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トピックス -企業家倶楽部

2015年03月12日

南部氏との宿命の対決/吉村久夫

企業家倶楽部2015年4月号  歴史は挑戦の記録 vol.7


吉村久夫( よしむら・ひさお)

1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「二十一世紀の落とし穴」など。



津軽も南北朝の動乱へ

 津軽も南北朝の動乱の時代となりました。この時代は兄弟、同族が惣領職や所領をめぐって、敵味方になって戦いました。情勢の変化によっては、敵味方が入れ変わるのです。当時の領主や武将はいまの企業経営者です。日々、一族の命運を懸けた判断、行動を迫られました。

 津軽では、おおむね安東氏は足利方、つまり北朝方でした。南部氏が北畠方、つまり南朝方でした。一時は、北畠顕家が奥州軍を率いて上洛し、足利尊氏が九州へ逃れるという一幕もありました。奥州の武士の動向が天下を左右したのです。

 安東氏の強力なライバルである南部氏は甲斐の武田源氏の流れで、広大な糠部郡を所領としていました。糠部は一国といってもいい広大な土地で、駿馬の産地として聞こえていました。南部氏はその武力にものをいわせて、蝦夷への進出を狙っていました。動乱の到来は即、機会の到来です。

 この時代やっかいなのは南北両朝から命令や辞令が出ることです。今日の例でいえば、一つの県に二つの知事ができたりするのです。しかも、知事の権限が中央に奪われたりもします。蝦夷の管轄権は一時、足利尊氏や北畠顕家が奪い合ったりしました。

 こうした情勢の下で、安東氏は実質的に前代からの蝦夷沙汰代官や津軽代官の権限を維持しようと努めました。津軽代官の方は足利方の合戦奉行に就任して、なんとか安堵されましたが、蝦夷沙汰の方はしばらくおあずけを食いました。蝦夷沙汰代官の職権を継承できたのは、室町幕府も三代目の将軍足利義満の時になってからでした。しかも、それは蝦夷の反乱が起きて、安東氏がそれを鎮圧した功績を認められてのことでした。



南部氏、両安東氏を襲う

 1411年(応永18年)、南部氏が安東氏を襲いました。南北朝の合一ができてから19年、足利義満が亡くなって3年目のことでした。襲ったのは三戸の南部守行でした。その頃は三戸南部氏が南部氏の宗家になっていました。襲われたのは湊安東氏でした。湊安東氏というのは津軽の大乱で津軽氏の宗家となった季久の曾孫鹿季が秋田を所領として建てた家です。

 それから21年後の1432年(永享4年)、南部守行は宗家安東氏の本拠、十三湊を襲いました。安東氏は要害の唐川城に拠って戦いましたが、多勢の南部軍に敗れました。山王坊の神社仏閣も焼き払われてしまいました。惣領の盛季とその子康季は蝦夷へ逃れました。室町幕府は蝦夷沙汰職を十三湊の安東氏と秋田の湊安東氏に与えていました。南部守行はその双方を襲ったわけです。 南部氏が安東氏を十三湊から追い出したことで、時の将軍足利義教は激怒しました。南部氏と安東氏との和議を強制しました。さしもの南部守行も応じざるをえません。翌年、安東父子は十三湊へ戻ることができました。ところが、戦いはまだ終わりません。

 1442年(嘉吉2年)、南部氏が再び十三湊を襲いました。十三湊は再び陥落し、盛季父子は再び蝦夷の松前へ逃れました。実はこの前年、将軍義教が暗殺されていました。気性の激しい専制的な将軍がいなくなったことで、南部氏は攻撃再開の時がきたと判断したのでしょう。南部氏が湊安東氏を攻めてから30年余経っていました。

 それでも戦はまだ終わっていませんでした。安東氏の一族郎党はまだ津軽半島に大勢残っていました。彼らは安東宗家の再興を願い、蝦夷に逃れた盛季の孫義季を迎えて南部氏に戦いを挑みました。1453年(享徳2年)のことです。しかし、安東軍は敗れ、義季は岩木山の麓で自害しました。これで安東氏の正統は断絶しました。



潮潟安東氏の逆襲

 十三湊を陥落させた南部氏は、蝦夷に亡命した安東宗家に代わって、傀儡の安東政権を作りました。その方が津軽に残っている安東一族や有力郎党を懐柔しやすいと考えたからです。それに蝦夷沙汰の職権は安東氏に与えられたものですから、安東氏がこの世から完全に消えてしまっては困るのです。この点、ライバル会社を強引に吸収合併した後の企業経営とも似ています。

 南部氏が白羽の矢を立てたのは潮潟安東氏でした。潮潟安東氏は南部氏に敗退した安東宗家の盛季の弟道貞の系統です。道貞は同時に秋田に湊安東氏を樹立した鹿季の弟でもあります。南部氏はこの道貞の孫の師季(後に政季に改名)に目を付け、これを安東宗家の後継ぎにしました。

 ところが、師季は1454年(享徳3年)、南部氏の下を離れて蝦夷へ脱出し、亡命政権を作りました。これは安東宗家盛季の孫の義季が岩木山山麓の合戦で南部氏に敗れ自害した翌年のことです。義季の自害を知って、いずれ自分も滅ぼされると思ったのでしょうか。蝦夷にいる強力な一族郎党が手引きしたといいます。

 2年後の1456年(康正2年)、師季は蝦夷を離れ、出羽国の男鹿へ行って一帯を制圧します。これは秋田の湊安東家と手を携えて南部氏に対抗するためでした。両家の協力で秋田、津軽の日本海沿岸を押さえ、同時に蝦夷南部の安東家の権益を守ります。幕府はこうした師季の実績を認め、その子の忠季に「屋形」の称号を許します。


潮潟安東氏の逆襲

コシャマインの大蜂起


 安東、南部両氏が死闘を演じる一方では、蝦夷でも大きな騒乱が起きていました。それはコシャマインの大蜂起です。起きたのは師季が蝦夷を出た翌年、1457年のことです。きっかけは、和人の鍛冶屋が客のアイヌと小刀のことで口論し、鍛冶屋が客のアイヌを問題の小刀で刺殺したことでした。

 和人の蝦夷経営に日頃不満を持っていたアイヌは、渡島半島東部の首領コシャマインを大将に武装蜂起し、安東氏の蝦夷経営の拠点12館を襲い、うち10館を攻め落としました。12館というのは志海苔館(函館)、函館館(同)、茂別館(上磯)、中野館(木古内)、脇本館(知内)、穏内館(福島)、覃部(およべ)館(松前)、松前大館館(同)、禰保田館(同)、原口館(同)、比石館(上ノ国)、花沢館(同)です。

 猛威を奮ったアイヌ軍も翌年、花沢館の副館主武田信広がコシャマイン父子を弓で射殺したことで、下火になりました。この武田信広が館主の蠣崎季繁の女婿となって蠣崎氏となり、12館をまとめて、アイヌとの交渉に当たります。こうして信広は蝦夷の大名松前氏の先祖となっていきます。家康に蝦夷錦を進呈した蠣崎慶広は信広の五代後に当たります。

 時代は間もなく応仁の乱に突入します。戦国時代の始まりです。蝦夷では蠣崎氏が台頭して、安東氏の蝦夷沙汰権限は細って行きます。同時に津軽では新興勢力として大浦氏が台頭してきます。後の津軽氏です。安東氏もやがて湊系と潮潟系が一体化して行きます。そうしないと新興勢力に飲み込まれてしまうからです。

 この時代の歴史を語るのは大変やっかいです。乱世ですから、変化が常態化するのです。一族の系統を辿るのも、兄弟縁者が多いのと、養子縁組ありで、諱を大事にしますから、同名が多く、また改名があったりして、紛らわしい限りです。それでも安東氏は諱の「季」を受け継いで、なんとか今日まで生き残ったのでした。



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