トピックス -企業家倶楽部

2015年05月07日

村井さんの人柄と樋口さんの気迫/アサヒビール名誉顧問 元アサヒビール代表取締役副社長 中條高徳 

企業家倶楽部1999年12月号 アサヒビール奇跡の真実 vol.3


いまから17年前の1982年、アサヒビールは難攻不落といわれたキリンビール打倒に向けて、シェア奪還を目指した。当時、王者キリンのシェアは60%強。一方アサヒは10%弱まで落ち込み、新参のサントリーにも抜かれそうな、沈没寸前の状況にあった。この時「生こそ命」のかけ声のもと、スーパードライを開発、同商品を押し立てて、ついに98年度のビール部門(発泡酒を除く)でキリンを抜きシェアトップに立った。これは産業史に残る輝かしい奇跡である。奇跡はどのようにして生まれたのか。当時、現場で打倒キリンの秘策を練り、指揮をとった中條高徳アサヒビール名誉顧問(元アサヒビール代表取締役副社長)が、その真相のすべてを明らかにする。

 



中條高徳なかじょう・たかのり

1927年、長野県生まれ、72歳。陸軍士官学校に学んだ後、52年、学習院大学文政学部卒業、同年アサヒビール入社。82年、常務営業本部長に就任。アサヒビール生まれ変わり作戦を企画立案、実施の指揮を執る。88年、代表取締役副社長、90年アサヒビール飲料代表取締役会長就任。96年アサヒビール特別顧問。98年アサヒビール名誉顧問。98年5月、朝日ソーラー販売の経営顧問に就任する。

*中條高徳氏は2014年12月24日、87歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。



兵法通りの指揮官の登場

 一九四九年(昭和二四)から六六年(四一)までの十七年間、アサヒビールに君臨したのが山本為三郎社長でした。〝生〟こそアサヒビール再生への最大にして唯一の提案だという、私の提案を受け入れてくれた山本社長のあまりの突然の死……。その後は急遽、山本社長が死の一週間前に末席常務から専務に任命した中島正義さんが引き継ぎました。


 ところが業績が上がらない、先代社長の築いた人脈とうまく付き合えない、ついには自分が社長の座にいるのはマイナスではないかと考えた中島社長が住友銀行のサポートを仰ぎ、以後、アサヒビールの社長には住友銀行から派遣されてきた方が就くことになります。しかしまだ、アサヒビール復活再生への道のりは険しかった。


 中島社長の後を受けた高橋吉隆社長は、住友銀行の副頭取だった人で、エリート中のエリート。「預金の神様」といわれた常務取締役名古屋支店長、延命直松さんを連れてアサヒビールに来られました。そして高橋社長の後は、その延命さんが継承した。ところが延命社長は、銀行時代は確かに預金集めの天才で、自信家でもありましたが、精神的な支柱なしに営業強化を訴えたため、社内からも特約店からも総スカンを食ってしまったのです。前回は、そこまで話ししました。


 その延命さんが八一年に病気で倒れ、住友銀行から急遽、村井勉さんが来ることになりました。
 

 兵法でいう指揮官の任務は、第一は「方向を指示する」。経営理念を作るとか、行くべき方向、目指す方向を特定することです。二番目は「兵站(へいたん)する」。後方を準備するということで、つまりおカネを調達をするわけですね。その二つしかするな、という。人事もその通りなんです。


 とすれば、アサヒビールの方向を指示するのに、村井さんほど適切な人物はいませんでした。八六年までの五年間、村井さんはアサヒビールを率いて進むべき方向を明らかにしたんです。ところが爽やかすぎるから、兵站の方には、もっと優れる必要があった。そこに登場したのが、次の樋口廣太郎社長です。


 これまた選択の余地などないんですよ。私が兵法を習っていたから、こちらからこういう方をくださいと言って来ていただいたわけじゃない。しかし選択もしていないのに、この順序で二人が登場したことは、企業にも命運があると思わずにはいられません。これが逆だったら成功していませんよ。


兵法通りの指揮官の登場

誰もが村井社長に魅了された

 しかし、村井さんが登場したところで、誰も知らないトラブルが起きていたんです。入院している延命さんに、住友銀行の頭取だった磯田さんからただ一度の連絡もなかった。延命さんは病院に私を呼び出して、こんな非道なことがあるかと憤慨していました。「俺は社長を譲ってもかまわないが一言の連絡もないとは」と。

 それが事実だとすれば、名将といわれた磯田さんにしては、残念なことだと思うんです。「ゆっくり療養にあたりたまえ」とひとこと言ってくれていたら……。教訓ですね。日本の土壌からして、根回しをしておかなくては。延命さんの怒りは今でも私の脳裏から消えません。


 村井さんが来られることついては、前社長の延命さんですら知らなかったのだから、ましてわれわれなど知る由もありません。後継者の選択に全く参加していなかったことがわかるでしょう。あてがい扶持、配給ですよ。それなのに、このタイミングであの人が来たということは、アサヒビールにも命運があって、私にも運があったと思います。


 なんといっても村井さんの、あの爽やかさですよ。村井さん自身の哲学が「無執」だというんです。こだわらない。私は当初、村井さんにどんな能力があるのかと失礼な見方をしたけれど、疑ったことを恥じるぐらいです。それほど、自分を売り込んだりしない人だったんです。


 その村井さんが、ただ一つ、強く言ったのは経営理念ですね。関西同友会の代表幹事としてアメリカのジョンソン&ジョンソンに視察に行った時の経験で、経営理念は大事だと考えていたんです。


 われわれプロパーは命がけです。銀行がそうでないとは言いませんが、勝たない限り、われわれは自前にならないこともわかっていました。しかし、それまで銀行の人たちは成功を数式で示せ、みたいなことを言うのが普通でした。しかし、営業というものは、それだけでは成り立たない。信念を数式で表すことはできないでしょう。しかし銀行は自分たちの業務を数式でコントロールしているから、われわれに対しても数式で表せと言う。


 ところが、そういう銀行から来た人であるにも関わらず、村井さんの言い方はこうです。


 「営業本部長、どうだ」。


 「いけますよ」と私は答える。すると村井さんは「営業本部長がいけるって言うんだから行こう」。アバウトというか、めでたいというか、爽やかというか(笑)。


 考えてみれば、これは最大の勇気ですね。仮に失敗したら、社長である村井さんは一身に非難を受ける。それを考えたら、この決断はアバウトなようだけれども、大変なことです。勇気があったればこそ、できたことです。


 村井さんはみんなを惹きつける不思議な魅力のある人でした。社長就任パーティの時、「村井さん、あなたこそが新製品ですよ」と言った新聞記者がいたそうです。


 会ってすぐ強烈に惹かれるわけではないんですが、なんともいい気持ちにさせてくれる……(笑)。銀行の世界では珍しく爽やかな人でした。私も村井ファンでしたし、村井さんも私を非常に大事にしてくれました。



人柄でやる気にさせる村井社長

 あれほど社内にとけ込んだ人を私は他に知りません。組織に対する占領軍からのアプローチが巧みで、自然なんです。私もアサヒビールで一、二を争う読書家であると自認していましたが、村井さんは私の上を行く読書家でした。だから読書会を開いたりもしましたが、工作的にやっているという感じではないんです。


 得意先の飲み屋に行って、そこにいる知らない人に「いやー、アサヒビールの社長です、今日はみなさんにおごります」なんて言って、ビールをごちそうしちゃう。しかも、それをやって全く違和感がない。あれは天性のものですね。


 マツダに派遣された時も、労働組合から「帰れ」と言われたらしい。それでも、「まぁ一緒にコーヒー飲もう」と言って労組の事務所に入って行ったり……。そういうことが自然にできる人なんです。だからマツダ時代は広島の夜の街で大変な人気だった。住友銀行時代には、京都の四条河原町支店長しかしていないのに、京都に行けば支店長時代のファンがいる。やっぱり人柄なんでしょうね。派遣人事として考えれば、行った先の組織の者たちが「ついやらされちゃう」ような人柄は、最高の能力ですよ。


 延命さんは苦労してビールの箱数などの数字を追求したけれど、「ま、よろしく頼んまっせ」なんて言っている村井さんの方が、特約店からの受けが良かった。


 村井さんの指揮官としての「方向を指示する」やり方は、自分が「こちらへ行きましょう」と言わなくても、人に「やろう」という気を起こさせるものなんです。仕組みとしては、営業本部長にちょっと生意気なヤツ、というのは私のことですが(笑)、そういうヤツを置いといて、好きなようにやらせておく。実際の軍隊にも、そういう例はたくさんあります。自分で実行するのが望ましいけれども、代理行為ですね。そうして任せておいて、「どうだ」と。


 任されたら、人間はやりますよ(笑)。任されるから、言われなくても報告を入れる。だからコミュニケーションがよくなる。つまり、人使いの名手だったんです。


 社長だった五年間の間に、村井さんは本当にみんなにやる気を起こさせましたね。彼がマツダに連絡して、広島にあるマツダの迎賓館、それも滅多に使えないところに、東京の特約店の大どころをご夫婦で招待したことがあります。われわれも夫婦で行きました。それで一般にはできないことですが、江田島まで見たんですよ。人柄でしょう。



勝利を確認するまでは

 まるで兵法に従ったかのように、みんなにやる気を起こさせ、方向を指示した指揮官の後に、資金調達のうまい、つまり兵站に優れた人が来たんです。性格の特徴的な部分がアサヒビール再生のために、まったくおあつらえ向き…ということは、神の授かりものというしかないじゃありませんか。

 実は村井さんは、私に後継を譲ると言っていたんです。それも生産本部長のいる前で、です。これはという大事な特約店の社長さんたちに、銀行から社長が来るのは私が最後で、これからはプロパーに渡します、とはっきり方々で言っておられました。しかし、ある日、突如として住友銀行から樋口さんが来た。われわれの論理でいけば、約束が違うじゃないですか。私らより住友銀行の部下の方が可愛いですか、と言いたいところでしたが、そんなことは品性上言えません。


 もし私がその場で楯突いたら、反対もなり得たかもしれませんね。しかしわれわれは、反乱軍を興こしている場合じゃない。勝つことがすべてでした。あの苦しい体験があったから、どんなことがあろうとも勝つ、と思っていた。勝ったから、今こうしていられるわけでしょう。社長にならなくても、こっちの方が気持ちいいじゃありませんか。


 村井さんは八五年にCI(コーポレート・アイデンティティー)を導入して、八六年に会長に退き、樋口さんが社長に就任しました。その年、アサヒビールは全ビールの伸長率の三・八倍という成績を上げ、いい手応えを感じていました。この感触はわれわれにとって大きな力となりました。


 でも、村井さんが社長を辞める時、私も辞めます、と言ったんです。私の立場は官房長官みたいなもので、首相が辞めるなら一緒に辞めようと思った。しかし、「まだ君はアサヒビールの成功を確認していない、三・八倍では勝利の確認はできない」という村井さんの言葉で、営業本部長として私は残されたんです。



自分の意志でやってきた樋口社長

 樋口さんがアサヒビールに来た当時、マスコミは村井さんが住友に頼みに行って樋口社長をもらってきたなどと言いましたが、それは根も葉もないことですよ。九九・九%、本人の意志です。


 これは樋口さん本人が言っていたことですが、まずは大阪建物ではどうか。新大阪ホテル(現ロイヤルホテル)ならどうか。住友建設なら斉藤某という実力者がいるから、それを排除してくれたら行くと言った。といったことを私に話してくれましたから、間違いないと思います。


 村井さんは磯田さんの信奉者で、住友銀行に毎週、事業の進捗状況の報告をしていました。「今日は磯田さんがエレベーターの前まで見送りしてくれ、一時も無為に過ごすなと言ってくれたよ」と喜色満面でよく話してくれました。だから磯田さんはアサヒビールの状況を一番よくおわかりだったと思います。樋口さんはそういうことも聞いて、自らの意志で、アサヒビールに来たんです。


 そんな背景があったからかも知れませんが、樋口さんが顧問として登場してからの一挙手一投足がどうもカチンとくるようなことが多かった。意気込みと素直にとればいいのですが、私から見ると専制君主の登場そのものと見える。銀行が上位者であり、征服者だと言わんばかりの行動と見える。そんな頃の出来事です。


 下関の有力特約店の社長から分厚い手紙が来ました。彼は、今後の社長はプロパーに渡すと言った村井さんの発言をお聞きになった一人です。もう銀行からは社長が来ないと言っていたのにという非難の手紙でした。信書の秘密ということもありますが、全国の特約店の実相を知ってもらうことこそ大切なことだと判断したので、樋口さんにもすぐに見てもらいました。もちろん、会社のしかるべき人たちにも読んでもらいました。このことを、どう受け取ったのかわかりませんが、営業本部長は樋口さんの悪口を言いふらしていると、ご注進におよんだ社員が出たのです。激戦の最中に、情けない社員もいたものです。


 樋口さんは社長室に私を呼ぶなり、烈火のごとく怒鳴りました。住銀の人たちが「瞬間湯沸かし器」とあだ名していたのは、これだなとすぐにわかりました。いささかもひるみませんでした。


 その手紙は樋口さんにも見せていましたから、カンのいい彼はすぐに誤解だとわかりました。しかし、ものすごい見幕でしたから挙げた拳を下げにくいようでした。


 その晩、人と会う約束があるので、それまで待機して、それから会ってくれと樋口さんが言うので、私は新橋の「武蔵野」で待ちました。ところが、十時過ぎても来ないし、何の連絡もない。いくら社長でもひどすぎると思いました。女将も実状を知っていたので、「他日またお話をさせていただくから……」と樋口さんへの伝言を頼んで帰宅してしまいました。


 これからが樋口さんのすごいところです。なんと十一時過ぎに拙宅を訪ねてこられたのだ。樋口さん自称の養子社長がさほど親しくもない部下の家までわざわざ訪ねるなどということはなかなか出来ないことです。それは根っからの商人のお家に生まれたことで身についたものなのか、住銀で磨かれたものなのか知りませんが、「問題はすぐに片づけて後戻りしない」ことは素晴らしいことです。


 この瞬間、私は敗けを強く感じました。


自分の意志でやってきた樋口社長

コメントをシェア

骨太対談
 
コンテンツメニュー
企業家賞
企業家倶楽部企業家大学
Page Top