• トピックス
  • 企業家倶楽部
  • バックナンバー
  • 企業家チャンネル
  • 私の注目ニュース
  • 新商品コーナー

トピックス -企業家倶楽部

2015年02月24日

君臨した安東氏の一族/吉村久夫

企業家倶楽部2015年1/2月号 歴史は挑戦の記録 vol.6


吉村久夫( よしむら・ひさお)

1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「二十一世紀の落とし穴」など。



古代からの地元の豪族

 十三湊の都市計画を推進したり、福島城を造ったりしたのは、地元の豪族安東氏でした。安東氏は大和朝廷が出現する前から大和地方にいた豪族の子孫だと称しています。具体的には、神武天皇に敗れた長髄彦(ながすねひこ)の兄、安日彦(あびひこ)が祖先だというのです。だから、みちのくへ逃れてきても、蝦夷の大将として大和軍に対抗したという歴史を持っています。坂上田村麻呂と戦った蝦夷の英雄アテルイとも縁があるらしいのです。ともかく古来の地元の豪族です。

 安東氏の出自は神話の時代ですから、いまひとつはっきりしませんが、姓の呼び方もいろいろあります。どちらかというと、安東よりも安藤という方が一般的なようです。中には正確を期して「安倍・安藤(安東)」と表記したのもあります(「市浦村史」)。安倍が本姓だというわけです。源氏軍と死闘を演じた安倍貞任の子孫が津軽の藤崎に移住したのが祖先だというのです。

 私はこのエッセイでは安東氏を使わせてもらいます。安東氏の流れを汲む江戸時代の大名秋田氏が安東という姓を大事にしていたようだからです。安東氏といえば安東水軍を率いていました。今日でも「安東水軍」という銘柄の地酒があります。十三湊へ旅行して、地元で飲んでみて気に入りました。安東と記したい理由の一つでもあります。

 鎌倉時代になって安東氏が幕府から名実共に立派な地位を与えられたのは、武家政権が樹立される以前に、安東氏が長い歴史と実績を持っていたからに違いありません。



蝦夷沙汰人として登場

 安東氏は鎌倉幕府から蝦夷沙汰代官職に任じられました。それまでの実績を評価して蝦夷、つまり北海道やその他北の世界のことは任せるぞというお墨付きを貰ったのです。それと同時に津軽代官職を命じられました。これは安東氏の津軽の所領を安堵したことを意味します。代官職とはいえ実際は現地の支配権を承認したことだからです。

 なぜ津軽代官職というかというと、津軽が得宗領になったからです。得宗というのは鎌倉幕府の二代目の執権、北条義時の法名に由来するもので、以来、北条執権家の嫡流を意味しました。ついでにいえば、鎌倉幕府が後になるほど、得宗家の専横が強まり、得宗領が全国に広がりました。津軽地方もほとんど得宗領になりました。これが討幕運動が起きた背景の一つでもありました。

 蝦夷沙汰代官職と津軽代官職の二つを手にした安東氏は当然のことながら強大な存在になりました。富も豊かになりました。その一端を示す話が残っています。室町幕府の5代目の将軍、足利義量が就任した時のことです。安東氏は就任祝いに次のようなものを送りました。馬20匹、鳥(これは雉のことです)50羽、鵞眼(これは中国のお金のことです)2万匹、ラッコ皮30枚、昆布500杷。

 これよりもさらに大きな数字を記した記録もあるようですが、いずれにせよ大した財力です。これは15世紀の初めの頃で、十三湊の最盛期の終わり頃の話です。ちょうどその頃、安東氏は勅命で若狭国小浜の羽賀寺を12年かけて再建しています。そして功労のあった安東氏の当主は、後柏原天皇から「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」と呼ばれています。ここでいう日之本とは蝦夷、つまり北海道のことです。


蝦夷沙汰人として登場

津軽の大乱が起きた

 この時から百年ほど遡って、鎌倉時代末期のことです。津軽地方でアイヌを巻き込んだ大乱が起きました。1322年(元享2年)のことです。「元享の乱」ともいいます。安東家惣領の安東季長といとこの季久が、惣領職の蝦夷沙汰代官職と津軽代官職を争って長期戦を戦ったのです。

 この津軽大乱にはいろいろな背景がありました。一つは北の樺太に元の食指が延び、北海道のアイヌに緊張が走ったことです。元軍は西の九州に押し寄せてきただけではありませんでした。沿海州を経て樺太に押し寄せてきたのです。蝦夷から見れば、北の元冠ともいうべきものでした。アイヌの間に騒動が起きました。同時に、得宗家の蝦夷収奪の動きが激しくなっており、アイヌはこれにも強く反発しました。

 二つ目には、安東氏が強大になり、富力も増すにつれて、一族が繁茂して分家の力が強くなってきたことです。結果、惣領の統制が利かなくなって行きました。後の南北朝動乱もこうした経済的理由が背景にあって、同族の間で敵味方に別れて戦ったのです。

 三つ目は、惣領家の力量でしょう。蝦夷の代官として、また津軽の代官として、いま一つではないかと、軽んじられるようなことがあったのでしょう。惣領がアイヌに首を取られるという騒ぎがあったともいいます。そんなこんなで、今の惣領に任せてはおれないという空気になったのでしょう。



惣領家が交代した

 季長と季久の抗争は一向に止みません。そこで幕府で白黒をつけてもらうことになりました。ところが、肝心の幕府が裁定できないのです。理由がありました。当時、得宗家の内管領として権力を振るっていた長崎高資が双方から賄賂を受け取っていて、裁定を引き延ばしたからです。鎌倉幕府も終末を迎えていました。

 やっと裁定が下ったのは3年後の1325年(正中2年)のことでした。後醍醐天皇が討幕の旗印を挙げた正中の変の翌年です。鎌倉幕府も津軽の乱を早く片付けないと、幕府の権威が地に落ちてしまうと考えたのでしょう。裁定の結果、安東家の惣領職は季久に交代させるということになりました。

 しかし、敗れた季長派は収まりません。季久派も対抗します。双方要害の城に拠って激しく戦うことになりました。裁定に従わないというので、幕府は翌年、工藤祐資を討伐に向かわせます。工藤は季長を捕らえて鎌倉に護送しました。こうして季長は鎌倉で処断されました。

 ところが、それでも季長派は抵抗をやめません。幕府はまた翌年、宇都宮高貞、小田高知を派遣して津軽の鎮静化を図ります。和議がなったのは翌年1328年(嘉歴3年)のことでした。10年を越す津軽の大乱でした。津軽を二分したといってもいいこの津軽戦争は、蝦夷沙汰代官職を巡る争いでもあっただけに、アイヌもまた双方に別れて争ったようです。

 津軽の大乱も引き金の一つになって、鎌倉幕府は倒れ、世の中は建武の新政、南北朝の動乱、室町幕府と続いて行きます。安東家の内乱に勝利した季久は新惣領となって宗季と名乗ります。この宗季の時代に安東氏は本拠を藤崎から十三湊へ移しました。ということは宗季の子孫たちが十三湊の都市計画を推し進めたのでしょう。福島城を築いたのも彼らだったのでしょう。

 内紛はいろいろな組織に付き物です。なにしろ3人いれば派閥ができるといいますから。内紛もそれによってかえって組織が強まれば、雨降って地固まるということになります。問題は内紛のしこりを最低限に押さえ、新しい方向へ一致団結して前進できるかどうかです。安東宗季は勝利しましたが、鎌倉幕府は倒れ、蝦夷沙汰代官と津軽代官の職は無くなりました。安東氏の新惣領家はこれから本当の実力を試されることになります。
 



コメントをシェア

骨太対談
 
コンテンツメニュー
企業家賞
企業家倶楽部企業家大学
Page Top