環境も激変。少し前は、前方を走る増田の姿が見えていたが、加速度的にスピードが上がり、今では遥か彼方に行ってしまったような気もする。「何をのんびりしてるんだ、といつも怒られながら、増田には、教えてもらい、フォローをしてもらってきた。恩返しをするまでは丈夫でいて欲しい」。

 長年の同士を気遣う心を、ちらりと覗かせた。



増田が広げた風呂敷を事業化する鉄人

取締役TSUTAYA本部長 村井眞一

 「おい、村井。バイクで家まで送ってくれよ」。きょうもいつものセリフが増田の口から出た。鈴屋のある梅田から、枚方の増田の自宅へ立ち寄り、下宿のある尼崎へ。いつものルートである。八万円の給料が、家賃とバイクのローンに消えていく村井にとっては、増田の家で夕飯をご馳走になるのは有り難かった。年齢は四つ違いだが、会社では六年上。部署は違ったが、何かと世話を焼いてくれる先輩だった。

 増田は、時速八十キロで走るバイクの上で、よく眠ったものだ。「すごい傑物かもしれない」、村井は、その度胸に驚嘆していた。こんなエピソードもある。新入社員に課せられるバーゲンプロジェクトでのこと。リーダーの増田は、事細かな数字をすべて頭の中に掌握していた。「坪数は、売上げは」と、立て続けに聞かれる問いに、少しでも言い淀むものなら激が飛ぶ。マーケティングを、とことん身体で覚えさせられた。目から鱗が落ちるとは、この事かと痛感したという。

 増田が鈴屋を去ってから一年程で、村井も後を追った。CCC設立後から、一貫して店舗経営に携わってきた村井は、現場で商品の何たるか、顧客の何たるかを肌身で感じとった。やがて、増田から「商品部長をやってくれ」と声がかかり、情報システムの強化に力を注ぐことになる。

 当時、既に発注代行システムはあったものの、単品の情報管理しかできず、百店舗以上になった加盟店に、有効な情報提供をするには程遠いものだった。そこで、新たなシステム構築に取り掛かる。増田は「既存のメニューで何とか動かせ」と言うが、後々を考えれば、新たなシステムの構築は必至だった。毎日朝方までSEと議論を重ねた結果、あるシステムが完成する。村井は、概要を説明した書類を手に、社長室へ向かった。増田は、その圭晶酬に目を通しもせずシュレッダーにかけた。「九州を建て直してくれ」。

 八七年五月、九州へ赴任した村井は、わずか半年で加盟店三十六店舗全てを、全国一のレベルに引き上げる。理由は簡単である。店の価値は、商品のバラエティーだ。利益が出ないからといって仕入れをしなければ、店が繁盛するはずはない。仕入れをするからこそ利益が出るんだと、オーナー達を説いて回ったのだ。十月末にCCC九州を設立、二ヵ月が過ぎた頃のことである。情報システムの更新不艮が多発した。ジャンル別、アイテム別、時間別などに会員のレンタル履歴をデータファイルに書き換えるホストコンピュータが、データを裁ききれなくなったのだ。

 「二億円もの金を投資したにもかかわらず、コンピュータがうまく作動しないとは」。怒りを覚えた村井は、担当SEと喧々諤々の議論を戦わせている様子をビデオに取り、大阪の増田に送りつけた。「大阪は一体何を考えているんだ」そんな思いが、爆発寸前まで来ていた。

 翌年二月のある日、増田から電話がかかってきた。「コンピュータの件では、迷惑をかけて申し分けない。会議を開きたいので、すぐ来てくれ」。すぐさま大阪へ飛んだ村井は、会議の帰りしな、「お前が見てくれ」と増田に告げられる。そのまま夏まで、九州に戻ることなく情報システムの責任者として、骨身を削った。その後も、商品本部長、CCC九州社長などを兼任しながら、四年間にわたり、情報システムを統括する。

 九〇年には営業企画室をつくり、一週間レンタル制度や棚割、コーナー割の開発、会員向けの会報誌の発刊も手がけた。九三年には、TSUTAYAレコードを設立、現在まで二百二十店舗に拡大してきた。

 そんな村井の存在が、増田に与える意味合いは計り知れない。「僕が広げた風呂敷を、村井は非常に巧妙に畳んでくれる。地図もマニュアルもない新しい分野で、金脈を見つけだすのは僕。だが、掘り出していくうちに生じる混乱を、ビシッと整理してくれるのが村井」と増田は言う。その期待に応えるように、村井は将来の夢をこう語った。

 「月商八千万とはいかないまでも、六千万でいい。一店舗の年商七億円。それが三千店舗できれば、二兆円産業になる。これは大した数字ではない。必ず実現できる」。

 事業を発掘する増田と事業化する村井ーその二人三脚は、しばらく続きそうだ。



増田は絶妙のタイミングで引き締め策を打つ

取締役社長室長 佐々木俊三

 「彼は完全に論理の人。右脳派の僕が、直観的に言う物事を、きれいに整理してリスクテイクしてくれる。ダイナミックに仕事ができるのは、彼のお陰ですよ」という増田の言葉通り、佐々木は、常にたずなの引き締め役を果たしてきた。伊藤、村井に続く、創業初期メンバーの一人である。

 大阪・枚方駅南口と江坂のニヵ所に、TSUTAYAが店舗を構えていた一九八五年当時、佐々木は、関西地方の持ち帰り弁当屋では草分け的存在の「ホッカホッカ亭」を経営する会社に勤めていた。弁当の成功を受けて、同社が次に取り組んだビジネスがレンタルビデオ。工学部出身で、技術畑を歩いてきた佐々木は、この時カシオと共同で、コンピュータシステムの開発に携わった。そのシステムを、専務の命でTSUTAYAに売り込みにいったのが、そもそもの縁だった。

 まだ残暑も厳しい九月のある日、江坂店を訪れた佐々木は、初対面の増田が、熱っぽく語るフランチャンズ構想に、共感を覚えた。論旨明快に、かつ夢膨らむ話に、その場で意気投合し、CCCの立ち上げに力を注ぐことになる∪コンピュータ畑出身の佐々木は、他のメンバーが営業畑で尽力する中、管理部門の仕事を自ら買ってでた。

 八五年九月に設立されたCCCは、同年十二月までにフランチャイズ加盟店を四店舗オープンさせる。「この頃の資金繰りが、非常に苦しかった」と佐々木は当時を振り返る。ロイヤリティーとしてCCCに入ってくる金は、月二百万円足らず。一方で、加盟店を立ち上げる経費は一千万円近くに上る。つまり、八百万円の赤字を背負い込むわけだ。おまけに、四店舗の滑り出しが芳しくない。年末になると、ワゴンカー一台に創業期のスタッフが乗り込み、六泊七日のキャラバン隊を組み、店舗の視察に出かけた。フランチャイズ経営を十分教えきれていないことを実感したスタッフは、ここから三ヵ月間、加盟店募集を止め、既存店舗のマイナス要因を洗いざらいに検証し、良い店づくりに徹底した。

 辛い時期ではあったが、管理を統括する佐々木にはホッカホッカ亭でフランチャイズ経営を目の当たりにしてきた経験がある。それが、心の支えだった。良い店舗さえできれば、フランチャイズの場合、本部が負担する固定費は一定であるため、加盟店がある一定数を超えれば資金繰りが軌道に乗ることは見えていた。百店舗つつ増やしていけば、売上げも一〇%つつ上昇する。そのシナリオを説得材料に、毎月銀行に足を運び、報告を欠かさなかった。営業マンたちが、現場の第一線で戦う中、本陣の経営基盤を見事に固めていったのだ。

 八八年に行なった三つの大型投資も、苦労の連続だった。郊外型店舗のモデルとなる枚方の「ベルパルレ」、中型コンピュータ「AS630」の導入、NECと共同開発のオリジナルFAXー。投資総額は十五億円。今のCCCなら、びくともしない額だが、当時の売上げ高は二、三十億円。管理責任者の苦労は絶えなかった。しかし、増田が語る夢への共感とそれが現実化していく興奮の方が、勝っていた。辛いけれどついて行く、その一心で奮闘を繰り返した。

 「増田は、安定した所に不安定要素を入れるのが上手い。事業が軌道に乗り出すと、ともすれば緩慢になりがちだが、彼は絶妙のタイミングで引き締め策を打ち出す。途方もない話も多いが、逆にそれがスタッフの心を駆り立て新たなエネルギーを生むことになる」と、増田流経営術を分析する。管理畑を歩んできた道程で、最大の喜びは、アメーバのように拡大してきたグループ企業三十五社が、大きなミスもなく着実に成長を続け、それが社員の幸せにつながっていること、と頬を緩める。

 「でも、本当は知られたくない会社にしたかった」と、本心をちらりと覗かせもする。企業自体が爆発的に大きくなると、目に見えない風土や思いなどが、末端にまで浸透しにくくなる、そのことへの危惧を感じているのだろう。「でも、目立ってしまったのだから、仕方ない(笑)。大変だけれど、勝負するしかないー」。

 今、一番の大勝負はディレクTV。三百億円の投資を賭けた事業は、商社連合など競合他社も強者揃いだ。だが、CCCには「企画力」という強みがある。その武器を存分に発揮できるような後方支援体制をいかに築くか、増田の右腕として力の見せ所である。



直営店二十三店を育てた店づくりのプロ

JRSS、TSUTAYA東日本・西日本社長 寺尾和明

「出会った瞬間から、肌触りが合う人間だと思った。第一印象で信頼できると確信したが、それは今でも揺らがない」と増田に言わしめる寺尾。飛び込み営業で訪れた枚方駅前の小さな店が、運命の分かれ道となる。

 商業高校を卒業後、シャープに入社。営業畑を歩んできた。だが、大企業の論理に疑問を感じ始める。実際の仕事は、自分が半分以上こなしているにもかかわらず、大学卒の若手が自分を追越し、次々と係長になっていく。その現実に、寺尾は反発を覚えた。「高卒というだけで、仕事をしている人間が評価されないのはおかしい」。

 三十三歳でシャープを去ると、あるコンピュータ関連の代理店に籍を置いた。ちょうど一年が過ぎた頃、セールスで飛び込んだのがTSUTAYAだった。「毎月売上げが伸びていくんだ」と得意満面に話す増田。その目はもの凄い輝きを帯び、寺尾は魅力を感じた。一年聞仕事での付き合いを経て、八五年、CCC設立の一ヵ月前からスタッフ入りする。寺尾は、店舗デザインの設計及び備品・消耗品販売などを主軸とした日本レンタルシステムサプライ(JRSS) の社長に就任した。

 以来、直営店を数多く手がけ、全三十店舗のうち二十三店舗を育ててきた。店づくりは面白くて病みつきになるという寺尾に、一番の自慢の店を尋ねると、すかさず沖縄の山内店と答えが返ってきた。

 九四年十月に、沖縄市山内に誕生した店舗は、地方ロードサイド型直営店のモデルとも言えるショップだ。MPS (マルチパッケージストア)を具現化したもので、八百六十九坪の敷地に、百二十三台の駐車場を備えた二百六十九坪の売り場では、従来のCD、ビデオ、書籍のレンタル& セルに加え、ゲームソフトなども取り扱う。寺尾が、この地に店舗を出そうと考えたのは、オープンの前年、たまたま沖縄のオーナー会に増田と出向いた時だった。ゴルフ場の芝生が朝日に青々と輝くのを見て、直感的に店をつくりたいと思ったという。ちょうど、増田自身もMPSの必要性を強く感じ始めていた頃。総額四億御千万円を投じて、オープンへこぎ着けた。滑り出しは好調で、月商五千万円、年商で六億円を上げた。この山内店での成功を機に、MPS展開は軌道に乗り始める。

 それ以降、寺尾は次々と大型店舗を手がけていった。千七百五十坪という岡山の巨大な物件は、あまりにも大きすぎて誰も手を付けられない。増田からの指示で、寺尾はこの敷地に七億八千万円を投じ、ゲームセンターを併設した店舗を作る。池袋のあるゲームセンターが月商三億円を上げると耳にし、自分の店でも手がけてみたいと思った矢先のことだった。バイパス沿いにあるこの店舗は、通過するドライバーの目を引くため、巨大スクリーンを外壁に設置。とにかく目立つことで集客を図っている。

 昨年の大晦日にオープンした東香里店は、五百坪の敷地に通常のCD、ビデオ、書籍の品揃いに加え、パソコン(PC) 関連の商品を取り入れた。今年オープンした京都の西大路四条店は、駅前の四百五十坪の土地にある。PC関連商品を三分の一程取り入れ、インターネットカフェを併設。この六月からは、PC教室も始めるなど、PC事業への本格化を先取りした店舗である。

 いかにも頑強そうに見える寺尾だが、JRSSを立ち上げて四年目に、ストレスで肺に穴が開いた。JRSSの社長として店舗づくり、備品の問屋業を統括する傍ら、CCC の財務部長を兼任することもあった。まだCCCの対外的評価は低く、資金繰りには苦労した。だが、CCC への転身を悔いたことは一度もない。「自分の描い店舗が、次々と実現し軌道に乗っていく。こんな嬉しいことはない」と、いかにも幸せそうに語る。
 
 今年は、既に二店舗オープン済。年内に、岡山、東京の三軒茶屋、難波、広島の合わせて五店舗を手がける。吉本興業ビル地下一階につくる難波店は、吉本と共同でFM中央放送局の設置や、Vシネマをつくるなど、新しい試みも始める。

 「例えば、地下一階から二階までをTSUTAYA、三、四階にレンタを入れ、五階が映画館、六、七回に劇場、そんな店舗をつくりたいー」。

 寺尾の夢は、膨らんでいく。



基本に忠実な増田経営ーそれがCCCの底力

取締役グループ運営本部長 山崎龍男

 「遠くを見つめている戦略家だと思う。例えば情報システムがトラブルを起こす。私はどう直すかを考え、彼は、どんな人材を揃えるかを考える。三年、五年という長期に物事を見れる人」 と、増田が評する男は、今年四月、CCC全体の企業文化の継承、理念の共有を推進するグループ運営本部を立ちあげ、その責任者に就任した。CCCとの巡り合いは、三年九ヵ月程前、九二年九月のことだった。

 大学卒業後、日本オリベッティで商業計算などのソフトづくりを長年手がけた。やがて、そのソフト部隊が別会社として独立すると、経営陣の一人として新会社のスタートアップに携わる。サラリーマンとは、全く違う視点から企業を垣間見た経験が、自分の手で会社を経営してみたい、と心に火を付けた。一年後、オリベッティの支援を受けて、自ら経営者として、コンピュータソフト関連の小さな会社を設立。この時参加した社内研修で、笠原和彦(現ディレクTVジャパン取締役) に出会う。これが、後の山崎の人生を大きく転換させるきっかけになるとは、夢にも思わなかった。

 ある事情があって、経営者生活に一区切りをつけようと考えていた山崎は、辞める四日前、道端でばったり笠原と会った。あの研修以来、会うのは三回目。特別親しかったわけではない。立ち話で、「CCCに来て、情報システムを見てくれないか」ともちかけられ、何となく縁を感じた。だが、山崎には自分でビジネスをしたいという思いがある。九二年六月、会社は辞したものの、CCCの件は返事もせずに放っておいた。

 三ヵ月後、「まあ、遊びに来ないか」、との誘いで、初めて増田に会った時のことを、「若々しく颯爽とした外面と、経営を見つめるシビアな内面、そのバランスに好感を抱いた」と語る。まずは一年間の契約社員で、情報システムの仕事を手伝うことになった。

 「十一月二十四日の初出社から、翌三月まで、ほとんどやることがなかった。ただ、机に座っていた」との弁は、謙遜もあるだろうが、契約という立場上、あまり好き勝手を言ってもいけない、という気持ちがあったのも事実。「正直に、船の甲板掃除をしていればいい」という思いだったという。

 前任者が辞めたこともあり、四月から情報システム部門の課長に。三ヵ月後には部長に就いた。この頃から、役員会にオブザーバーとして出席。仕事の責任が増していくにつれ、戸惑いは隠せなかった。契約の一年が過ぎた頃には、情報システムから人事・経理・総務まで統括していた。「まだ、正社員でもないのに……」。やがて、役員に任じられ、漸く正社員になるという異例の道程を歩んだ。「果たして、CCCの役に立っているのか。毎日きょうで首を切られるかもしれない、という緊張感の連続だった」と当時を振り返る。

 小さな会社の経営者まで経験した山崎が、CCCに来て感じたカルチャーショックは、何よりも増田が基本に忠実なことだという。「挨拶、部屋の片づけ、相手を考えた会話、清潔な身だしなみ、嘘をつかない等々。こういった細かい部分は、カネで買えないばかりか、即席ではできない。増田目身が、日々自らに言い聞かせ、実行してきたからこそ企業風土として浸透する。この基本があって初めて、楽しい会社になる」。

 外部からは、華やかなイメージで捉えられがちなこの会社も、実は光の当たらないベーシックな部分に、その底力がある。その事を痛感させられた山崎は、企業文化の伝承という新しい仕事に意欲を燃やす。

 グループ運営本部の役割は、企業を形づくる「人・情報システム」の大きなフレームワークの構築。商店街で言えば、全体のアーケードのコンセプトに一貫性を持たせ、進化させるといった大仕事だ。何か事を起こして、すぐに成果のあがるものではない。「頭の中で描いているイメージに、なかなか近づけない」と言う山崎に、そのイメージを尋ねると、こんな答えが返ってきた。

 「一言で言えば、社員の笑顔。それを実現するのは、各部署の責任者の仕事だが、我々は仕組みづくりに全力を傾け、サポートしていきたいー」。

 遠くを見つめる戦略家は、大きなアーケードを着実に進化させている。



財務の最高責任者として自事を燃焼させたい

取締役財務部長 藤田 慧

 今年八月で、C CC に移って丸二年を迎える。突然のスピンアウト。ー二十六年間勤め上げた京都銀行を辞するきっかけとなった増田との出会いは、四十六歳、寝屋川支店長として、第一線指揮を執っていた頃であった。

 「アポイントも取らずに、増田社長の所に出向いて、よく議論をした。彼の漲るエネルギーはもちろんのこと、経営に対する考え方に非常に魅かれた」。

 出会いを重ねるうちに、「一緒に仕事をしませんか」と増田から声がかかる。エンターテインメントの世界は全くの素人ゆえ、不安はあった。だが、チャレンジせずに、人生悔いを残したくない、そんな思いで、家族に事の次第を告げる。

 「私は銀行員と結婚したつもりはない」という妻の言葉に、藤田は「しめた」と膝を打った。利害関係を考えれば、銀行に残る方が得策かもしれない。だが、定年を迎えれば後は萎れるだけだと感じた。「石垣の一輪の花になりたい。それには、花のうちに辞めるしかない」ー。増田の誘いから半年後、四十八歳で転身を決めた。

 銀行の支店長として、部下をまとめてきた藤田のモットーは、「楽しく仕事をして、何でもナンバー1に」。最優秀店舗にも選ばれた寝屋川時代は、いかに効率的に、そして楽しんで仕事をするかに徹底し、部下の意識を上げる仕組みづくりに努力した。この考え方は、「結果よりも原因(=仕組み) が大切」という増田の経営哲学に通じるものがある。二人を運命的に結びつけたのは、この辺りの肌合いとも言える。

 銀行の世界で生き抜いてきた藤田にとっても、CCC全グループの財務を統括する任務はかなり厳しい。そんな中、CCC本体の今年度前期の経常利益は、売上百十億円に対し二十億円に上った。前々期は、一億五千万円であるから、十倍以上の伸びだ。その背景には、直営店の分社化、つまり直営店を出店する際に、これまでは初期経費として償却していたものを計上した経緯がある。税金の支払いは、六千万から十三億に跳ね上がった。しかし、「これは実態を明らかにしたまでで、特別な努力をしたわけではない。税金をきちんと支払った上で、社内の人・モノ・カネの環境を改善していくことが大切。それが、対外的信用創造にもつながる」と藤田は言う。

 とは言え、会社が急成長の最中にあるため、資金繰りには頭を抱える。ディレクTV事業の関連では、借入れ額が三百億円規模になるのも事実で、「私でなかったら、ビルから飛び下りている」と冗談めかして屈託なく笑う。だが、その背後には、何千社という企業のトップに会い、百戦練磨を繰り返してきたゆえの洞察力と自信があるのは言うまでもない。

 「お金を貸して下さい、とは決して言わない。取り引きではなく、取り組みだと考えている。パートナーシップを築くことが重要」との言葉通り、藤田は銀行の担当者と話す時には、二時間もの時間をかけ、会社の経営状態を説明する。良い面も悪い面も明らかにし、安全な財務であることを納得してもらった上で、投資か否かの選択を迫るのだ。

 また、銀行の本部役員とのパイプを強くするため、担当者が変わりやすい支店との関係から、母店機能との関係強化を図った。頭取まで通じているところはまだ少ないが、筆頭役員レベルへのパイプは着実に太くなっている。

 株式公開も、そう遠い将来の事ではない。これによって、加速度的な成長が促される側面もある。だが、百億円の売上げが三百億のラインに達する不連続成長の過程で、人・モノ・カネは混乱しやすく、この時期にこそ、足元を見つめた経営が必要だと分析する。

 「正義感の強い骨太さと人を大切にする心を持つ男」とは、増田の藤田評。若武者・増田にとって、心強い財務のプロを味方に得た感が大きいのだろう。

 銀行時代に鳴らした麻雀も、今は一切やらなくなった藤田。そんな時間はもったいない、ときっぱり言い放つ。

 「自分の役割は、財務の最高責任者として、職業軍人のようにきちんと任務を果たすこと。確かにCCCの仕事は大変だが、仕事以上に“『自事』”として、完全燃焼していきたい」と、目を輝かせた。



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