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トピックス -企業家倶楽部

1999年06月27日

【ぴあ特集】ぴあブランドを構築する五人の情報革命者たち/矢内廣を支える人間群像

企業家倶楽部1999年8月号特集 第4部



若者にしかわからない世界を追究したい――。映画好きの矢内のもとに集った仲間は、そんな夢を共有し、メディア産業という大海原に漕ぎだした。サークルのノリで始まった雑誌づくりは、いつしか時代の申し子として「表現体系の革命」を成し遂げた。そして今、デジタル・ネットワーク社会の幕開けに際し、新たなベクトルを構築する。(文中敬称略)



六畳一間のアパートから、すべては始まった

 大学紛争はピーク期をすぎ、少しずつ新しい風が吹きはじめていた。象徴的だった東大時計台の陥落から、一年数カ月が過ぎた頃のことである。


 中央大学でも、授業は通常通りにおこなわれていた。だが、構内いたるところに、学生運動の傷跡が残っている。学生のたまり場となるサークル室は封鎖。いまだ混迷の余韻は漂っていた。新入生の林和男(現常務取締役メディア事業本部長)は、迷うことなく映画研究会の門を叩く。元来が映画好き。その胸には、いずれ映画で飯を食べたいという思いが熱くたぎっていた。


 映画研究会のたまり場は、大学のそばにある喫茶店だった。学生運動のなごりもそのままに思想論をたたかわせる上級生も多かった。だが、彼らと一線を画すように、ひたすら映画を熱く語る一人の先輩に林は心ひかれた。二年生の矢内廣。それが出会いだった。


 名画座の三本立てから、文芸座のオールナイト五本立てまで、よく映画を一緒に観にいった。趣味は似ていた。ヤクザ映画全盛期。昭和任侠伝シリーズから、日活ロマンポルノまで、とにかく足を運んだ。新宿文化では、論客を集めたオールナイト討論会が人気で、よく二人で出かけたものだった。


 大学生活も一年を経た頃、サークル内で歴代続くTBS(東京放送)のアルバイトを、先輩から引き継ぐことになる。すでに矢内は、報道局で働いていた。林はラジオ局。班は違ったが、週一回の泊り込みの晩には、真夜中の居酒屋でおち合い、バイト仲間も交えて酒飲み話に花を咲かせた。矢内の決まり文句は、「このままサラリーマンにはなりたくない。俺たちで、何か始めないか……」。


 林はすでに矢内から「ぴあ」の構想を耳にしていた。映画監督を夢見る林は、あまり気にもとめず聞き流していたが、気がつけば布陣は着々と敷かれていたのである。映画好きは、矢内と林がいる。演劇好きも仲間にいた。あとは音楽だけだ。


 そんな折、TBSの音楽資料室でバイトをしていた斎藤廣一(現常務取締役業務推進本部長)は、報道局で働いていた友人から、矢内を紹介された。どうやら、矢内が「音楽に詳しい奴を紹介して欲しい」と、その友人にもちかけたらしい。


 TBSの本社前にある喫茶店で矢内と会った斎藤は、おもむろに「この雑誌を手伝ってくれないか」と切り出される。突然の誘いに困惑するまま、気づいた時には、中野坂上にある六畳一間の矢内のアパートに。そこには、林をはじめ映画研究会の連中からTBSのバイト仲間まで、いろんな奴が四六時中いりびたっていた。大学こそ違うが、手作りの情報雑誌づくりに夢を燃やす仲間たちの話に、斎藤はすっかり意気投合した。まさにサークルの延長線のノリで、ぴあ編集室は産声をあげる。雑誌づくりにはあまり興味のなかった林も、自然の流れでメンバーの一員となった。



クイズ制作から配送バイトまで、資金作りに明け暮れる

 鉛筆、消しゴム、原稿用紙――。雑誌づくりに必要な道具は、すべてTBSから頂戴した、と林は苦笑する。創刊号の表紙イラストは、報道局にいた契約社員にお願いし、印刷はアルバイト仲間の兄が勤めていた大日本印刷に頼み込んだ。なにせ学生の身分である。バイト代が入るとはいえ、印刷代だけでも三十万円近くかかる制作費は賄えない。


 斎藤は広告を集めようと、とびこみ営業を繰り返すが、ジャズ喫茶や試写会招待の小さな広告がほんの気持ち程度に入るだけ。初版一万部。だが売れたのは、たった二千部あまり。当然、赤字である。アパートの押し入れは、まだインクの匂いのする創刊号が、山のように積みあがった。街中の映画館では、「ゴッドファーザー」と「ひきしお」が上映され、日本映画の「男はつらいよ柴又慕情」が人気を博していた頃のことである。


 自主制作映画をつくり自らもシナリオを書いていた林は、TBSの知り合いからもちかけられたクイズ制作の仕事を、ぴあとして請け負うことにした。制作費を稼ぐためだ。矢内をはじめ、仲間たちが思いつきで持ち寄るクイズを、林がとりまとめ、TBSの編成会議に持ち込む。一問採用につき数千円というギャラで、毎回何十万円かの資金が確保できた。夏のお中元、冬のお歳暮の時期には、矢内とともに配送のアルバイトもやった。資金稼ぎが目的だが、もう一つ別の狙いもある。アルバイトでくる大学生に、ぴあを売り込むのだ。昼休みになると、矢内と林は昼飯もたべずに、まわりのバイト仲間に創刊号を配り歩いた。「いま、この場で買ってくれたら、試写会に招待するけど……」。だが、反応はいまいちだった。


 斎藤は、書店のとびこみ営業に奔走していた。創刊号の窮地を救ってくれた銀座教文館・中村社長の紹介状のお陰で、八十九の書店はぴあを置いてくれるようになったが、まだまだ新規開拓が必要だ。紙袋いっぱいに創刊号を入れ、本屋を見つけては売りこんだ。そっけなく断られることもあれば、一時間話し込んでからようやく頷いてくれることも。当時は、定期購読も受けつけていた。「毎日、ポストをのぞくのが楽しみでしたね」、と林。三通のハガキがいっぺんに届くと、「よし、飲みにいこう」と矢内は言ったものだ。みな無給だった。けれど、文句一つなく楽しんで雑誌をつくっていた。それは矢内のリーダーシップがあればこそ、と林は振り返る。


 地道な活動が続いた。とりあえず五部、そんな書店が少しずつだが増え始め、部数は確実に上向きだす。取次を通さない配本だから、返本率はきわめて少ない。都心から始めた新規開拓も、やがて郊外に広がり、山形県の本屋から「客が待っている。早く持ってきてくれないか」と、催促をうけるまでになった。二年半後に、株式会社設立。社員十五名程度の小さな所帯だ。「そろそろアマチュア感覚ではなく、プロとしての意識を持たなくちゃいけないな」と矢内が言ったのは、その頃だった。それまで、ちゃんづけや呼び捨てが当然だった編集室内の空気も、少しずつ変化を見せ始めた。


 映画制作への思いを残していた林も、「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」の前身となる「ぴあシネマブティック」などが立ち上がり、格段に仕事はおもしろくなっていた。だが、映画情報の入手には、いまだ苦労続きだ。会社の体をなしたものの、業界におけるぴあの認知度はまだまだ低い。「映画会社からすれば、ぴあというのは名画座に行く人、つまりロードショーには来てくれない人のための雑誌と見られていた。そうじゃない、映画人口全体を底上げすることに意味がある、と説得しても、なかなか受け入れてもらえなかったですね」。だが、確実に部数が伸びていく「ぴあ」の勢いは、そんな周囲の認識を自然と変えていった。その背後には、時代の変化もある、と林は指摘する。「七十年代後半から、学生たちが変わったと思う。僕らのような貧乏学生が減って、バイトでお金を稼ぎ、封切りロードショーを見られる層が増えたんですよ。結果として、名画座の終焉につながるけれど、ぴあ=名画座というイメージは完全に払拭された」


 こうして、創刊から五年後の七六年十月、取次との取引がスタートする。当時の発売部数は約十万部。人海戦術ではとても配りきれない規模になり、書店から取次に苦情の電話が相次いだ。草の根でマーケットを広げてきた努力が、実を結んだのである。

「書店の配本帰りに、軽くなった紙袋を持つのは最高の気分でしたよ。辛いけれど楽しかった。もう自分たちで配本しなくなるのかと思うと、ちょっとさびしかったですね……」(斎藤)。



隔週刊化、広告宣伝強化のなかでの出会い

 その頃、上智大学テニス部で青春を謳歌していた白井衛(現取締役営業開発事業本部長)は、一年後の自分を予想だにしなかった。現役最後の三年の夏休み明け、「ぴあでバイトをしないか?」と誘われる。「第一回ぴあ展」の手伝いだった。


 東映大泉撮影所を舞台にしたこのイベントは、十二月初旬の二日間、夜を徹して映画から演劇、音楽まで、撮影所の小屋を借りきり、さまざまなイベントが催される。そこで、会場に手作りの「たべもの横丁」をつくろうという案が出ていた。その一切の取り仕切りを、白井が任されたのである。「お前が仕切ってくれ。四、五十店は集めたい。やり方は、自分で考えろよ」。


 その矢内の言葉に、白井は大学祭をしらみ潰しに回り、人気の店を出店している学生たちに声をかけた。学生だけではない。食堂も数軒あたり、自らもスーパーからカップ麺を仕入れ店を出した。イベントの入りは上々で、たべもの横丁も売り切れ続出。白井は矢内の期待に、応えたのである。


 四年生になった白井に、「うちにこないか?」と幹部から声がかかった。ぴあ展のことを熱く語る矢内の言葉は、胸に響いていた。社員からバイトまで、目を輝かせて夢にひた走る姿も魅力的だった。だが白井は、とある大企業に就職を決める。その二年後、ぴあに舞い戻ることになろうとは、夢にも思わなかったのだが。


 ぴあ展の成功をうけて、社内はますます活気づいた。月刊から隔週刊への構想が具体化しはじめ、若者の文化度調査をとあるマーケティング会社に依頼する。その営業窓口が、川口純(現取締役エンタテイメント事業本部長)だった。当時、雑誌社が調査をするなど、前例がない。予算二千万円という数字に、「そんな額を雑誌社が出せるのか?」と、川口の上司は不信感を露にした。調査の資料に始まり、広告の媒体資料づくりまで、川口が一手に引きうける。これまでさまざまなテーマで分析をおこない、調査レポートとして提出してきたが、それを使ってビジネスをしたことはない。一度ぐらいは、メーカー側に行ってみたい、そんな思いが川口の胸には渦巻いていた。たまたま会社の先輩がぴあに移籍していたこともあり、相談にいくと、「うちはメーカーではないが、商品はある」と一言。その言葉に、川口の心はほぼ固まった。


 白井の元には、隔週刊に備えて新しく広告営業マンを探している、という話が舞い込む。何万人規模の大企業のなかで、歯車として働く日々に疑問を感じていた白井は、小さいけれど夢のあるぴあに人生を託した。最初の出会いから一年八カ月、「ぴあの白井です」と宣伝部にとびこみ営業する日々がスタートする。わずか三人の広告マン。初めの四、五年こそ、企業に日参し交渉窓口を一つひとつ開拓する努力が続いたが、飛ぶ鳥を落とす勢いの雑誌の成長に助けられ、広告収入は急増していった。



チケットぴあ、それは黒船到来だった

 相前後して、川口がマーケティング調査室長として、ぴあの一翼を担うことになる。


 趣味とレジャーの調査白書を制作。やがて宣伝企画室を任され、販売部長に就任した。白井が広告の入稿を、川口が駅貼りポスターや中吊り広告の出稿を取りしきる。雑誌販売のプロモーション体制がようやく確立した。


 だが、初出社の時には正直言って不安があった、と川口は述懐する。玄関の扉には暗幕が貼られ、洗面所ではシャンプーをしている社員がいる。壁には所狭しとポスターが並び、小部屋の奥で寝ている社員もいた。


 自由さはあるが、とまどいは隠せなかった。月日が経っても、その思いは変わらない。ポスター一枚にも、ぴあらしさにこだわるスタッフたち。「それは、ぴあ的じゃないな」と指摘されても、その「ぴあ的」がわからなかった。「チキンラーメンだけで過ごした人達の世界に飛びこむのは大変でしたよ」と川口。ロジックだけではない、十年の時の流れのなかで醸成されたぴあらしさになじむには、数年の時が必要だった。


 苦い思い出はほかにもある。八三年下期、コンビニでの販売とバーコード導入に揺れるなか、右肩上がりに伸びていた部数が初めて転落したのだ。「どういう原因なんだ」。矢内に聞かれても、答えられない。川口は取次からデータをもらい、得意の分析に着手した。過去三カ月分の販売推移を睨みながら、表紙の色からキャッチコピーまで事細かに検証し、配本調整をおこなう。返本率の上昇を押さえるため、取扱部数が五冊以下の書店を断腸の思いで切った。


 翌年には部数が回復。コンビニ販売のスタートで、部数は五十万部を突破する。このとき初めて、川口はぴあの一員になったことを実感したという。


 「あれは、大変な仕事でした」と苦笑いするのは、チケットぴあ事業のことだ。部数転落の危機をくぐり抜けた川口は、チケット事業部に移った。プレイガイドや新聞広告でチケット販売するのが常識だった当時の興行界にとって、コンピュータで販売すること自体、黒船到来である。


 風当たりは強かった。何とかチケットを出してもらえても、売れなければコンピュータのせいにされる。二重発券で百枚近いチケットがだぶり、土下座をして謝ったこともあった。それでも川口は、年間二百七十五日を現場回りに費やした。とにかく、口を聞いてもらえるまで、足しげく通う。イベントは土日が多く、休みのない日々が続いた。


 斎藤と白井は、その頃大阪支社立ち上げの準備に奔走していた。大阪朝日放送が出していた情報誌「Q」の発行権を買い、関西版ぴあを創刊したのである。当時、大阪をターゲットにした情報誌はかなりの数あり、東京からきた出版社はよそ者扱いされた。地元密着をアピールするため、大阪での採用活動を展開し、東京とは異なる雑誌とチケットの連動を試みた。


 「チケットぴあとぴあはペア」のキャッチフレーズで、中吊り広告を刷り、雑誌でも宣伝物でも至るところに、チケットの売出し情報を載せた。営業班もチケット班も、編集を考える。そんな一丸体制によって、スタート時には二万部の部数が七万部に急増。情報を見るだけでなく、チケットを買うための雑誌という位置づけを確立した。


 だが、失敗もある。コスト面の見なおしから、テレビぴあ関西版の創刊とともに、ぴあのテレビ欄を抜いた。とたんに部数は二万部の減。東京版にはテレビ欄がないから、との判断だったが大阪では「これ一冊でOK」がウケていたのだ。すぐにテレビ欄を復活させたが、部数の取り戻しには二年の歳月が必要だった。



デジタル系の感性がある人、それが矢内

 チケットぴあの定着、大阪・名古屋支局の開設と、ぴあは創業期から大きく変貌を遂げた。それは、出版業から情報伝達産業への脱皮といえる。そして時代は、ニューメディアの展開からデジタル社会幕開けの序曲を奏で始める。当然のことながら、コンピュータを駆使したシステム構築が企業にも求められた。


 そんな折、ソフトハウスの実質オーナーとして、大企業のLAN構築などに携わっていた宮崎眞行(現取締役IT推進本部長)は、知り合いを介して矢内に出会う。ぴあの存在は知らなかった。「一緒にやりませんか?」と、おもむろに切り出す矢内。それから、ほぼ毎日のように矢内と会い、ぴあの夢を聞かされた。二週間後、「やりましょう」と宮崎は答える。八九年三月、ぴあコンピュータシステムを設立し、翌年の株主総会で本社役員に就任した。現在は、グループ全体のシステムを統括する立場である。


 「初対面の時から、矢内はコンピュータシステムに敏感だった。本人はアナログ系だと言っているけれど、もともと感性のある人だと思いますね。システム系の話はわかりにくいものだけど、わからないから仕方ない、とは絶対に言わない。デジタル化やネットワーク化に、ものすごい危機感とビジョンを抱いていますよ」


 二十一世紀型システムをいちばん敏感に考えている矢内とともに、宮崎はIT推進のみならず、ぴあの企業戦略を練る。ぴあに移籍した当初、社内報でこんなことを書いた。

『この会社には、ものすごいエネルギーがある。でもそれだけは危ない。みんなが勝手に動いてうまくいっているのは、たまたまでしかない。大企業と比べれば、格段の差を感じる。これからは、いかに全員のベクトル合わせを行うかが重要だ』


 今年五月十日に発表された大幅な組織改変は、そんな宮崎の思いの集大成だ。ここ二年間、若手社員を集めての社長を囲む会で話し合ってきた企業理念についても、新たに「ぴあアイデンティティ」として発表した。これで、ようやく大企業の仲間入りをする地盤が整ったのである。



二十世紀のぴあから、二十一世紀のぴあへ

 前例がないことへの挑戦――。それが、ぴあの歴史であり強みである、と川口は言う。雑誌にしろ、チケットにしろ、すべて自分たちのニーズから、自分たちの手法で発見したノウハウだ。それが、時代のニーズに見事にマッチしたのである。


 創業当初、「もの言わぬ饒舌誌をつくる」と矢内は語っていた、と林は振り返る。


「従来の情報メディアは、意見や批評が全面に出ていた。でも矢内は、押しつけを嫌い始めた若者たちに、客観的・網羅的・平等的・機能的に、事実のみを提供することに編集方針をおいたんです。それは、当時のメディアの方法論では考えもつかないことだった。書店でも、『これで雑誌なのか?』と理解されませんでしたよ。でも、時代は確実に変化していた。ぴあによる『表現体系の革命』は、情報誌の既成概念を打ち破ったんです」


 そんな情報産業の革命児は、いま新たな扉を開けようとしている。二十七年という歳月のなかで、幸いにもニュートラルなコンテンツを数多く提供できる立場は確立した。こうした多様なコンテンツを、いかに多様なメディアで発信していくか。それが、二十一世紀のぴあが目指す新たな企業像である。「アナログ文化からデジタル文化へは、ゆるやかなシフトを見せると思う。だからこそ、雑誌、チケットなど各機能が情報共有できるプラットフォームが必要となります。そのプラットフォームに情報をインプットし、インターネットやパソコン通信、CD-ROM、カーナビゲーション、携帯端末などにアウトプットしていく。一人ひとりのニーズにリアルタイムで対応できるトータルな仕組みを構築することで、アナログとデジタルの共存共栄をめざすわけです。おもしろい時代が到来していると思いますね」(林)


「二十世紀のぴあ」は、矢内の熱情で引っ張ってきた。


「見たいものは見たい。聞きたいものは聞きたい。ジャンルにこだわらない自らの欲求――」。


 創刊号の編集後記で、矢内はぴあにかける思いをそう記している。そのこだわりと好奇心は、衰えるどころか年々パワーアップしていると、幹部は口を揃える。


 だが、「二十一世紀のぴあ」は、もはや一人のリーダーシップでは語り尽くせない。「ぴあ」そのものが、ブランド価値としてしっかり一人立ちし、国内のみならず世界で通用するトップブランドとなる日まで、幹部たちの戦いに終りはなさそうだ。



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