トピックス -企業家倶楽部

1997年06月28日

【ホリプロ特集】正論を貫くオーナーと現実対応型幹部の絶妙な調和/堀威夫を支える七人の侍

企業家倶楽部1997年7月号 特集第4部

堀が築き上げた家風を守り続ける右宛

代表取締役社長・小田信吾

 「この世界で仕事をし続けることになるとは、夢にも思わなかった」

 小田が、初めて芸能界に一歩を踏み出したのは大学三年のこと。上京していた兄は、とある作家のもとに下宿していた。そこへ転がり込んだ小田は、「草笛光子の仕事を手伝ってみないか」という作家の言葉に心動かされた。「これで、東京に居座る理由ができた……」。

 大学を卒業後、東京で知り合いになった先輩プロデューサーと小さな事務所を立ち上げた。それが、「テアトル・ド・ポッシュ」の前身である。当初は、七、八人の作家たち、それに彼らのお気に入り役者たちのたまり場という雰囲気だった。四畳半一間に、電話が一本。作家や役者の付き人のようなことをして、たまにご馳走になる。バタバタと仕事をこなしていく日々は面白かった。親兄弟からは反対を受けたが、「いずれ田舎に帰ればいい」という思いで、東京生活を満喫していた。

 やがて七年が過ぎ、ある問題が起きたのをきっかけに、事務所を去った小田は、作曲家の市川昭介から杉良太郎を紹介される。その杉を、NHKへ売り込みにいったのが、ホリプロとの出会いにつながった。NHKに出入りしていた堀矩武(堀の従兄弟)と個人的つながりができ、「うちに来ないか」ともちかけられたのである。当時、ホリプロは音楽一辺倒の事務所。芝居畑を歩んできた小田は、その存在をほとんど知らなかった。

「大ファンだった斉藤チヤ子が、ホリプロの所属だと聞いて、ついいっちゃったんですよ(笑)」

 ホリプロに移った動機を聞くと、照れ笑いをしながら小田はそう答えた。だが、その背景に堀威夫の存在があったことはいうまでもない。最初の出会いは、小田が三十歳、堀が三十六歳の時である。「変った人」というのが、堀に対する第一印象だった。

 「『これからは、音楽だけでなく、芝居や映画も手掛けていきたい』と、夢とかビジョンとか、そういうものを一生懸命に語るんです。これには、驚きましたね。『きょうが楽しければいいんだ』と、若さで突っ走っていた私にとって、同じ三十代の人間が夢やビジョンを持つなんて、信じられなかった。でも、話の内容には共鳴できたし、感動したのも事実です」

 こうして小田は、ホリプロの土を踏んだ。ちょうど、グループサウンズ時代で、ヴィレッジシンガーズやパープルシャドウズなどのグループを担当。作家のマネジメントをしていた頃のネットワークもあり、音楽のことは何もわからなかったが、仕事はスムーズに進んでいった。だが、長居をするつもりはなかった、と小田はいう。

 当時のホリプロは、まだ二十人ほどの小さな所帯で、みな二十代から三十代の血気盛んな連中ばかり。まさに、荒馬の集団である。その荒馬たちに、夢やビジョンを絶えず口にする堀。特にモラルに関しては厳しく、常に襟を正して、まったく軸がぶれない。そんな人物は、この業界では希有だという。

 「何と言っても、昔から『怖い人』ですね。ものすごい威圧感があった。仕事ができても、人間としてどうなのかを常に問われるんです。それに、ダメなものはダメと、その判断は明確。たとえ、必要悪じゃないかと思われるようなものでも、『その悪をそのままにして、他がそれに染まったらどうするんだ』と、断じて許さない。ゆえに、こちらも背筋がピンと張るんですよ」

 入社まもない頃、小田には忘れられない出来事が起こった。NHKとの仕事でトラブルが生じた時のことである。夜中の二時まで先方と激論を戦わせ、とうとう小田は尻をまくった。自分は正しい、そう確信したのである。会社に戻って、状況を説明する小田に、堀は尋ねた。「お前はどう思うんだ」。「俺は悪くない」という小田の答えに、「だったらいいじゃないか。あとは、俺がやる」。堀は、そう一言。

 「この時、とにかくすごい男だと直感しました。その思い一つで、これまでついてきたんだと思います。会長は自分にないものを持ち過ぎている。だからこそ、その魅せられたんです」

 堀とともに歩んできた小田が、社長の椅子を引き継いで、十四年になる。「会社をこうして欲しい」と、堀が口にすることはないが、その思いは以心伝心のようにわかる、いやわからせてしまうのが、堀という男だという。

 「会長と違い、もともとフーテンな私も、知らず知らず改良されて、小型の堀になったんじゃないかな(笑)。とにかく自分は、親分の顔に泥を塗らないようにするだけです」

 『男子一生の仕事にしたい』の思いで、堀が長年にわたって築き上げてきた家風を、小田は守り続けている。



店頭公開の裏方役果たし、今、ソフト供給戦略練る

代表取締役副社長・佐々木国雄

 「マネージャーを一生の仕事にするなら、男性についた方がいいわよ」昭和三十年代初め、島倉千代子の事務所で付き人のような生活を送っていた佐々木は、彼女にそう言われた。

 そんな折、歌舞伎座公演で島倉と共演した守屋浩との出会いが訪れる。話はトントン拍子に進み、守屋の付き人として堀が最初に設立した東洋企画に移籍。堀と運命をともにする人生が、幕を開けたのである。だがこの頃、東洋企画の内部では、歌舞伎座公演をめぐって、名目上の社長と実質オーナーの堀との間で、深い確執が生まれていた。金を重視する社長と、タレントの格上げを最優先するオーナー。その価値観の違いは決定的だった。結果として、堀は東洋企画を後にする。守屋浩をはじめ、かまやつひろし、田邊昭知とザ・スパイダースなどが行動をともにした。その同じ船に、佐々木も乗り込む。昭和三十五年秋、こうしてポリプロは産声を上げた。

「事務所とは名ばかり、明日どうなるかもわからない状況で、なぜみんながついていったのか。それは、ひとえに会長の人徳です。確かに不安はあった。けれど、『この男には何かある』と感じさせるものがありましたね」

 会社が軌道に乗るまでは、乗り込んだ船も、さまざまな波に揉まれた。給料が遅配されたこともある。たった一人で広報宣伝を任された佐々木は、仕事で使おうと購入したカメラを、とうとう質屋に入れて、営業に回る電車賃を捻出したこともあった。

 「とはいえ、マネージャー仲間は、毎日がただ楽しくて、ワイワイやっていました。でも、会長は資金繰りで相当苦しんだと思います。そんな事は、おくびにも出さない人ですが……」

 会社設立から三年。株式会社に改組したその年に、彗星のごとく登場したのが、舟木一夫である。デビュー前から、堀が手塩にかけて育てた逸材だ。その初代マネージャーを、佐々木が務めた。デビュー曲の『高校三年生』は大ヒットを収め、その人気はついていけないほどのスピードで上昇していく。

 やがて一年が経ち、これからという時期に、事件は起こった。舟木一夫の独立である。芝居の興業をやった経験のある舟木の父が、自分の手で息子をマネジメントしたがったのだ。当然のごとく声がかかり、身体の半分は傾いていた佐々木だが、決断がつかず悩みぬいた。「自分は何のために、ホリプロに入ったのか—」。そう自問自答を続けた末、佐々木は踏止どまった。

 危機に直面した堀の対応は、きわめて潔かった、と佐々木は振り返る。「あれだけのスターを失うことになっても、決してゴタゴタと揉め事を膨らませることはしなかった。相手の言い分がわかれば、スパッと身を引く。それが会長のやり方なんです。それに、『身内がマネジメントしてはいけない。マネージャーは、タレントと喜怒哀楽を共にしてはいけないんだ』というのが彼の持論。その精神を、毅然とした態度で貫いた会長の姿に、マネージャーたるものの心得を痛感させられました」

 舟木の初代マネージャーから二十年余、佐々木は現場を歩み続けた。それが十年程前、「中を守れ」と堀に言われたのを機に、財務部門に移り、芸能プロダクションで唯一の店頭公開を手掛けることになる。

「初めは、戸惑いが隠せなかった。店頭公開と言われても、何をどうしたらいいか、まったくわからない。だから、アイスを買い込んで、証券会社に通っては、女の子をヨイショしていました(笑)。やがて、『ホリプロを公開させねば……』という雰囲気が盛り上がっていったんです。現場とは無縁の兜町界隈に出入りしたお陰で、視野がワイドになったと思いますね」

 無事、店頭公開の任務を果たした佐々木は、二部上場を後任に託し、昨夏からメディア事業部の本部長に就任。衛星デジタル放送という時代の波を受け、ソフト供給をいかに充実させていくか。その布石を打つことが、目下の役目である。

 ホリプロとともに歩んで四十年余。堀という人間を一言で表現すると、「暖かみはあるけれど、とてもクールな男」だという。「たとえば決裁を通す際に、どんな小さな問題点も見逃さない。どさくさに紛れて……というのは、必ず見抜かれます。それは『蟻の一穴』なんだと会長は言う。最初は一ミリの狂いでも、先に行けばそれは大きな狂いになるのだと。その辺り、決して妥協は許さないですね」

 一度は、ホリプロから身体が半分出かかった佐々木。だが、今日までの歳月を振り返り、しみじみと言った。「堀威夫と、同等の人間にはとてもなれないが、半分になれれば自己達成だ。それを目標にこれまでやってきた。あの時ホリプロに残って、本当に正解だった。そう痛感しています」



人間産業実現の先導役果たす

専務取締役文化市業本部長・金森美弥子

 唯一の女性役員が、ホリプロと出会ったのは、約十四年前。会社が創立二十周年を迎え、堀の胸中に「歌手をプロモートするノウハウを文化全体に広げることで、芸能プロから人間産業に発展できないだろうか」という構想が湧きおこっていた頃のことである。

 その具体的な一歩として「文化事業部」を立ち上げた。プロデューサーに、脚本家や司会者として活躍中だった故三木鮎郎を迎える。その三木と知り合いだった金森は、当時、劇団四季で制作を担当。が、「仕事を手伝ってみないか」という誘いに、ホリプロを訪ねた。帰りしな、挨拶に立ち寄った事業部長の部屋には、会長に就任したばかりの堀の姿があった。

「スポーティーで明るい人」。それが第一印象だという。初対面の後、鮨をつまみに酒を酌み交わしながら、差しで話をし、契約社員という形で入社。初めに着手したのは、「ライブ・トーク」というイベントである。

 これは、映像や音楽と組み合わせ、文化人の講演会にエンターテイメント的な要素を付加したもの。灘五郷の酒造組合をスポンサー、新宿の「シアターアップル」を舞台に、壇上と客席の垣根を取り除いた座談会で話題を呼び、ロングランのイベントとなった。

 次に金森が担当したのは、つくば博のプロジェクト。ここで考案した「歌うロボット」が、電事連のキャラクターに採用される。二千五百万の製造費に対し、売り上げは約一億。こうした活躍により、契約から二年目で課長に抜擢された。

 実はその頃、将来きっと女性の力が必要になると読んでいた堀は、社内にレディースプロジェクトを発足させ、女性活用を図っていた。実力を認められた金森は、その先達としての役割を担うことになったのである。

 担当したプロジェクトは、トントン拍子に進展。この勢いで事は進むかにみえた。だが、次のプロジェクトで金森は辛酸をなめる。松本隆の著書『微熱少年』を東映と組んで映画化するが、まったく当たらない。おそらく五千万ぐらいの赤字だったが、気持ちとしては八千万ぐらいに思えたという。責任を痛感して、落ち込む金森。そんな折、突然、部長職を譲ると堀に告げられた。

「向こう傷は気にしない—。それが会長の気質なんでしょうが、この時は驚きましたね。他人には言わないけれど、ひどく落ち込んでいる私の気持ちを察して、まったく違う形で声をかけてくれたんですから……。その人心掌握術はものすごいと思う。この時を境に、私自身の中で、ホリプロへのコミットの仕方が意識的に変っていきました」

 失敗はしたけれども、映画ヘチャレンジしたという現実が評価された。その翌年、役員に任命される。金森は、ますます精力的に事業を拡大していった。ライブトークを続けながら、イベント制作、ステージパフォーマンスやコンサートなどへ果敢に挑む。『ピーターパン』のプロデューサーが引退すると、その任務を継承。東京・名古屋・大阪の三都市で、同時開催を実現させ大ヒットとなる。ちなみに、十七年目を迎えたこのミュージカルは、今年、千百ステージを回し、約百七十万人を動員する。「継続は力」という堀のポリシー、そして「ミュージカルから新しいスターが生まれる」という堀の戦略を、金森は着実に体現している。

 その金森が、今でも忘れられないのが、「カルメン・ジョーンズ」のステージをイギリスから招聘するプロジェクトでのこと。地方テレビニ社が、共同主催に名乗りを挙げたが、一方は「通常の倍の上演スケジュールを組むから、ぜひやらせてほしい」と日参し、もう一方は堀の友人がトップという按配。金森が堀に相談をもちかけると、「嫁に来い、と言われた所とやればいい」と一言。「ステージパフォーマンスの世界は、気力をふり絞っても当たるものと当たらないものがある。それほど厳しいのが現実。この仕組みを瞬時に判断して、会長は人間関係ではなく、情熱と収益性を選んだ。この判断力には心から敬服します」と、金森は振り返る。


 情熱的アプローチの相手を選択した結果、興行は大成功を収めた。

 今後、文化事業部が目指すのは、海外と日本の才能のブレンドだ。東京を舞台に、文化の混血をつくるのである。また、日本オリジナル作品の海外興行で、ロイヤリティービジネスにも挑む。その皮切りに、藤原竜也主演の「身毒丸」が、今年イギリスで上演される。

 理路整然と、事業戦略を語る金森は、女性の先達として、十分な役割を果たしてきた。その背中を見てか、今では女性マネージャーもずいぶん育っている。昨年は、幹部候補生として二名を中途採用。まだ、層は厚くないが「女性の戦力化で企業は生き残る」という堀の持論は、着実に根を下ろしている。



マネージャー一筋に 二十七年、現在は内部固めに専念

常務取締役業務本部長・安永和男

 若い頃から音楽好きの安永は、学生運動全盛の日大芸術学部に在籍中、TBSの「大学対抗バンド合戦」という番組のアルバイトをしていた。そこで出会った堀矩武から誘いがかかる。

 周囲の仲間は、業界での評価は高いが、世間的にまだネームバリューのなかったホリプロよりは、渡辺プロを選ぶほうが多かった。だが、在籍アーティストに魅力を感じた安永は、迷わずホリプロへ。六九年、学卒採用では、事実上の一期生となった。

 当時はまだ、社員が三十人程度の所帯。新米マネージャーの日々は、守屋浩の付き人のような生活からスタートした。他にも、まるで旦雇いのように、さまざまなタレントについたという。

 ちょうど、守屋は交通事故を起こした後で、謹慎中の身だった。ゆえに、マスメディアでの活動はない。一ヵ月のうち二週間以上は、地方巡業が続いた。譜面から衣装から、守屋の荷物をすべて抱えて、キャバレー回りの日々。時には、「こんな酷いバンドの演奏で歌えるか」と、守屋が機嫌を損ねてしまう。仕方なく、調理場からウイスキーを一杯頂戴し、「あとで、パーッとやりましょう」と、なだめたこともあった。TBSでのアルバイトで、タレントとマネージャーの関係を客観的に眺めていたが、いざ自分がその立場になり、「これがマネージャーか……」と痛感したという。だが、辛いという気持ちは、さらさら起きなかった。

 昭和四十年代後半になると、グループサウンズ・ブームは終わりを告げる。男性タレント中心のホリプロにも、若い女性タレントが誕生しはじめた。二十五歳の安永は、まず和田アキ子のマネージャーに。和田が二十一歳の時である。その後、ひと回りも年齢の違う、森昌子、石川さゆり、山口百恵を担当。十五、六歳の彼女たちとのつきあいは、仕事だけにとどまらない。学校の勉強から立ち居振る舞いまで、まさに手取り足取りの育成である。マネージャー業とは、「人間づくり」であることを、この時、安永は痛感した。

 ことに、デビューの一年後から、引退の前年まで十年間つき合った山口百恵のエピソードは、数え上げたらきりがない。中でも、彼女のスター性を裏付けるものとして、こんな逸話がある。

 タレントとマネージャーの関係というのは、互いにいいことばかり言い合って成立するものではない。時には、マネージャーとして、タレントにとっては耳の痛いことも指摘しなければならない。だが、それを繰り返すうちに、必ずタレントは、「安永さんって、大嫌い」と言い出す。こうなって、初めて一人前なのだという。そして、マネージャーの顔も見たくない、口もききたくないという状況を、短期間で通過するほど、大スターになるのだと。

「百恵は、ほんとうに賢い子でした。この状況を、ものすごい短期間のうちに乗り越えていったんですから……」

 十年という歳月をかけて見守ってきただけに、百恵の引退は安永の心に響いた。だが、「残念には思ったけれど、これで良かったと思う。無理やり仕事を続けたとしても、顔に出てしまうから難しいでしょう」と振り返る。

 とはいえ、経営的にみれば、確かに影響は大きかったはずだ。だが、ホリプロには当時から一つの路線が敷かれていた。「一タレントの依存率を、全売上げの二割五分以上にしない」。堀は、常にこれを徹底したのである。

「素人や小さな会社でも、スターを生み出すことはできる。だが、われわれプロの集団にとって一番大切なことは、スターの人気をいかに継続させるか。そのためには、露出過多になるような一タレントへの依存は禁物である」

 それが堀の口癖だという。この戦略こそが、ホリプロの強さにつながった。

 マネージャー一筋に二十七年。そんな安永が、業務本部長に就任したのは昨年七月のこと。二部上場を目指す堀から、「お前が仕上げをやれ」と任務を託された。その責任を今年三月に果たし、引き続き本社機能の充実を図る。今後の課題は、社内情報の共有化と経理機能のデータベース化。社内LANの設置も終わり、全社員にパソコンも行き渡った。この業界では、新奇の試みである。若いマネージャーたちは、この変革に意気も揚々。組織の肥大化を指摘する声もあるが、プロジェクト本部が健全に機能している限り、問題ないと、安永は言い切った。

 現場で長年たたかい、いま内部固めに尽力する安永は、年に二、三度、堀と差しで食事をする。「冷静に見ているけれど、お前はまだまだだな、といつも堀に言われますよ」と、安永は屈託なく笑う。経営幹部はみな現場上がりで現実対応型。その身には、堀の正論が怖いという。だが、現実と正論の絶妙なバランスが奏でる見事なハーモニーの存在も、また真実なのである。



本陣から離れホリプロを静観する男

新音楽協会代表取締役・足立清一

「店頭公開にしろ、二部上場にしろ、周囲が『無理だろう』と半信半疑に思うことを、会長は必ず成功にもっていってしまう。堀威夫という人間は、まさに『有言実行の人』。行動力があって、カリスマ性に富んでいる。新興宗教の教祖にもなれると思いますよ」

 そう語る足立が、ホリプロへ入社したのは、昭和四十八年。新卒の学生を採用しはじめて、まだ四、五年の頃である。日大芸術学部の放送学科に在席していた頃から、マスコミの世界に興味を抱いていた。だが、芸能プロダクションにこだわりがあったわけではない。学生課の求人募集でたまたまホリプロを見つけて、すんなり受かったからという。ごく自然のなりゆきだった。

 入社後の職歴は、多彩である。まずは、マネージャー業からスタートした。当時は、山口百恵、森昌子、石川さゆりなどの若手タレントが、頭角を現しはじめた頃。マネージャーも演歌班、ポップス班、グループサウンズ班の三班にわかれ、それぞれ三、四名でタレントの活動を支えていた。演歌班に加わった足立は、先輩社員のマネージャーぶりを見ながら、体で仕事を覚えていく。タレントとの人間関係に、戸惑いを覚えたこともあった。だが、若い頃のこの体験が、自分を育てるのに大きな意味をもったことも事実だ。

「マネージャー業というのは、結果がすぐ目に見える。それだけに厳しいけれど、タレントと一緒に大きくなっていく喜びを痛感しました」

 マネージャー以外に、足立が経験したのは宣伝部や文化事業部。ことに、文化事業部は出来立てホヤホヤの頃に移り、三木や金森とともに、新プロジェクトを数多く手掛けた。「ライブトーク」では、ヤクルト監督の野村克也、囲碁の米長邦夫、作家の椎名誠、立松和平、故山本七平……など、さまざまなジャンルの文化人を講師に迎え、全国各地を講演してまわった。これまでとはまったく違う、新しい世界との出会いの日々。それは、刺激的な五年間だった。

 この後、プロダクション本部へ部長として赴き、三年前に、現在の新音楽協会へ。演奏家や音楽家のマネージメントを専門に行う会社である。いうなれば、音楽番組やレコーディング、CMやドラマ、映画まで、必要とされる音源に応じて、スタジオミュージシャンをコーディネイトするのが仕事だ。

 会社の歴史は古い。設立は昭和二十九年。経営困難に陥った十五年程前、ホリプロが買収した。現在の社員は十一名。うち三名がホリプロからの出向者で、マネージャーは六名いる。

 この業界自体、かなり前時代的だと足立は指摘する。たとえば、ギャラの支払いは今でも現金で行うという。「それだけ、ミュージシャンたちの信頼度が低いんですよ」と苦笑するが、時代の波を受け、このムードが変りつつあることも事実だ。その背景には、音楽番組が一時のような勢いを失い、生の音を使う機会がかなり減少したことがある。仕事の幅が限られてくれば、競争も激しくなり、それだけ高いレベルの技術が要求される。そうなれば、単にマネージメントを行うだけでなく、独自の人材育成が欠かせない。

 「音楽家のスターづくりとともに、プロデューサーづくりが重要でしょう。第二の渡辺貞夫や日野皓正、第二の小室哲哉を発掘し、育成していく。国内だけでなく、広くアジアにも目を向け、布石を打っていくつもりです」

 ポリプロにめぐりあって、二十年余。およそ三年ごとのサイクルで、さまざまな部署を渡り歩いた足立は、現在、かつてポリプロが本拠を構えた広尾にあるグループ会社のビルから、目黒本社を静観している。本陣から離れて、客観的な目を持つと、会社のことがよく見えてくるのだという。

「百七十名という大組織になると、どうしても小回りが効かなくなる。みんなが、同じ方向しか向かなくなるんです。もっと、斜めや後ろから見る目を持たなきゃいけない。安定した流れに乗っているだけでは、ダメだと思う。現代のエンターテイメント世界は、ものすごく速いサイクルで回転している。その流れを見抜く先見性が重要ですね。後輩たちには、『まず、自分でおもしろがれ』と言いたい。そうでなければ、相手には何も伝わらない。プロ意識も大切だけれど、どこかにアマチュアの感覚が必要なんです」

 組織が大きくなったことで、かつてに比べ、堀色が浸透しにくくなったのは否めないという。その辺りが、堀の悩み所だろうと—。

「でも、会長の影響力はやはり強い。それだけに、プレッシャーも半面感じていると思う。そんな堀の荷を、少しでも軽くしてあげたいし、いつまでも健康で若く、カリスマ的存在でいてほしいですね」



思考型の貴公子は組織変革に情熱を注ぐ

取紬役インフォネットプロジェクト川当業務本部国際業務部長・堀一貴

「これまでの芸能プロダクションのイメージは行動型組織。だが、これからは企画力が勝負になり、思考型組織が求められる。それだけにクリエイティブな小組織の集合体による、ネットワーク型企業が理想です」。

「十年後のホリプロ像について」という質問に、落ちついた口調で論旨明快に答える。

 七年前にホリプロへ。広告会社と音楽事務所勤務を経ての入社だ。海外進出のプロジェクトがスタートした頃で、高校・大学をアメリカで過ごした一貴に、その役回りが訪れた。以後、海外畑を中心に、アーティストの発掘や著作権獲得に携わる。人気ロックグルー。フ「KISS」の著作権購入を皮切りに事業を拡大してきたアメリカ現地法人は、現在、カントリ⊥首楽のメッカ、ナッシュビルに事務所を構え、著作権獲得数は約一万三千曲。一昨年に初黒字となり、十数億円の投資もようやく回収の方向だ。中国法人は、政情不安で長期展望が立てにくいが、四月末にレコードデビューした新人女性歌手がラジオでベスト10入りするなど、明るい兆しが見えてきた。

 そこで目下のところは、「インフォネット・プロジェクト」の成功に意気込む。一パソコンはたった三台」という七年前、米国でコンピュータに触れていた一貴は、自分専用のパソコンを調達。次第に社内の関心が高まった。いよいよ今夏から、社員一人にパソコン一台のコンピュータネットワークシステムを本格稼働。その最大の狙いは、ディシジョン・メーキングの時間短縮だという。「感性勝負のプロダクション業は、本来企業体になりきれないはず。だが、この規模になれば、ピラミッドが形成され、どうしても決断が遅れる。その上、仕事のノウハウは個人単位に蓄積され組織体としての情報管理が難しい。これらの壁を『インフォネット』で打破し、組織変革の先鞭をつけたい」三十七歳。多感な時期を海外で過ごした思考型の貴公子は、新たな文化を築いている。



先端事業の開拓者をめざす

取締役メディア事業本部制作四部部長・堀義貴

「親父の優性遺伝子を兄が、劣性遺伝子を私が受け継ぎました」。父、堀威夫にどちらが似ているかという質問に、躊躇なくこう答える。

 一年半前、ホテルオークラで結婚式を挙げた時のこと。会の締めくくりに四百五十人の出席者を前に新郎として挨拶をした。三十歳の青年にとって固くなるなというのが無理。しかし、義貴は事前の準備なしに即興で挨拶を述べたという。「その場の雰囲気を見て、頭に浮かんだことを言葉にした」。度胸の良さと頭の回転の速さが身上である。

 成蹊大学を卒業後、「親父のコネで」ニッポン放送に入社。「人質に取られたようなものです」と屈託がない。五年間、編成局で過ごした。「企画、出版、広報、イベントなど何でもやった」。一番楽しかったのは、一年半続いた夜十二時半からの五分間番組、「さようなら尾行マン」への出演。街で目に止まった若い女性を数時間、尾行し、その間、彼女の氏素姓、趣味、性格などを想像し、最後に振り向いてもらって、推測が当たっていたかどうかを検証するというもの。今様に表現すれば、ストーカー番組である。義貴は尾行評論家として、アナウンサーの質問に答える。初め、モデルケースをつくるため、臨時登板したところ、当時の編成局長が義貴の軽妙な語り口を面白がり、そのままレギュラー出演へ。高校時代は学園祭の司会、先生の物マネなどでクラスの人気者。一時は「本気でタレント志望を考えたこともあった」とか。

 四年前のフジ・サンケイグループのお家騒動を機に、ホリプロに入社、マルチメディア本部でテレビ番組を制作している。最初の三年間は情報番組を手がけて華々しく失敗したが、バラエティ関連の番組に移行してからは本領を発揮。TBSの「ウンナンの気分は上々」(金曜午後十一時ー十一時半)などは高視聴率を獲得している。

 ホリプロでの役回りは「わからない仕事を一手に引き受ける役」。今年一月に発足した「新しいもの研究所」の所長も務める。例のバーチャルタレント、伊達杏子の産みの親でもある。「ホリプロは新しいものに対応できない体質になっている。もっと汚い会社になって、社内中がいつもお祭りをやっているような会社になれればいい」。その先兵役を自身が果たすとの覚悟のようだ。



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