1999年10月27日
【光陽グループ特集】業界を震撼させる急成長証券の真実/KOBE証券
企業家倶楽部1999年12月号 特集第4部
1人当たり預かり資産で野村証券を抜き第1位。旧丸起証券時代から7期連続赤字だったKOBE証券が、99年に入って突如として大躍進、証券業界を震憾させている。その裏には、『金融総合商社』の夢にかける光陽グループ代表、川路耕一の元に集まった豊田善一、相模賢一、そして川路を慕って、野村証券から飛び込んできた市村洋文らの存在があった。名門野村証券の若手ナンバーワンがなぜ弱小ベンチャーに転職したのか。市村はKOBE証券で何をしたのか。その秘密は高い志、リスクを恐れないチャレンジ精神、そして先を見通す目にある。(文中敬称略)
KOBE証券は川路が一九九五年十二月、旧丸起証券を買収し、翌九六年に社名を変更し再スタートした証券会社である。発足当時約二百八十億円に過ぎなかった預かり資産が、わずか三年半で一兆円を突破、業界全体で十五位、社員一人当たりでは五十六億一千万円(九九年七月現在)と野村を抜いてトップに躍り出た。
躍進の最大のポイントは「人」である。川路の夢、ビジョン、人間力に惹きつけられて、多くの人材が集まってきた。まず証券界を驚かせたのは”営業の神様” といわれた業界の重鎮、豊田善一(元野村証券副社長、国際証券社長) を会長として迎えたこと。この人事は、川路が豊田をスカウトし、三顧の礼をもって迎えたといわれる。しかし、事実は少しニュアンスが異なる。
川路はもちろん、そんなすごい人が来てくれたらという気持ちは持っていたが、業界の顔を自らスカウトするほど図々しくない。来て欲しい人がいても自分からは言い出せない。そういう人間だからこそ思いが通じ、本物” が集まってくるのである。
豊田が川路を知ったのは国際証券時代に光陽グループを公開させようとしたとき。川路については、めずらしく誠実な人間だと思っていた。
豊田は八九年十二月、脳梗塞で倒れ、その後遺症で左手左足が不自由になり、九〇年には相談役に退いた。九六年当時、豊田は七二歳。年齢的にも引退の時期だったが、川路がKOBE証券を設立したと聞き、新しい職場でもう一度チャレンジしたいと思った。
「KOBEに行くことについては、私は野村時代の兄貴分だった田淵節也(元野村証券社長) さんに相談したんです。すると、君は引退しても趣味がない。仕事が趣味なんだから行ったらどうだという。みんなは反対したけど、田淵さんが賛成してくれたから行くことにしたんです。なぜなら、私はそこに一脈の光を感じたんです。脳梗塞で左手足が不自由になったけど、趣味の仕事をするのが最高のリハビリになるんですよ。楽しくやっているから、よかったと思っています」と豊田。
KOBE証券は体が不自由になった業界の功労者を最後まで手厚く遇している会社なのである。豊田の存在はKOBE証券にとどまらず光陽グループにとって大きな意味がある。どんな大企業の社長室にも電話一本で入っていけるその人脈もさることながら、精神的意味合いが大きい。何事に対しても「王道を歩むこと」「正攻法で真っ正面からものごとに取り組むこと」をモットーに生きてきた豊田の言葉は、その一言一言が重みをもっている。
豊田はKOBE証券で二つの日本一を公言した。一つは、日本中のどこの証券会社よりエチケットマナーがよく、顧客に親切な感じのよい証券会社になること。二つ目は、日本一顧客の利益追求のために努力する証券会社になること。そして、社員全員に対して、月に一度親に手紙を出すことを、チェック体制を設けて、義務づけている。KOBE躍進の裏には、そんな企業文化があるのだ。
KOBE証券は九八年四月、旧山一証券の取締役だった相模賢一を社長に迎えた。首都圏の営業本部長という立場で千二百人の部下を統括する立場だったとき、山一名誉会長豊田善一氏廃業の激震に見舞われた。相模は部下たちの再就職先を世話するため野村企業情報社長(当時)の後藤光男を訪ねた。その後藤に川路を紹介されたのがきっかけで現在に至る。
KOBEには旧山一の社員が三十人ほどいる。相模については、山一時代責任ある立場だったことに対するわだかまりが全くないと言ったら嘘になる。しかし、トップが敗北を知る人間であることは重要なことだ。業界の怖さを嫌というほど知っている豊田と相模が、KOBE躍進の立役者となった専務取締役の市村洋文の背後にひかえているのだ。
豊田と相模は、市村の実力とその活躍を認めつつも、手放しで喜んではいない。急成長にはリスクがつきものである。特攻隊長が行きすぎたときには、手綱を引き締めにかかるだろう。
顧客が顧客を呼ぶ仕組みをつくる
さて、この十カ月あまりでKOBEをあっという間に躍進させたのが市村洋文だ。市村は何をしたのか。
簡単に言えば、市村は「この会社、このオーナーだったら間違いない」という新興ベンチャー企業を顧客に紹介し、徹底してそこの株式を買わせた。その見込みが見事に当たっているため、大儲けした顧客が顧客を呼んでいる。顧客が他の証券会社の株を処分して現金をつくり、KOBEで買う仕組みをつくったのである。
「人間一人の力をこれまであまり信じてなかったけど、一人でこんなに変わるもんなんですね」と川路に言わしめた凄腕である。
市村は五九年生まれの四十歳。立教大学社会学部から野村証券に入社。仙台支店、新宿野村ビル支店、本社営業企画部を経て現役最年少で大森支店長に抜擢された若手のホープだった。
その市村が川路に初めて会ったのは九八年六月二十四日(市村は日にちまで覚えていた)。大森支店の顧客に仲介されたのがきっかけだった。
その日、市村は三貴商事(東京・東日本橋)六階にある川路の代表室まで出向いて行った。市村にとっては光陽グループも川路という名前もまるで縁のないものだった。天ぷらの用意をして待っていた川路にしても、すでに野村証券の幹部は何人も知っているのに、なぜ大森支店長に会わなければいけないのかと思っていた。
ところが出会って数分後には、二人とも天ぷらをつまんだ箸をロに持っていくのも忘れて話し込んでいた。
「いま大森支店の預かり資産を八百億円から千六百億円に倍増する一六作戦を展開しています」と市村が言った途端、川路の目が輝き、身を乗り出してきた。
「そうか。いま、いくらまでいっているの」
「もう千二百億円ですから、目標は確実に達成できます」
「それはどうやって、実現したの」
矢継ぎ早の質問によどむことなく答える市村の顔をまじまじと見ながら、川路は手に汗を握って聞き入った。なかなか業績の上がらないKOBE証券の運営に悩んでいたところに、ちょうど同規模の大森支店を急成長させた男が現れたのだから興奮しないはずはない。
野村にはこんな支店長がいるのか。やっぱり野村っていうのはすごいな、と思った。
「うちが半年に一度開いている管理職ゼミナールで、ぜひ講演してください」と川路。
市村は一回ならと軽い気持ちで承諾したが、その後、先物五社に対して五回講演をすると知って面食らった。しかも、その日程はすべて土日曜日。すごい会社だなと思った。
そんな出会いがあって、市村は川路と二度、三度と食事を共にした。そんなとき川路は決まって、金融総合商社の夢を熱く語る。野村証券から見れば名前さえ認知されていないグループのトップが、大まじめで一つのジョークもなく、金融総合商社像を語る。しかも二十年も前から言い続けているという。市村の思いがだんだん募ってきた。
志の高さ、時代の流れを捉える大勢観の鋭さ、さわやかな人柄…… 。
「ただ者ではないな……」驚きと新鮮さをもって市村は思った。
野村証券で最高の評価をされているポジションを捨てるのは容易ではなかった。が、市村は決断した。
九八年十一月、野村で異動の発表があり、市村は本社への栄転となった。その日に、川路のところへ行った。
「栄転おめでとう、君はやっぱり本社だな」と、川路が笑顔で握手を求めてくる。
「いえ、違うんです。代表のところで一緒に仕事をしたい。金融総合商社を立ち上げる一翼を担わせてください」
「冗談か……。市村君、本当なのか」
川路の目が真っ赤になった。
代表室には神棚が飾ってある。その前で、川路は興奮して叫んだ。
「神様だ、神様だ!」
九八年十二月、市村は光陽グループの一員となった。まずはグループの経営企画室長として、九九年三月まで四カ月間、グループ全体の公開、持株会社の設立、KOBE証券の公開上場などグループ戦略を立案した。朝六時半から夜の十二時まで、グループの強味、弱味、問題点、解決策などを徹底分析した。
九九年四月からKOBE証券の実務についた。市村はまず顧客ターゲットを「成長企業およびそのオーナー、地域を代表する企業およびそのオーナー」と明確にした。
そして商品戦略は「日本の中で成長力のある企業に良質な資金を供給することをKOBEの商品とする」と定めた。つまり、仕手株のように何でもいいから売った買ったりするのではなく、伸びる可能性のあるいい会社に投資する。それによって日本経済を活性化させるという、いってみれば証券会社本来の役割を明確にした。
そのためには企業を見る目が非常に重要になる。その選択は企業のオーナーに会って、直接ビジョンを聞くことで決める。人間を見る観察力、匂いを感じる直感力、理解力、時代を感じる感性、経験などあらゆる能力が必要とされる。市村が推薦する元気印企業は、野村時代から足で稼いだ情報が元になっている。
ただ、会って話を聞くだけではなく、もう一つの飾にかける。投資情報をインターネットで二十四時間開示するように働きかけ、それを断る企業には投資しない。情報を開示できないのはどこかに嘘があるからだ。逆に一つでも開示できるということは、自分の会社に自信を持っている証拠になるからだ。
この結果、KOBE証券のホームページにある『インターネットIR』で投資情報を公開している企業が次のページの表のような企業群である。パッと見て、一般的には認知されていない、評価の定まっていない店頭企業が多い。だからこそ急成長した。KOBEの営業マンはこれらの企業の株を、同社がターゲットとする成長企業のオーナーたちに売る。みんな金持ちだから効率がいい。市況の追い風もあって、一千万円が一億円になったという顧客がざらに出ている。
顧客としてはそれを売って儲けを確保したいところだが、成長企業に良質な資金を提供するために、顧客には売らないで持っているように要請する。
「このオーナーなら間違いないという企業に投資しているのだから、持っていた方が絶対得なんです。たとえばソフトバンクの株だってずいぶん乱高下したけど、結局売らないで持っていた人が一番得をしているでしょう」と市村。この辺は、ものすごい自信家だというほかない。
「お客さんは儲けが出れば売りたくなるけど、売らせないで、情報開示されている別の銘柄を薦めます。そのときにキャッシュを出してくださいと言えば、こっちで含みを持っているから、他の証券会社の株を売って、うちにキャッシュをもってきてくださるんです」と市村。
KOBEのIR情報には月間四十万件以上のアクセスがある。あらゆる会社の証券マン、アナリスト、ファンドマネージャーなどが見ているわけで、それによってこれらの企業の株価がまた上がるという図式になる。
すごい仕組みをつくったものだが、懸念がまったくないわけではない。たとえば豊田は、パチスロ機製造大手のアルゼの扱いが多いことを気にしている。
「東京電力やソニーのような株を扱って預かり資産が増えたわけではないから、一兆円を超えたなんてあまり宣伝してほしくない」という。
「パチスロはギャンブルではないか。消費者金融は利息が高すぎてけしからん」と思っている人もまだ世間には多い。こういう考え方は旧世代のものなのだろうか。
少なくとも市村は完全な新世代タイプである。
たとえば、すさまじい勢いで伸びている商工ローンの日栄や商工ファンドといった企業は、ここにきてマスコミに叩かれている。ドン・キホーテも深夜の二ーズに応えて急成長したが、周辺住民の苦情が大きく報道されている。これは『出る杭は打たれる』という現象にすぎないのか。旧世代人の最後の抵抗なのか。これらの企業は並みの経営者に率いられているのではない。しかし、人間だから足りないところもあるだろう。
いずれにしても急成長企業は、転ぶのもいとわず全力疾走している。非常に危ない橋を何とかバランスを取りながら渡っている。リスクをとって果敢に挑戦しているから伸びているわけで、それはKOBE証券も同じなのである。
「チャレンジせず失敗しない人間より、チャレンジして失敗する人間を大事にしたい。責任は俺がとるから思い切ってやれ」と川路は常々言っている。
市村が思いっきり活躍できる理由もそこにある。多少つまずくことはあっても、前進する方が止まっているより有利だ。特に変革期はそうだ。市村のかけは当たるとみた。
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