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トピックス -企業家倶楽部

2015年03月03日

思い一つに挑め新市場/ホットランドを支えるスタッフ

企業家倶楽部2015年4月号 ホットランド特集第4部


「美味しいもので人々を幸せにする」。古巣は違えど想いを同じくしたチーム・ホットランドが生み出すたこ焼は業界を席巻。同社社長である佐瀬守男の独創的アイデアを形にし事業を展開させて来た。しかし、ここで留まるホットランドではない。次なる狙いはカフェ市場。グループ全体1000店舗を目指す同社の未来を背負う社員たちがその意気込みを語った。(文中敬称略)



安全安心の「ぜったいうまい!!」商品を届ける


安全安心の「ぜったいうまい!!」商品を届ける


専務取締役 商品本部長 横田利央


 物書きとして生きていくことを目指し、「人と同じことをしては駄目だ」と考えていた横田。20代後半、合縁奇縁もあって銀だこ浅草店でアルバイトを始める。創業3年目に差し掛かった銀だこは店舗を毎日のように増やし続けていた。

 そんなある日、横田に「『銀だこ通信』という社内報を製作しないか」という誘いがやってくる。急速に店舗が増えていく中、店舗間の情報共有が上手くいかず、佐瀬の熱い想いが隅々にまで行き渡らなくなっていた。佐瀬、店舗、商品など伝えなければならないことは山のようにあった。社内報を通し、これら情報のシェアを遂行することが横田に下されたミッションである。

 横田からすれば願ってもないことだ。創刊時は月刊誌をたった1人で担当し、全国各地の店舗を訪ね歩く。本部の気持ちを店舗に伝えつつ、各現場の声を届けるために東奔西走した。

「想いのつまった美味しいたこ焼がある。この商品への情熱を店員からお客様に伝えたい。それには、社内の末端に至るまで情報が共有されてなければいけません」と当時の熱い胸の内を明かす。この経験が本社にいるだけでは作ることのできない幅広い人脈ネットワークとして、今でも役に立っている。

 そんな横田が佐瀬に初めて会ったのは16年前の銀座本店がオープンした時のこと。佐瀬は当時から現在に至るまで、溢れ出る熱意と豊かな発想力、それらを実現する行動力を持ち合わせているという。

「会議の時でも、飲みに行っても、熱い男です。佐瀬は商人の心を持った職人。常識にとらわれないアイデアマンであって、人を喜ばせるサービス精神にあふれた人。こだわりの商品を作り上げ、お客様に気持ち良く手に取ってもらえるように従業員を指導しています」と評す。

 佐瀬は困っている人を放っておくことのできない義理堅い男でもある。2011年の東日本大震災の折、復興支援として銀だこカーが被災地を回った。横田の出身地である茨城県大洗も津波に遭い、実家の目の前にまで波が押し寄せた。「横田の故郷が大変なことになっている」と佐瀬は居ても立ってもいられず、真っ先に大洗を目指した。

 最終的には佐瀬と横田は大洗から石巻まで、焼きそばとたこ焼を届け続けた。「人情の深さに感じ入ります。今後もお互いに良い仕事をして、良い酒を飲みましょう」と佐瀬への気持ちを語る。二人の信頼関係を築く出来事になったようだ。

 広報と販促の畑を渡り歩き、現在、横田は商品本部長を務めている。仕入れから食材、商品開発、物流までを受け持ち、ホットランドの土台を支える役を担う。同社の商品は親しみ易く、価格設定は重要なポイントだ。

 圧倒的な商品力とそれに基づくブランド力が大きな強みでもある。安全性も味も落とさずに適正な利益を出しながら、モットーである「ぜったいうまい 」商品を提供することが最重要だ。

「これからの10年はさらに先を見据えなければいけない。ホットランドを拡大するため、屋台骨となる仕入れや生産部門のクオリティーを上げます。みなさんに安心してうまいものを提供していきます」



最後までやり通すいぶし銀の一社員


最後までやり通すいぶし銀の一社員


常務取締役 開発本部長 成田東洋士


   成田と佐瀬の出会いは、前職のスーパーマーケット勤務時代に自社店舗への出店を依頼したことがきっかけだ。その際にはニーズがマッチせず契約には至らなかったが、その後、佐瀬から「一緒にやろうよ」と誘われ、再会することとなる。しかし、今度は成田の方が「今お世話になっている会社を途中で投げ出すわけにはいかない」と応じなかった。再びお話を受けた時には、ホットランドは60店舗を展開するほどに成長。同僚の友人に「すごく内容のいい会社だから行ってこい」と背中を押され、成田はホットランドにお世話になることになった。

 こうして入社から15年。「気付いたらここまで来ていた。途中で辞めることができない性格だからね。働いているというより会社に使ってもらっているだけ」と成田は振り返るが、一社員としてただ猛烈に働いている。肩書きはつけないことを条件にし、若手を教育しながら再び自身を裸一貫から叩き上げた。

 若い人と同じ仕事をしていた成田は他の社員とバッティングしないよう、誰も目を付けなかった場所への店舗開発に集中し、たこ焼を持って諦めず何度も足を運んだ。毎週通っていた店舗を運営する企業から新しく出店を打診され、即断し、厳しい案件も実現させてきた。銀だこは匂いが伝わらないと駄目だと、1階に店舗を置くことにこだわった。

 成田は、佐瀬の魅力は人柄だと語る。怒らず、声を荒げることもない。売上げのかんばしくない店舗があっても、誰の責任にしない。赤字で大変な店舗は会社が買い取り、続ける意志があるオーナーには再びこれを任せた。そんな義理人情あふれる佐瀬は店長たちから慕われ、中には一人で40店舗抱えるオーナーもいる。ホットランドとは別組織としてオーナー会が結成されるほど良好な関係を築けたのは、ひとえに佐瀬の人柄あってこそだ。

 また、佐瀬は勉強家だと成田は語る。素晴らしい記憶力の持ち主である一方、改善のアイデアや商品戦略など、何か考えが浮かべば必ずノートに書き留める。

 そして、必ず社長自身が世に出す商品を全て試食し、品質を確認する。会社が大きくなっても創業の精神は変わらず、何かおかしいと思えば決して妥協しない体制が銀だこの味と安心を支えている。佐瀬はホットランドの店舗だけでなく他業種の様々な店に足を運び、常にアンテナを張り巡らせる。これが次々と現れる一見変わった新商品で人々を楽しませられる秘訣だ。

 佐瀬率いるホットランドは、今までは祭りの屋台でしか食べられなかったたこ焼のマーケットを広げてきたが、オリンピックが開催される2020年までに1000店舗を目指すというから驚きだ。現在は500店舗だが、「佐瀬の店作りのセンス、ずば抜けた洞察力にかかれば海外を含めた1000店はじきに見えてくる」と成田は分析する。

 今後は、銀だこの需要があるエリアがあれば全国どこでも出店を検討すると同時に、乗降客数が多い駅をターゲットにしたいと語る。また、たこ焼に限らずたい焼やコーヒーもさらに展開していく。

「桐生市の1号店を大切にしながら、社員に多様性をもとめ1000店舗まで頑張りましょう」



ピンチのカタチでやってきたチャンス


ピンチのカタチでやってきたチャンス


取締役本部長 経営管理本部管掌 人材開発本部 中澤英一


 1995年当時、ホットランドは3店舗を展開する年商約1.5億円の中小企業であった。社長である佐瀬の話を聞くため会社を訪ねると、駐車場にはトラックが1台。見ると、「これに乗って赤城高原サービスエリアまで来て下さい」と張り紙がしてある。何のことかと訝りつつも該当の場所に向かうと、テントを設営している佐瀬がいた。

「おお中澤君、よく来た。とりあえず、かまぼこをフライヤーの中に入れてくれ。5分もすれば自然に浮いてくるから、割り箸を刺して、お客さんに渡す。それで200円もらえばOKだ」

 唖然とする中澤に、佐瀬は至極当然のごとく言った。腹をくくり、1週間手伝い続けていると、佐瀬から保険証を手渡された。こうして為されるがまま、中澤はホットランドの一員になっていた。

 中澤と佐瀬の出会いは中学時代までさかのぼる。桐生市で行われた中学校野球大会の決勝戦。中澤が属する東中学校は佐瀬の南中学校に敗れ、「その図式が今でも続いている」と中澤は笑う。共に桐生南高校へ進学したが、在学中は接点が無かったという。

 高校卒業後NTTに就職した中澤は、企画室に配属されるなど、やり甲斐をもって仕事に取り組んでいた。しかし、程なくして学歴の壁にぶつかった。入社して10年、独立を試みるが上手くは行かず、工場や訪問販売の仕事に就くも会社閉鎖の憂き目に遭った。そんな折、「面接に来ないか」と声をかけてくれたのが佐瀬だった。

 ホットランド入社後は催事、アイスの卸などを経て、当時、産声をあげた「たこ焼を中心とした焼き物事業」を任された。しかし、思ったような結果は出ない。知識や経験のない中澤にとっては難題であった。

「お前は会社を潰す気か」

 佐瀬に喝を入れられた中澤は、前橋サティ店に集中。そんな折に思い出したのが、NTT初代社長真藤恒の著書『習って覚えて真似して捨てる』にあった「お客様の声はお客様に聞け」という一文だった。何も知らない自分に教えてくれるだけでなく、様子が気になるのか再来店し、他のお客まで連れてきてくれるようになった。

 常連客がつき始めると、焼きたてが美味しいからリピートするという具合に客足が伸びていった。96年5月に160万円だった売上げが、同年12月には450万円になったというから驚きだ。

 
97年3月には銀だこ1号店が開業。佐瀬の強い意向でたこ焼単品の店舗へ進化して、初日から売上は爆発。その後は店舗立上げに携わり、現在は採用と教育に携わっている。

 中澤が佐瀬から、人に教えを請う姿勢を学んだ。15年ほど前、佐瀬が昔よく通ったという店に中澤を連れていき、ラーメンを食べたことがある。店主は長い付き合いだからか、「佐瀬はダメだな」と酷評。自社の社長への罵詈雑言に耐えられず中澤が言い返そうとすると、佐瀬はそれを制した。店を出て一言。「あそこで『お前何様だ』と言った瞬間、あの人は何も教えてくれなくなる。自分達は人に教えをいただき成長できたんだ」。中澤が佐瀬の大器に触れた瞬間だった。

 佐瀬は一人で焼きそば屋を運営していた頃から世界への夢を語っていた。中澤も入社時は「NTTを辞めてたこ焼屋なんて」と言われたものだが、今では「上場企業の取締役なんてラッキーだ」と評される。中澤は、チャンスは「ピンチ」の姿をしてやってくる。その「ピンチ」を乗り換えると「チャンス」に変わると実感している。

「お体に気をつけて欲しい」と佐瀬を労わる中澤。「夢を共有させてもらいながら、自分も一回りも二回りも大きくなり、会社も大きくしていきたいですね」と微笑んだ。



ホットランドの更なる飛躍を目指す


ホットランドの更なる飛躍を目指す


取締役 スイーツ&カフェ事業本部長 石原一裕




   石原は佐瀬と、共通の知人の紹介で出会った。コールド・ストーンに興味を持った佐瀬を紹介したいと言われた時は嬉しかったと当時を思い返す。

 実際に会うと、佐瀬は偉ぶることなく気さくに生い立ちを話すような飾らない人物だった。知らないことには素直に関心を持ち、コールド・ストーンについて積極的な質問を受けた。店舗でスタッフが歌いながらアイスクリームを提供するユニークなコールド・ストーンに、ホットランドとは違った魅力を感じたのだろう。

 ビジネスの話をよくしたという佐瀬と石原。たこ焼を扱う佐瀬とアイスクリームを主力製品とする石原は、季節による売上げの波といった外食業界共通の悩みを語り合った。佐瀬の人柄、ビジネスのスピード感や感性、チャレンジ精神に触れ、一緒に仕事をしたいという思いが石原に芽生えたのはこの頃である。

 そして2014年。ついにコールド・ストーンはホットランドの子会社となった。石原が子会社設立に踏み切ったのは、両社の企業理念の根底にある「美味しいものを通してお客様を幸せにする」ことを忘れなければ、細かい違いは乗り越えられる自信があったからである。また慎重派の石原にとって、並外れた行動力をもつ佐瀬に学び、コールド・ストーンしか会社を知らなくても大きな世界に挑戦する機会やヒントを得られると考えた。

 1年仕事をともにして石原が感じるのは、このM&Aが大きな相乗効果を生んでいるということだ。コールド・ストーンは楽しさだけではなく結果を求める厳しさを学び、ホットランドは上場してさらなる高みを目指すため、海外の企業を引き継いだコールド・ストーンの新しい風を社内に取り入れることになった。

 さらにお互いを高めようと、ホットランドは新たにカフェを運営することを決める。日本未上陸、ロス生まれのザ・コーヒービーン&ティーリーフで大規模な日本のコーヒー市場に挑もうというのだ。目標は7年で200店。カフェでも食べ物にこだわり、経営理念を徹底すると同時に差別化を図る。

 佐瀬は様々な新商品やビジネスを生み出してきたが、石原は考え抜かれた末の努力の賜物であると語る。「佐瀬は、自分は特別な能力を持っているわけではないが、普通の人と違い365日24時間仕事と向き合っていると考えています。その突飛な発想は、偶然生まれたものではありません」

 常に本気で会社とお客に向き合い続ける姿勢を近くで見てきた石原は、考え続ける努力はみんな出来ることであり、誰にでも佐瀬のようにアイデアを出せる可能性はあることを強く感じた。

 ホットランドの成長について石原は、思考の中心が会社や自分ではなくお客だからこそ得られたものだと指摘する。経営理念を自ら徹底し、その商品が本当に良いかお客のために考える。一度始めたにもかかわらず止めてしまうことについて、経営者としては躊躇したくなりそうなものだが、佐瀬は全く意に介さない。お客にとってどうすることが最善かを考え、すぐに気持ちを切り替えるのだ。また、お客目線で良い素材を使い、手作りの商品を提供する。「このこだわりをお客様に伝え、もっとファンを増やしていきたい」と石原はホットランドの更なる飛躍を目指す。

 しかし、石原はまだホットランドグループの一員としては日が浅い。今後企業理念や文化を吸収し、さらに良いビジネスを生み出すだろう。石原も改めて「一緒にお客様に喜んでいただくビジネスを作り上げるために、期待される以上のことをして恩返しをしたい」と決意を述べた。



兄貴であり師匠である佐瀬をいつか超えてみせたい


兄貴であり師匠である佐瀬をいつか超えてみせたい


取締役 外食事業本部長 荻野 哲


「試しに始めてみて、面白くなかったら辞めても大丈夫だからさ」

 佐瀬の言葉に背中を押され、たこ焼を焼き始めた荻野哲。当時20歳という若さであったこの青年は、佐瀬と同じく群馬県桐生市の出身だったことから、共通の知人を通じて佐瀬と出会った。

 お好み焼やたこ焼などの粉物を扱うと聞き、始めの頃は断ろうと考えていた荻野。そこへ知人の後押しがあり、とりあえず一度面接に行くことになった。そこで佐瀬に言われたのが、冒頭で紹介した衝撃の一言であった。この瞬間、心中の不安が一気に軽くなり、入社を決めたという。

 当時佐瀬は33歳。若い行動力を持って、焼きそば屋から創業していたところへ新規事業としてたこ焼屋を始めた。おのずと、荻野はたこ焼を朝から晩まで焼き続けることになる。休憩が少なく、立ちっぱなしの忙しい日々だったが、「売れた!」「お客様が喜んでくれた!」と皆で喜びを分かち合う会社の中で、次第に荻野も仕事が楽しくなっていった。

 荻野は7~8年間にわたって現場に立ち続け、様々な変化を経験した。入社1年後に出店された銀だこ1号店が大好評を博し、多店舗化していくことが決定。荻野は店舗立ち上げのための出張や、店の備品の買い出しなど、たこ焼を作る以外の仕事も同時にこなしていった。新店舗オープン時には、現場に入ってオペレーションの指導も行う。どんなに忙しくても、お客と対面しながら働く楽しさに荻野は魅了されていた。

 銀だこ5号店は、埼玉にあるジャスコ。荻野はこの出店の過程で佐瀬の力を垣間見た。佐瀬と荻野が新店舗開拓のために高速道路のサービスエリアへ営業に出かけた帰り道、突如として佐瀬が「あそこのジャスコに行こう」と言った。お客様感謝デー中のアポなし営業。担当者になじられながらも、自信を持って営業する佐瀬の粘り強さが勝り、その数か月後には出店が決まった。「うちの社長は天才だ!」と荻野は感嘆した。

 東京の中野への出店が決まると、店長に抜擢されたのが荻野。中野店は大盛況で、警察が出動するほどの行列ができた。周辺の店や住民に叱られながらも、長蛇の列をなすお客にたこ焼を提供し続け、1日で1500パック、約60万円の売上を記録。

「今ならば、SNSに大量に投稿されているでしょうね」と荻野は笑う。

 中野店での成功をきっかけに次々と店舗数を増やし、その後約2年で80店舗から200店舗へ急拡大。あまりのスピードに準備が間に合わず、開店だというのにレジが用意できていない。毎日寝ることもままならなかった荻野はレジ台を抱えたまま眠りこけ、山手線を2周してしまったこともあった。このドタバタの中、2年で10Kg以上も痩せた荻野。若かったからこそ乗り越えられた試練だったのかもしれない。

 現場での慌ただしい日々が通りすぎ、荻野が28歳の折、群馬にある本社で商品開発を任されることになった。佐瀬は焼きそば、たこ焼、たい焼と次々売りたいものを思い付くアイデアマン。その佐瀬のイメージを荻野が形にしていく仕事だ。元々たこ焼の作り手だった荻野は、現場から離れても年中試食を繰り返してたこ焼の出来を確かめた。現場での経験は、確かに荻野の強みになっている。

 荻野の人生の半分以上を共に過ごしてきた佐瀬は、荻野にとって兄貴であり師匠でもある。「どんなに年をとっても大きな夢を持ち続けてほしい」と願う一方、いつの日にか「そんなに小さい夢でいいのですか」と佐瀬に言えるよう、精進を重ねていきたいと意気込んだ。



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