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トピックス -企業家倶楽部

2015年04月30日

アサヒビールと共に歩んだ戦後第二の人生/アサヒビール名誉顧問 元アサヒビール代表取締役副社長 中條高徳 

企業家倶楽部1999年8月号 アサヒビール奇跡の真実 vol.1


いまから17年前の1982年、アサヒビールは難攻不落といわれたキリンビール打倒に向けて、シェア奪還を目指した。当時、王者キリンのシェアは60%強。一方アサヒは10%弱まで落ち込み、新参のサントリーにも抜かれそうな、沈没寸前の状況にあった。この時「生こそ命」のかけ声のもと、スーパードライを開発、同商品を押し立てて、ついに98年度のビール部門(発泡酒を除く)でキリンを抜きシェアトップに立った。これは産業史に残る輝かしい奇跡である。奇跡はどのようにして起こったのか。当時、現場で打倒キリンの秘策を練り、指揮をとった中條高徳アサヒビール名誉顧問(元アサヒビール代表取締役副社長)が、その真相のすべてを明らかにする。



なかじょう・たかのり

1927年、長野県生まれ、72歳。陸軍士官学校に学んだ後、52年、学習院大学文政学部卒業、同年アサヒビール入社。82年、常務営業本部長に就任。アサヒビール生まれ変わり作戦を企画立案、実施の指揮を執る。88年、代表取締役副社長、90年アサヒビール飲料代表取締役会長就任。96年アサヒビール特別顧問。98年アサヒビール名誉顧問。98年5月、朝日ソーラー販売の経営顧問に就任する。

*中條高徳氏は2014年12月24日、87歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。



ジグザグもまた人生

これから十二回にわたってお話をするわけですが、陸軍士官学校を出た私が、どうしてアサヒビールに入社することになったのか。自己紹介がわりにそんなお話からしてみましょう。

 私は自らをジグザグ人生と呼んでいます。今のお母さんたちは子どもがいい学校、いい会社にストレートで行くことを望んでいますが、長い人生、若い時には少々ジグザグした方がいいと思う。その方が値打ちがある。というか、これもまた人生というものでしょう。

 地方の資産家の家に生まれて、そのまま陸軍士官学校をストレートで入って卒業、軍人になっていたらどんな鼻持ちならない男に育っていたか。そう思うと、我が身ながらゾッとします。

 一九二七年生まれですから、終戦の年には十九歳でした。昭和二十年(四五)八月十五日、突如として価値観がひっくり返ってしまった。今、世の中が揺れて失業率が四・何%だとか言っていますが、そんなものではありません。価値観が百%否定されるどころか、その場にあったことが犯罪のごとく言われる。そんな体験をしたことが、今、七十二歳になってみて、極めて貴重な、ありがたい体験であったと思います。

 仲間は気が狂い、先輩たちが自決する様を見て、なぜこんな悲劇が自分に集中してくるのかと思いました。けれども、のちに残酷を極めたアサヒビールの営業本部長の指揮を執る時に、能力というよりも、その経験があったことの方がはるかに価値があったと思います。

 今、世の中の勝負が激しくなってきて、いろいろな残酷な場を体験することが多くなったと思います。けれども、こんなことは、自分が成功した時にその喜びをよりはっきり知覚するために神様が授けてくださった試練の時代、ぐらいにとらえていく必要があると思うのです。

 終戦後、士官学校から旧制高校に戻ったこともまた、残酷の経験でした。だけど、これも尊い経験だったと思います。士官学校も誇らしい経験だけれど、旧制高校はまったく逆に位置するぐらいに違う教育でした。片方は全体主義的。片方は個の追求に力を入れる。しかしその両方を勉強したことが、価値のあることでした。

 遅れていたからこそ旧制高校でもガキ大将でした。旧制松本高校に行くと、親兄弟をはじめとしてみんな私は東大に進むものと、九割九分思っていました。それが哲学者で優れた教育者でもあった安倍能成先生に出会い、惚れて、安倍先生の薦めもあって先生が学長を務められていた学習院大学へ進みました。そうしたら、君たちは士官学校と旧制高校で学んできたのだから、大学は専門課程だけでいいと言われた。いくらなんでも、大学といったら旧制でも三年なのに、二年だったんですよ。それで五二年にアサヒビール入社。八二年、営業本部長をおおせつかる巡り合わせになりました。



社長に惚れて入社

どうしてアサヒビールを選んだか。価値観の変動の少ない産業を考え、食に関する産業は変わらないと思ったのです。その中にたまたまビールがあって、調べてみたら、ビールは地球的に一番ポピュラーな飲み物らしい、と。単純な理由です。

 四九年、占領軍政策によって過度経済力集中排除法が適用され、大日本麦酒はアサヒビールとサッポロビールとに分割されました。日本のビール会社は三社になり、そのシェアの差は小数点以下でした。

 当時のアサヒビール社長、山本為三郎さんは優れた経営者で、私は躊躇も逡巡もすることなく選択したわけです。

 というのも私の父が大日本麦酒の株主で、東京の学生生活も何かと大変だろうと、配当金の権利を私にくれたので、アサヒビールまで配当金をもらいに行ったこともあったんです。元々一つの会社でしたから同じビルにサッポロビールも入っていましたよ。山本社長には入社前から私淑しており、山本社長に惚れて入った、ということもあります。惚れているということは、恋愛と同じで我が身と相手を置き換えて考える。その気持ちがなかったら、山本社長が私に「課題」を与えてくれることはなかったと思います。このことは後述します。


 山本社長は文化的な素養が素晴らしく、戦後、音楽に枯渇していた時代にクラシック音楽に造詣が深かった。民芸運動の浜田庄司とは親しい間柄で、文武両道に優れた経営者でした。


 入社当時はまさか、これほどのすさまじい転落で苦労しようとは、神ならぬ身の知る由もなし。アサヒビールは昭和五十年代後半には、シェアが一〇%を割るところまで落ち込んだのです。

 悪くなってきたものが見えて、それを立て直したなどという、経営のモデルのような話ではないんですよ。私自身、いい会社で楽で、という選択をしたはずだったんです、正直な話(笑)。


社長に惚れて入社

キリンを抜いた三つの要素

 シェア一〇%を割ろうとしていたわれわれが、どうして業界一位のキリンビールを追い抜くことができたのか。三つの要素があったと思っています。

 第一に、「天の時」がアサヒビールに与えられたこと。これこそ経営者に知ってほしいことで、これに気づくと気づかないとでは、大きな違いがあります。

 それまで(戦前)の日本は、個の主張が非常に弱い世界でした。長いものには巻かれろ、国家の指示には従え、偉い人には文句言うな。そういうことがすべて価値のある世界だった。すなわち「一億一色」の世界です。

 ところが戦後、世の中は激変しました。マーケティング的にいうと、個の目覚め、民主主義の叩き込みです。

 世の中は自由なんだ、個が大切なんだと、これまでの日本のすべてを否定した。「日本がすべて悪かった」として、日本は総崩れになった。その反作用として、「君たちは君たちの価値観を自分自身の責任で築き上げなさい」と叩き込んだ。戦後の民主主義教育についてはいろいろな点で問題があるが、個を大切にする考えはアサヒ復活に大いに味方した。

 戦後民主主義教育を受けた人たちが五割を超える頃から、十人十色の価値観と総称されるようになってきました。そうした人たちが五〇%を越えた八六、七年頃に、私どもが「生まれ変わり」を掲げて挑戦し始めたのです。

 私が営業本部長としてそのことをわかっていたと言えば見事だけれども、ウソをつくわけにはいきません。後で気づいただけのことです。

 八六年、ハーバード大学でもノースウェスタン大学でも、寡占のケーススタディとして日本のビール業界を挙げて、トップのシェアが六割を超えている状態は、二位以下は逆立ちしても勝てない、と説いていた時代です。

 二位以下といっても、うちは三位で、サントリーはウィスキーで稼いでいるから、ビールの世界ではビリですよ。そのアサヒビールが、八六年、「コクがあってキレがある」という提案で生まれ変わり計画を立ち上げた。その年に、全ビールの伸長率の三・八倍の成績をいただいたんです。アサヒビール再生元年でした。

 なぜ、こういうことが起こし得たのか。われわれが、後のないところまで追いつめられて、閻魔様の顔まで見えるような残酷なところに行ったからです。そこで人間が立派になったのではなくて、つぶれちゃうぞ、という危機感から、智恵を授かったのです。



業界三位が「ドライ」概念をつくる

 もっと平らに言えば、三波春夫の心に近づいたんですね。三波春夫は客席が空くと、それはすぐに実入りに関係するから、お客様は神様だと発言した。

 これをマーケティング的に言うと、こうなります。情報機能が発達してきて、お客様に世界中から各種各様の情報が届いて、お客様の目も舌も磨かれて、今やものをつくる人、ものを売る人よりも、お客様の方が上にいる、先に進んでいる。すなわち、マーケット・インの商品づくりでなければならないことに気が付いたんです。

 そして、商人として一番正しいとご褒美をいただいたから、同じ心で同じ足取りで二年目に入る。そうしたら、今度はお客様から「もっとキレのいいビールがほしい」という答えがピンピンと跳ね返ってきた。だから二年目にキレにアクセントをおいて開発したビールが、スーパードライです。

 商品はできました。そのビールをスーパードライ、つまり辛口とネーミングすると部下は言った。実は私は反対しました。なぜかといったら、日本酒やワインと違って、ビールにそれまで辛口、ドライなどという概念はなかった。ないところに、キリンビールならともかく、へなちょこ第三位のビール会社が勝手に概念をつくっていいものだろうかと思ったのです。

 業界で概念も定まっていないものを扱うなんて生意気だ、驕りも甚だしい。いい気になってドライだとか辛口だとか言って、キリンがこの情報をつかみ、潰しにかかってきたらどうするんだと、部下の提案を却下したんです。

 ところが私のいいところは、こんな顔だけど、部下から見て話しやすいってことだったんですよ(笑)。

 一週間後に部下たちが「反対されましたが、あれからいくら検討しても、この商品にフィットするネーミングは他にありません」と言ってきた。



首都圏でのテスト販売に成功

 日頃から新製品の開発に三十五歳以上の者は口出しするなと主張してきた手前、自分に言い聞かせました。あれだけ強くダメだと言ったものを、また来るのだから、やらせてみよう、と。それで百万ケースに限って首都圏で売ってみることにした。すると、なんと千三百五十万ケース、飲まれたんです。

 分割に際して東日本はサッポロビールで、西日本はアサヒビール、というふうに販売網が分けられていたから、首都圏はアサヒにとっては冷たい市場なのに、そんなに売れたから、みんなビックリしました。博多から、高松から、青森からスーパードライを送ってくれ、と催促されました。首都圏の酒屋さんからあんなに売れたのだから、彼らは、すごい商品が出てきたなと驚いたんですね。

 アサヒビールを一所懸命売ってくれた酒屋さんや飲み屋さんにとっては、我が世の春が来た。なのに一箱しか割り当てがない。アサヒビールにハングリー政策を演出するほどの精神的な余裕はない。売れるものはみんな売りたかったけど、本当に足りなかったんです。だから社員は飲むなとやった。そうすると、そのことをマスコミが報道するから、お客としてはさらにそんなビールを飲んでみたくなるじゃないですか。


首都圏でのテスト販売に成功

戦後民主主義世代が五割を超した時

その時の情景……。戦前の教育を受けた我々は、今までにインプットされた思いこみが強く、流れてくる情報を素直に受け取らない。それに対して戦後教育を受けた人たちは、さっき言った通り、流れてきた情報を素直に受け取る。飲んでみたらスーパードライはうまかった。そう感じたら、キリンじゃなければビールじゃないというドグマに冒されている親父の前で、堂々と自分の意見を主張した。そんな若者たちが数多くいたんですよ。

 八九年、アサヒビールは創業百年、一世紀を迎えるわけです。百周年は極めて大きな節目だから、アサヒビール生まれ変わりの、いい目標値になりました。私は生まれ変わりの準備は八六年がリミットと思っていました。それでこそ八九年には感動を呼ぶなぁ、と。

 ところが、ラベル一つ変えるのに三回も支店長会議召集とか、計画以上に手間暇かかって、一年遅れたんです。でも八六年は新しい教育を受けた人が約二百万人増えた。八六、八七年に商品を提案した時、手に取るようにわかりました。これが私たちの時代だったら、自分がこっちがうまいと思っても、親父があっちがいいと言えば、金はどっちが出してるんだ、なんて世界でしたからね。このことは、アサヒビールだけのことではないのです。

 現在の情報化社会は〇・六秒でこちらがやっていることが世界でわかるくらい、さらに進歩しています。つくる人よりも売る人よりも、お客様の方がレベルアップしている世の中になったんです。ところが日本は閉鎖的で保守的だったから、つくる側が、俺がプロなんだから俺のつくったものが一番いい、美味しい、飲まないヤツはバカだという発想でいた。だから、この情報の発達に気づきさえすれば、そういう物づくりもできるんです。

 戦後教育のすばらしさ。それから、情報の発達。それが、「天の時」です。



自分の幸せより特約店の幸せを

 二番目の大きな要素は「夢結び」です。アサヒビールの場合は、自分たちの幸せよりも特約店の幸せを、ということでした。

 豊かさは全人類のめざすところだけれども、豊かでいると、組織の緊張感がなかなか得られません。その点、我々は幸か不幸か、寡占の業界で落ちこぼれている姿が、マスコミによって常にお客様に知らされているという残酷の場にありました。そうした切なさは、他の業界よりも切実です。みんな悔しい思いをしていたんです。

 しかもアサヒビールと特約した店が潰れていくのを身近に感じる。特約店は専売制、つまり一夫一婦制なんです。売れないアサヒビールを一所懸命売ってくれる酒屋さんがあったわけです。セールスプロモーションとして飲み屋まで毎日行っていると、落ちてくる切なさがわかる。たとえば酒屋さんが冷蔵庫くれって言うから、ない金をはたいて寄付する。三カ月ぐらいして行ってみると、その冷蔵庫の中が全部キリンビールだった、とか……。

 だから、この残酷さから出て幸せをつかむためには、「自分が幸せをつかみたい」のではなくて、アサヒビールと縁組みをしてくれた特約店、一所懸命アサヒビールを売ってくれる酒屋さん、飲食店さん、この人たちに幸せになってもらわない限り、俺たちに幸せはない、と言ったんです。

 目に見えて不幸になっている人たち、あの人たちに申し訳ない、すまないと、みんなうちの連中は思っている。自分自身の幸せをつかむという直接説法よりも、あの人たちに幸せになってもらおうと言った方が、ベクトル合わせに役立つ。縁あって、アサヒビールと縁結びしたがために不幸になった人たちを放っておいたのでは人間の務めは果たせないぜ、と。その人たちに、アサヒビールは立派になった、アサヒビールと特約していてよかった、応援してきてよかったと思われる会社に生まれ変わろう、と。そういうことが、共感を呼ぶんですね。見えやすい夢づくりですよ。「志」とも言えます。日本が近代国家をつくる時はアサヒビールを立て直すよりも難しかった。しかし吉田松陰は、維新の志士たちの師として「志定まれば、気ますます盛んなり」と教えているじゃないですか。

 志、つまり心の指す方角をはっきりさせれば、やる気、覇気、元気、それが大きくなる。それを説いたことが、振り返ってみればよかったことだったと思います。それは我々だけが気づいたことじゃない、中小企業主というのは、みんなここからスタートしてるんですよね。夢を定め、行き先を定かにする。素朴な訴えだけど、見逃せないことです。



今こそ生きる兵法の教え

さて、三つ目は、「知識より智恵」。世界的な権威が、日本のビール業界は二位以下に勝ち目はないと言いました。アサヒビールが学者の言うことを聞いていたら、今日はなかったということです。

 だから破れかぶれだったと言うべきか、偉い学者さんがダメだと言ってくれて、私はたまたま営業本部長として何をしてもいい立場だったから、古今の兵法を取り入れたんです。

 話は遡ります。それも六二年に山本社長が、どんどん落ちてくるシェアについて、口汚く我々を叱っていたらこの日はなかったと思います。けれども立派な社長で、何も言わないから、かえって「ああ、つらかろうなぁ」と思わずにいられなかった。なぜ我々を叱らないんだろう、と。不覚にも流した涙で、社長室に行くと、今年十月に全国の支店長会議があるから、そこに抜本策を出せ、と言われた。人間というのは、どんな言葉よりもそういうことに感動しますね。

 それじゃ半端なものを出すわけにはいかないので、他社の十七人のビール技術者に会って、素朴な質問をしてみたんです。「ビールというのは、どういう形で飲むのが一番うまいんですか」と。驚くべし、十七人全員が「生」って言ったんですよ。

 では、なぜ日本のビール会社は殺菌処理を施したラガーを売っているんですか、と聞くと、答えは「腐るから、傷むから、取り扱いが難しいから」。

 腐って、傷んで困るのはお客さんではなく生産者です。まさにプロダクト・アウトの発想で運営していたんです。

 ならばキリンビールをやっつけるのは、生しかない。なぜなら、お客から見て正しいんだから。その時、兵法の「弱者が強者に打ち勝つには」が頭に浮かんだわけです。すなわち少数精鋭、局地優先、個別撃破、奇襲戦法の四つです。

 天下の近代マーケティングの学者に勝てないと言われ、兵法を頼るしかなかった。兵法の方が優れていると言うつもりはないけれども、やってみて、今こそ兵法は大切だと思います。

兵法は生死に関わる真剣の場で用いられてきたものだから、智恵を授かることができるんです。

 天の時、夢結び、智恵。この三つを組み合わせれば、劣勢を優勢に変えることができます。我々が現実にやってきたことです。

 では次回からは、十七年前にさかのぼってキリンビール追撃作戦をたどることにしましょう。



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