トピックス -企業家倶楽部

2005年02月27日

時代の波頭をつかみ成長 新卒一期生のがんばりに支えられた /コナミ社長 上月景正

企業家倶楽部2005年4月号 コナミ特集第5部 編集長インタビュー


ジュークボックスのレンタル業として一九六九年に創業。アミューズメント機器からコンピュータ時代の波に乗りエンターテインメント企業として成長してきたコナミ。創業者で社長の上月景正は昭和五六年の新卒採用開始が大きな転機になった、と語る。幹部が全員いなくなるという危機もあったが、新卒1期生のがんばりで困難を乗り越え、次の飛躍へのチャンスをつかんだ。「誠実に。波頭から波頭へ」上月の言葉は経験に裏打ちされた重みを持つ。(聞き手は本誌編集長 徳永卓三)



すべてはジュークボックスから始まった

問 まずはゲーム業界に入ったきっかけ、創業のいきさつを聞かせていただけますか。


上月 昭和四十年代の頃、私はたまたまレコード会社に勤めており、ジュークボックスという機械が出てきて、それを担当することになったのです。飲食店など人の集まるところにジュークボックスを置いて、それにお客さんが十円、二十円入れて好きな曲を聴くというものです。昭和四十四年の創業ですから、それ以前の話です。当時は演歌が絶頂期でした。サラリーマンだったけれども、飲食店が相手なので、午後五時ぐらいから始まって午前二時までというように昼夜が逆転した仕事でした。ジュークボックスを飲食店などに売っていたのですが、高価なものなのでそう簡単には売れません。当時の日本ではものをつくって売るだけが仕事でした。ところがアメリカではずいぶん前からジュークボックスがあり、レンタルでやっていた。ジュークボックスをお店にただで置いて、収入を折半するというビジネス。これがレンタルの走りになりました。当時すでに在日米軍基地に軍人のための娯楽施設があり、そこにそういうものを置いていました。米軍基地の中ですからアメリカ系の人が日本に来てそういうビジネスを始め、それがやがてS社やT社になっていくのです。



問 アメリカ系の会社がレンタルビジネスをしている中で、上月さんの会社は売りきりでやっていたのですね。



上月 そうです。われわれは失敗して撤退しました。その一方で、米軍基地の周辺には歓楽街ができ、そこに軍の中の機械が広がっていく。それがゲームセンターの走りになりました。だからジュークボックスがゲーム業界のすべての原点なんです。



問 撤退を機に独立されたのですか。



上月 六、七十件のお客さんがいましたから、アフターサービスをしなければならなかった。一人でレコードの入れ替え、修理などをするところから始めました。



問 それが一九六九(昭和四十四)年のことですね。北島三郎とかピーナッツが人気でしたね。



上月 演歌の絶頂期で、森進一、都はるみ、青江三奈、黛ジュン、弘田三枝子、伊東ゆかりが人気でしたね。昔の歌はよく覚えているけど最近の歌は、紅白(歌合戦)を見ても全然わからない(笑)。



問 私もです。



上月 そういう中でジュークボックスは、自分の好きな音楽を聴いているときはいいけれど、他人が選んだ音楽は聴きたくないでしょう。そこでジュークボックスの順番を待っている間、他に遊ぶ機械はないかとなった。それがゲーム機になっていくのです。なんでもよかったのですが、日本にはないからアメリカにあるものを真似てゲーム機がつくられていきました。当時はメダルゲームの人気があった。ビデオもコンピュータもないから、モーターとランプを組み合わせたメカニカルなものでした。夜店のスマートボールのようなもので、何にもなかったのでそれでよかった。何かあれば、他人の曲がかかっている時の暇つぶしになる。けれども、そのうちジュークボックスよりゲームの方がおカネの消費が早いから、儲かることがわかってくるわけです。さらに飲食店の売り上げより、ゲームの売り上げが大きくなり、だったら、ゲーム機だけ置いた方がいいとなり、それがゲームセンターになっていくのです。店の経営者にとっては仕入れもいらないし、機械が勝手におカネを稼いでくれるから、こんないいものはないと。



問 そういう背景で、御社はゲーム機をつくるようになったのですね。



上月 見よう見まねでつくっているうちに、だんだんいいものがつくれるようになっていったのです。大きいのはダイオード、マイコンが出てきたことですね。それでモーターのランプに代わって、ブラウン管で表示できるようになった。それらの発明でゲーム機がメカニカルなものから電子的なものに変わっていき、それがテレビゲームとして成長していくのです。



問 それはいつ頃のことでしょう。



上月 昭和五十年代の初頭ですね。当時、社員はまだ二十、三十人でした。



問 コナミが発展する一番のきっかけになったのは何でしたか。



上月 やはり昭和五十六(一九八一)年に新卒を採用してからでしょうね。商品としては、成長の第一要因はテレビゲームです。



問 当時のヒット商品は。



上月 スクランブルというゲームが一番よく売れました。飛行機を打ち落とす他愛のないゲームでしたが。



問 私が覚えているのはインベーダーゲームです。



上月 それをきっかけに各社からいろいろなゲーム機が出てきて、飲食店などに置くようになった。私としてもジュークボックスでは家業の域を出ないということで、ものづくりをするようになったのです。



新卒一期生が会社の運命を変えた

問 一九八一年、社員が三十人程度だった御社は一気に三十六人の新卒を採用した。なぜそれだけ思い切ったことをしたのですか。



上月 当時、新聞広告だけではいい人が来なかったんです。職安もしかりでした。思い切ってと言いますが、仕事はいくらでもあったのにそれをこなす社員がいなかったということなのです。仕事があり、将来性もあるのに、それをやれる人がいない。新聞広告で採用しても意欲はない、能力はないということで、それではどうにもならないので、真っ白な新卒を採用して会社を築いていこうと思ったのです。



問 しかし、よく三十六人も採用できましたね。



上月 ですから当時、初任給十二万円が相場のところを十四万円にしたのです。



問 当時は二万円の差は大きかったですよね。



上月 だから採れたんです。



問 その年に新卒で入社した北上(ゲーム事業本部長)さんによると、社屋は正面道路から見ると立派なのに、入ってみるとまるで奥行きがなかったそうですね。



上月 そうなんです。堤防沿いの細長い空き地で七十坪しかった。正面からは立派な写真が撮れたが、横から見ると幅が全然ない薄っぺらなビルでした。



問 この時は、五百人とか千人の中から三十六人採ったのですか。



上月 そんなことはありません。五人か六人採れたらいいなと思っていたら、十四万円が効いて、四十、五十人来たと思います。一応みんな電気系の大学を出た人ですから、それはすごいと思いました。新聞募集で採用した人とは全然違う。それで三十六人、一気に採用しました。



問 学生を集めるために、その他にも工夫しましたか。



上月 ゲーム関連の職業は忌み嫌われる時代でしたから、電子応用機器の製造会社として募集しました。実際に電子応用機器という産業項目があり、間違いはないでしょう。電子応用機器で初任給は十四万円、オフィスは写真の通り、ということで募集した(笑)。けれど、会社に来たら実態がわかってしまうから、ホテルで面接をしました。来てくれるだけでうれしいのですから、筆記試験はやっていません。



問 コスト増に対する不安はありませんでしたか。



上月 それまでは、新聞広告で人を採用しても、すぐに辞めてはまた採用するという繰り返しだったのです。常に募集しないといけない。新卒を一気に採用したことで、そんなあわただしいことがなくなったのです。収益は好調だったので、給与コストなんて問題外でした。



問 新入社員をどうやって鍛えられたのですか。



上月 入社の翌日から現場に放り込みました。いきなり「ここをハンダづけしろ」と。それが何に使われているのか説明をすることもなく、「言われたとおりにすればいいのだ」という感じでしたね。新人を鍛えるという段階ではなかった。



問 ひたすら仕事をこなしていくということですか。



上月 そうです。今のITベンチャー企業のようなもので、市場がどんどん伸びて、ネコの手も借りたいという状況でした。



残ってもらいたい人には株を与えない

問 ビジネスの金鉱を掘り当てられた。



上月 結果としてはそうですが、やっているうちに巡り合わせでそうなったのです。ジュークボックスをそのままやっていれば、今頃は多分つぶれて転職して、他の仕事をやっているでしょうね。時代の流れの中で、こういう仕事になったのであって、最初から想定していたわけではないのです。



問 時代の流れに乗って倍々ゲームで業容を拡大していったわけですがピンチはありましたか。



上月 資金繰りではありました。当時はほとんどが手形決済ですから、不渡りになると売ったものの代金が入ってこないのだから大変です。



問 結構、おカネにルーズなお客さんもいたでしょうからね。



上月 そうなんです。手形をもらっても信用のない業界だから、銀行でなかなか手形割引がしてもらえない。不渡りになると信用がなくなるから、仕事ではなく資金で苦労をしました。新卒が入る以前のことですが、月商五千万円ぐらいのときに一億円の不渡りに引っかかったことがあります。信用金庫とか自分の蓄えなどをかき集めて切り抜けましたが、資金繰りは綱渡りでしたね。



問 資金繰りに余裕が出てきたのはいつ頃からですか。



上月 やはり上場してからですね。大阪証券取引所にベンチャービジネス振興を目的とした新二部ができたのを契機に昭和五十九(一九八四)年、上場しました。それによって手に入れたキャピタルゲインで借金をすべて返し、それからはおカネの苦労はしていない。やはり上場というのはベンチャー企業にとっては非常に助かりますよ。



問 上場はスムーズにできたのですか。



上月 最初、上場できますかと会計士に相談したら「とんでもない、無理です」と言われました。「組織もなければ、内部監査制度もない、取締役会の員数もそろっていない。なんにもないではないですか。だいたい就業規定はあるんですか」と。それで急きょ、そういうものを取り揃えてやりました。ゲームという分野では上場できなかったので、電子応用機器の会社として上場しました。電子応用機器がゲーム産業で使われているという位置づけですね。それで当社が上場すると、同業他社が「こんな産業でも上場できるのか」と驚いて、みんなが当社に勉強にきました。またうちの主幹事はN証券だったのですが、競合他社を聞かれてS社、N社、T社と答えると、N証券がみんなそこに「上場しませんか」と回り始めたんですね。それど、みんなが当社の後に続いて上場していったのです。



問 上場で苦労したことは。



上月 上場したときに、一緒に働いてきた社員たちに株を分け与えました。ご苦労さん、これからもがんばって下さいという意味で。昭和五十六年新卒組にはまだ入社間もないからあげなかった。すると株を与えた先輩社員たちがみんな辞めて、株を売ってしまった。幹部がみんな辞めて、気がつくと私一人になり、頭が真っ白になりました。株価も大混乱し、投資家にも迷惑をかけました。



問 それは大変でしたね。



上月 そこで私は若い経営者みんなに言っています。会社に残しておきたい社員には株を渡すなと。株は渡さずに給料で報いればいいのです。「あなたが年俸三千万円をもらっているなら、番頭には六千万円払いなさい。そのかわり、株をあげてはいけない」と。上場時に、この人は貢献してくれたからと何十万株もあげると、辞めてライバルになってしまうことが多いのです。それよりも、社長の二倍ぐらいの給料を払えばそれで喜んで働くでしょう。



問 なるほど。その危機はどう乗り越えたのですか。



上月 上場時に三年目だった新卒組が支えてくれた。これからという人たちが頑張ってくれました。



問 その新卒組である北上さん、田中さん、永田さんの三人に取材しましたが、彼らについてコメントを頂けますか。



上月 三人とも入社したその日から残業でした。あるとき、用事があって深夜、会社に寄ってみると、みんなまだいました。帰る時間を惜しんで会社の椅子で寝ていたりして、よく働きましたね。何も言わずに。私は彼らに対して特に何かを言ったわけでもなく、指導もしていません。ついてきた彼らの方が偉かったと思います。



問 仕事が面白かったのでしょうか。あるいは権限を与えられて、やりがいがあったのでしょうか。



上月 というより結局、自分たちがやらないと会社が大変なことになる。他にやる人がいない。いきなりそういう局面に立たされた。入社三年目で、指導を仰ぐ人が誰もいなくなった。けれども部下はどんどん入ってくるので、やらざるを得なかったのです。



問 北上さん、田中さん、永田さん、それぞれどんなタイプでしょうか。



上月 みんな誠実で従順。あまり素直すぎて、私の言うことを丸飲みされるので気を付けなければならないと思っているくらいです。何の憂いもありません。株は与えず、年俸で報いるようにしています。



問 三人に望むことは。



上月 入社したときと同じように、やるしかないのでがんばってほしいです。私も今年六十五歳になるので、早く引退したいと言っています。でないと、私の自由な時間がない。せっかく生まれてきたのだから仕事以外のこともしてみたいですよ。趣味を楽しんだとか、社会に貢献したとか、そういうことを自分の手でできる時間が欲しい。



問 私が引退した経営者にお薦めしているのは、自分で経営塾をつくることです。若い経営者にアドバイスし、エンジェルとして投資すれば、社会貢献にもなります。



上月 いいことですね。でも、私は引退したら、生臭いことは卒業し、生きている喜びを感じられるような日々を過ごしたいです。今は財団を通して、スポーツ選手に奨学金を与えたり、教育を支援したり、交通遺児に奨学金を出したりしています。私はもう十分に働いてきたので、うまく後継にバトンタッチできればと思います。新卒組は今四十代だからちょうどいいんですよ。一番シャープで、いい時期です。



スポーツ事業進出のチャンスをつかむ

問 御社は二〇〇一年にピープル(現コナミスポーツ)を買収し、スポーツ事業を始められた。これは大きな転機になりましたが、そのいきさつは。



上月 それ以前に、当社はダイエットができるゲームをつくっていた。音楽を聴きながら体を動かすだけでダイエットできるというものです。その時に、ピープルからカロリー計算などのノウハウをもらって、共同開発したのです。そのうち役員会で、リハビリできるゲームはどうかという案が出た。そういう方面も面白いねという議論をしていた中でどうせやるなら、病気にならないゲームの方がいいねといった話をしていたのです。そうした中で、たまたまマイカルが業績不振でピープルを売るという話が出てきた。健康産業はこれからの産業だし、何よりも世の中に受け入れてもらえる業種であることが魅力でした。住民から近くにはつくらないでくれと言われていたジュークボックスの時代から考えると、どこにも反対されないフィットネスクラブは大変な魅力でした。



問 六百九十億円というのは大変な資金を投じてTOB(公開買付)で、ピープルを買収しました。



上月 資本市場のルールに従い行った結果、その値段になったのです。これでマイカルから五四%の株が集まり、ピープルを子会社としました。ところが後で聞いた話ですが、ピープルを手に入れようとしていたファンドがあって下準備もしていたという。そのため、コナミが突然出てきて、持っていったみたいに言われて、立ち上がりから批判されました。



問 高齢化時代に向かって、熟年市場が大きくなるし、老化防止にもなる。これはよい決断であったと思います。



上月 私もそう思う。そのときに、自己資本が二百億円ぐらいのピープルを六百九十億円で買ったのだから、のれん代として四百九十億円を一気に償却すればよかった。ところが当社はニューヨーク証券取引所に上場しているから、それができなかったのです。それで評判が悪くなり、どんどん株価が下がりました。ニューヨーク基準では減損という表現になり、のれん代償却と実態は同じなのに、ひどく損をしたような印象を持たれたのが響きました。



問 でも、将来は明るいと思います。



上月 フィットネス業界のリーディングカンパニーですからね。このビジネスモデルを完璧なものにしていけば、すばらしい健康産業になると思います。



問 ところでタカラの社長が辞めましたが、何かあったのでしょうか。



上月 四年半ぐらい前にタカラさんを支援してくれという話があったので、第三者割当増資をお引き受けし、二二・三%の株主になり、取締役も三名送り、連結対象会社として支援を始めました。ところが一年、二年経つうちに事情が変わり、タカラさんは独立独歩で行きたいと思うようになったのですね。けれども、うちとしては連結対象会社なので、タカラさんの状況を放っておくことはできなかったということです。タカラさんがあくまでそれを望むのであれば手を引くこともあり得ます。



問 最後に、座右の銘はありますか。



上月 決まった言葉はありませんが、よく言っているのは波頭に乗るということです。世の中は動いているし、自分でこうなると思ってもそうならない。こうしたいと思ってもそうならない。世の中はみんなそういうものです。だからみんな苦労しているわけで、何でも思うとおりになれば苦労はないのです。しかし、思い通りにならないことばかり起こるわけでもないから、やはり待つということが必要ではないかと思うのです。



問 忍耐、辛抱が必要だと。



上月  それにつながるが、そう言うと古くさい感じになる。世の中はすべて循環しているのですから、その認識の元に、自分が立ち上がれるときに、よい波をつかんで立ち上がらないといけない。そうでないときに立ち上がろうとしてもなかなか難しい。それができる天才もいますが、普通はそうではない。自分の身の丈に合った、よい循環の波が来たときに、その状況にうまく乗って行く。波頭をとらえる。波の上から上へ、飛び移っていく。波が沈んでしまってからはい上がるのは困難なので、沈む前にぱっと次の波に乗っていかないといけないのです。



問 時流に乗るということですね。



上月 そればかりでなく、巡り合わせという面もあります。俗な言い方ではそれを運という人も多いです。だから波頭をとらえる目も必要。待っていればいい波が来るから、それにうまく乗っていけばいいのです。



問 運をつかむために心掛けていることは。



上月 それは誠実さです。今はコンプライアンス(法令遵守)と言いますが、これを重視して誠実にやれば、うまく運に乗れるのではないでしょうか。



問 最後に、若い経営者に一言お願いします。



上月 ルール違反をしないことです。ルール違反によって成功したとしても、それは一瞬の成功に終わります。それだけは肝に銘じてほしいと思います。




上月景正(こうづき かげまさ)
 
1940年11月、京都府生まれ。66年、関西大学経済学部経済学科卒業。69年、ジュークボックスのレンタル業を始める。73年、コナミ工業(現コナミ)を設立。アミューズメント機器の製造を開始する。84年、大阪証券取引所新2部上場。88年、東証、大証第1部上場。91年、コナミに社名変更。02年、ニューヨーク証券取引所上場。



コメントをシェア

骨太対談
 
コンテンツメニュー
企業家賞
企業家倶楽部企業家大学
Page Top