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トピックス -企業家倶楽部

2000年10月27日

【楽天特集】ビジョンを共有し夢に賭け無から有を生んだ創業メンバー/三木谷浩史を支えるスタッフ

企業家倶楽部2000年12月号 特集第4部


三木谷浩史と本城愼之介の出会いから生まれた楽天。その経緯は「大成は袖振り合う縁をも生かす」という言葉を想起させる。続いて杉原章郎と小林正忠が合流。開発と営業の両輪がそろった。「これまでになかった会社をつくる」という三木谷のリーダーシップのもと、夢とビジョンをもって未開拓の原野を突き進んでいった。汗と涙と無邪気な笑顔──。IT革命先端企業の舞台裏は生真面目で泥臭い。創立メンバーから生まれたそんな社風は今も脈々と息づき、若いパワーを200%引き出している。(文中敬称略)



明日から来い

 一九九六年四月二十一日。慶応大学湘南藤沢キャンパス院生の本城愼之介(現取締役副社長)は自分が目標とする日本興業銀行を辞めた人がいると聞いて、東京・恵比寿のマンションの一室を訪ねた。

「就職戦線異状ありまくり」というホームページをつくり、日本で最初に就職活動学生を対象とするメーリングリストをつくった本城は学生の間ではカリスマ的存在だった。

「僕は興銀に入って日本に新しい産業をどんどん興すつもりですが、あなたはなぜ辞めてしまったのですか」二十四歳の本城は三十一歳の先輩に尋ねた。

「大企業が社会を変えるとか、銀行が産業を興すという考えはもう古いよ。個人とか、ベンチャー企業が新しい事業にチャレンジし、既成事実をどんどんつくっていくことによって社会や経済が発展していく。もうそういう時代なんだよ」と三木谷は答えた。

 その活き活きとした目を見、本質をすばりとつく言葉を聞き、ピンとくるものがあった。面接のテクニックなどに気を使う世界とはまるで違っていた。

「明日から来いよ。名刺をつくるからな」

 あまりに早い展開に戸惑ったが同時に「この人と一緒にやれたらすごいな」と思い、その日から就職活動を止め、三木谷の事務所に通うようになった。コピーとり、ファックス送信など、こまごましたことを手伝った。三週間ほどして、三木谷が口を切った。

「そろそろどうだ」

「じゃあ、お願いします」

 学生身分のまま入社した。

 本城の初仕事はパソコン教室の立ち上げと運営だった。最初から最後まで全部自分でやった。

 当時三木谷はコンサルティング事業を営んでいたが、自分自身がプレイヤーとなるビジネスを模索していた。百以上のビジネスを検討した中で天然酵母のパン屋チェーン、地ビールレストランチェーンは有力な候補だったが、九六年秋、最終的に選択したのはインターネット・モール事業だった。



手作業でつくった楽天市場

 パソコンに詳しい本城がプログラムをつくることになった。といっても経験があるわけでも理系出身でもなかった。一日十万円の家庭教師を五日間つけてもらい、あとは専門書一冊で独学しながらシステムづくりにチャレンジした。

 朝九時から夜中の二時、三時まで、ひたすら画面に向かう日々が始まった。電話も鳴らず、キーボードを叩く音だけが響く。三木谷と二人だけの時期が半年近くあった。

「大変でしたね。すごく大変でした。複雑な心境。何かを作っている実感はあったけど、それが本当に形になるか、まったくわからない。自分たちの努力が水の泡になるかもしれないという不安とか、ものがなかなかできないという焦りがある一方で、これはものすごいものができるぞという期待、ドキドキ感が入り交じっていました。ただ、すごく楽しいというか、エキサイティングな時間でした」と本城。

 三木谷は開発の進捗状況を見ながらビジネスプランを練っていたが、あるとき突然プログラミングの勉強を始め、実際にプログラムをつくって「こんなのつくってみたよ。こんな風にやってみたらどうかな」と、本城に見せたことがある。

 本城の仕事が進捗せず、自分の時間に少し余裕ができた時に、三木谷のとった行動であった。

「何か問題があったときに、役割分担という枠を超えて、とにかく自分が行動する人なんです。机がないといえば自分で御徒町のディスカウントショップに行って、買ってきたりする。社長だから、ハーバードでMBAを取得したからというのは彼にとっては全然関係ない。自分が今何をすべきか。それがいつも頭の中にある人です」と本城。


 九七年二月エム・ディー・エム(現楽天)を設立。四月にシステムのプロトタイプが完成し、五月に楽天市場が開業した。



運も実力のうち

「最初にシステムをつくった人間が天才的だったから楽天は成功した。運も実力のうち」三木谷はその後何度もそう言って、本城の功績を称えている。本城に出会わなかったら、今の楽天市場はなかったと思っているからだ。本城にもその自負はある。

 現在、楽天のナンバーツー、開発部のトップとして、同社を引っ張る立場になった。七二年生まれ、二十八歳の若さだが、ものに動じない落ち着きを感じさせる。北海道は帯広の先、人口三千人の音別町の出身。高校時代は三年間函館に在住、函館ラサール高校に通った。

「函館ラサールは日吉町一の二の一番地でした」──。筆者がたまたま同校を知っていて、地元の話題になったとき、彼は言った。日付、番地など、とんでもなく細かいことまで覚えている。おそらく歴史の年号などは教科書を一読するだけで記憶に焼き付いてしまうタイプだ。起業して最初に訪ねてきた学生が“天才的”だったとは、三木谷は相当な強運の持ち主である。

 役割よりも存在であれ、と本城はよく言う。

「会社の中にはいろんな役割がありますけど、役割だけに徹していても、つまんないと思うんですよ。役割は重要ですが、それ以上に山田だったら山田という存在であってほしい。営業部の山田君は確かに営業が得意かもしれないけど、それ以外にもいろいろなことをすると。会社の中で役割を極めるというよりも、存在感を高める方が大事だと思いますので、新人研修ではどういう存在になりたいかという課題を与えています」

 本城にとって三木谷は、ボスであり、ビジネスパートナーであり、尊敬できる人であり、親友である。

「プライベートのことでも、三木谷に相談することはあります。そういう時はむちゃくちゃ親身になって話を聞いてくれますよ。それから何ごとにも真剣。たとえばボウリングに行っても、真剣に勝負してきます。やるからには絶対に一番になるという人です」と本城。

「トヨタ、ホンダ、ソニーみたいな世界企業になりたい」と夢は大きい。そのためにまずインターネットの世界で日本一、世界一を目指す。



楽天に合流した起業家

 取締役オークション部長の杉原章郎は慶大湘南藤沢キャンパスの一期生で、本城は二期生である。互いに大学祭などの学事に関わっていたのでよく知っていた。九六年四月二十二日の夜、家に帰るときに本城とばったり出会った。

「就職活動しているんだってね」

「それがさ、昨日変な人に会ってね。興銀のことを聞きに行っただけなのに、明日から来いと言われて、もう名刺もつくっちゃったんんだ」

「すごい強引な人だね」

 そんな会話をしたが、杉浦はすでに起業していたのでその後楽天に入るなど夢にも思っていなかった。三木谷に出会ったのは、楽天が港区愛宕のオフィスに引っ越した日。ある人を介して、新オフィス開設パーティーに呼んでもらい、三木谷に紹介された。

「今、コンサルティングをやっているけど、この仕事は、人の会社のために自分の身をすり減らすばかりで広がりがない。消費者に直接影響を及ぼすような仕事をしたい。インターネットビジネスを始めるつもりなんだ」

 企業にインターネットツールを販売していた杉原は三木谷の言葉に共感した。

 最初は会社と会社のつき合いで営業協力などしていたが、九七年の年が明け、楽天市場の構想が明らかになった。出店者がブラウザ(ホームページの閲覧ソフト)上で自由にお店をつくれるという画期的なインターネットモール。そのテスト版を見たとき、会社を持つ難しい立場だったが、楽天に身を投じようと決心した。九七年二月、楽天設立と同時にメンバーに加わった。

 このとき、杉原の会社に身をおいていた取締役営業企画部長の小林正忠も合流した。小林は慶大で杉原と同期。大学卒業後大手出版会社に勤めたが二年七カ月で退職。小さな会社で起業のノウハウを学ぼうと杉原の会社に入っていた。

 三木谷の妻である下山晴子(現副社長)、開発を担当する増田和悦(現チーフエンジニア)が加わり、三カ月後の楽天市場開業を目指す楽天は六人で始まった。営業は三木谷、杉原、小林。開発は本城と増田。総務・経理下山という六人体制はその後約一年続いた。



竹やり戦法で出店企業を集める

 モール開設のメドはついた。あとはいかに月々五万円払って出店してくれる店舗を集めるかだ。その手法は「竹やり戦法」だったと小林はいう。

「インターネットを知らない人たちに向かって、インターネットでお買い物ができる社会がやってまいります。準備しましょうと呼びかけながら営業しました」

 飛び込みもやった。経営誌の「日経ベンチャー」をめくって、面白そうだなと思った会社にアタックした。まずインターネットの説明をし、御社の商品はインターネット上にのせるといいと思います、と説きながら全国を回った。

 九七年五月のオープンまでに十三店舗を集めた。そのうち六店舗は三木谷の縁故だった。その後も百店舗を目指して精力的に営業したが、三人合わせて一カ月平均十店舗程度、八店舗しかとれない月もあった。

 百店舗を達成するためにはどうしたらいいか。小林は営業先のリストをつくった。それぞれの会社に○、△、×をつけ、○を落とすにはどうすればいいか、△を落とすにはどうするかと分析し、一つひとつ実行していった。

 目標を達成できなかった月に、三木谷からメールが来た。

『今月目標を達成できなかった。これは非常に大きな問題だ。どうしてダメだったのかをよく考えてくれ。僕たちは今まで世の中になかった新しい会社をつくろうとしている。チャレンジをしているんだ。チャレンジに勝つためには今月目標を達成する必要があった。勝つ可能性を感じとるためにも、目標を達成したかったんだ。これはとても重大な問題だからよく考えてくれ』

 小林はことの重大さをひしひしと感じ、認識の甘さを思い知らされた。目標は達成してなんぼのものだと思った。

「すべてにおいて、目標を立てたら達成するための手段、戦術を個人個人で考える。その空気は三木谷がつくり出したもので、それは当初からありました」と小林。

 九八年初頭に百店舗を達成。そこからブレイクした。九八年になると、先方からの問い合わせに対応する営業スタイルに変わった。



学園祭みたいになるな

 二十代半ばの集まりだから和気あいあいとしているし、少人数だから統率もとれている。そうした中で三木谷が常に気遣っていたのは馴れ合いにならないこと。

「学園祭みたいになるな、俺たちはプロフェッショナル集団なんだと、一番最初からずっと言ってました。だから仕事に対しては非常に緊張感のある組織でした。議論も相当熱いし、社長といえども間違ったことをすると糾弾されるような小集団でしたね」(杉原)

「ある程度の目標達成は当たり前で、別に誉めてもくれません。アメリカだったらこの倍はいくみたいな話をすぐにする。だからこそみんな覇気を持ってやれたんだと思いますよ」と杉原は語る。杉原にとって三木谷は、常に目指している人である。

「カリスマを感じられる人であると同時に、人間味がある人です。感極まって涙を見せることもあって、そういうのを見て、われわれがそれに揺り動かされることもありました。本当にビジネスをするために生まれてきたような人です」

 現在、オークション部長の杉原。最初にBtoC(企業対消費者)のオークションを始めたとき、約二百社の店舗から六社に限定して行った。出店者にとっても馴染みのない商売だから、電話やメールで済ますことはできない。茨城県の顧客先まで行って、相手の顔を見ながら丸一日かけてオークションの仕組みを教えた。

 楽しくなくてはオークションではない。面白いのはオークションの仕組みではなく、フリーマーケットの雰囲気。それぞれが自分の持ち物を棚に並べ、質問に答え、取引をする、そうした行為自体が楽しい。そういうところに目を向けてサイトの運営をしていきたい、と考えている。

 杉原はこの十月、日販と共同で設立したインターネット書籍販売会社「楽天ブックス」の社長になった。



眠らない会社

「私たちが一番うれしい瞬間は、サポートをした店舗さんが私たちの仕組みで売り上げが上がり、よかったというメールをもらったとき。それが士気につながります」と小林。

 現在楽天の営業社員は約六十人。新規開拓チーム、ECコンサルタントチーム、サポートチーム、楽天大学などがこの中に含まれる。

 楽天には二つの客がいる。出店者とその店で買物をする消費者である。一般消費者はもちろん大事だが、楽天の営業は月々五万円払っている出店者の顧客満足度をいかに高めるかが仕事。消費者に直接訴えかけるのでなく、出店者を通してさまざまな企画を行う。そこがヤフーとは一番違うところだ。

 店舗数が増えると、楽天内の店舗間競争が激しくなり、出店のメリットが薄れるという意見もあるが、それ以上に消費者が増えており、一店舗あたりの売り上げも、ぐんぐん伸びている、という。

 五十万商品という日本一の商品点数についても、まだまだ足りないと感じている。現在の課題は、本業が忙しくて楽天の方に力を入れられない店舗をどうサポートしたらいいか。どうやる気をもってもらうかだ、と小林は言う。

「今日は朝六時に帰って、七時に寝て九時過ぎに会社に来ましたよ」と小林。平均帰宅時間は夜中の二時。寝袋で眠る習慣がついている。

「昔から店舗さんが電話をくれるので夜中の二時、三時にサポートしていたんです。だからうちの社員はみんな近所に住んで、自転車で通っている。そうでもしないと、こうはなりませんよ」と小林。

 三木谷については「他人が不可能だと思うことを可能にする力と信念を持ち合わせている男」と評した。



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