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トピックス -企業家倶楽部

2015年05月25日

堪え忍んで「生」の浸透を図った大阪支店長時代/アサヒビール名誉顧問 元アサヒビール代表取締役副社長 中條高徳 

企業家倶楽部2000年10月号 アサヒビール奇跡の真実 vol.8


わずか二年間の東京支店長を経て、お膝元が揺らいだために呼び戻されて大阪支店長に就任。思いのたけを込めて生作戦の指揮を執る。最も苦労しながら、最も実りの少なかった延命社長とともに、堪え忍んだ5年間だった。



中條高徳(なかじょう・たかのり)

1927年、長野県生まれ、72歳。陸軍士官学校に学んだ後、52年、学習院大学文政学部卒業、同年アサヒビール入社。82年、常務営業本部長に就任。アサヒビール生まれ変わり作戦を企画立案、実施の指揮を執る。88年、代表取締役副社長、90年アサヒビール飲料代表取締役会長就任。96年アサヒビール特別顧問。98年アサヒビール名誉顧問。98年5月、朝日ソーラー販売の経営顧問に就任する。

*中條高徳氏は2014年12月24日、87歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。



哲学の浸透は、まず部下たちから

 東京支店長を二年間務めたところで、一九七六年、大阪支店長の辞令が下りました。

 東京支店のエリアは広く、今は二十ぐらいの支店があると思いますが、当時は東京都内はもとより千葉、埼玉までカバーしたものです。責任は重く、当然のことながら大きな地位でした。四十九歳の若さで就任した東京支店長でしたから、少なくとも五年計画の設計をします。仲間たちからも「すごいなぁ」と言われれば力みもしました。ここは一つ俺の力で、と思っていたところ、本家本元の大阪が揺らいできたための辞令だったのです。


 一般の会社から見れば東京から大阪といったら「何か失敗したのか」と言われるところですが、アサヒビールは違います。戦後GHQに分割された時には七、八割が大阪。地元の人たちは「俺たちのビール」といったものです。七六年当時も、五対三の比率で大阪でした。それが揺らいできたんです。


 キタから病原菌は広まりました。大阪の二大繁華街のうち、ミナミは地元意識が強いけれど、キタは東京の植民地というほど東京からの転勤族が多い。キタ新地あたりから、色に見えるほどキリンビールが浸食してきたんです。前任の支店長が悪いわけではなく、誰が悪いのでもない。時流でした。東京ではキリンが猖獗を極めていたんですから。交通の便利ささえも大阪を、アサヒを脅かしたのです。


 大阪は、新入社員の時代からくまなく酒屋を回って、戸棚の奥まで知っている街です。そこに二年ぶりに戻ってきた私は、さながら凱旋将軍のようでした。酒屋さんも歓迎してくれる。ふるさとに錦を飾ったような気持ちでした。一番得意な場所だから、ここで指揮を執ってアサヒの基本方針は「生」だ。生ビール以外には勝ちはないことを徹底しようと心に誓った。そう決意したら、指揮官というものは、まず部下に哲学をわからせなければなりません。「いいか、腹をかっさばいて見せることができるなら、俺の腹の中には生しかないぞ」と部下たちに手とり足とり判り易く生ビール路線を説いた。


 というのも、私が大阪に戻った時、大阪支店の総売上のうち五割がまだラガーだったんです。しかし、それは現実との妥協です。過去のしがらみがあって、生だけにしぼることができない。現実の経営は、夢だけでは成り立たないからです。「生は正しい、生でしかアサヒ勝利の道はない」という哲学は絶対のものですが、消費者の半分がそう思っていない。全消費者が「ビールは生で飲むのが正しい」と思うところまで工作が進めばラガーをやめてもいいけれども、お客様がラガーが正しいと思っている限り、生を強引に押しつけるのはマーケットインの発想とは言えません。「プロダクトアウト」と言わねばなりません。


「支店長、それならいっそ全部を生にして、ラガーをやめたらどうでしょう」と言ってくる者もいました。「そうか、それはわかる。嬉しいよ。だけどね、自分が正しいからといって、お客さんの口にむりやり生を突っ込むことはできないじゃないか、ビールは生で飲むのが正しいんですよと説き続ける努力を重ねていかなきゃならない」ということを常に熱をこめて説き続けなければ仲間にだって理解されません。外にはもちろん内側に対しても、私は徹底して言い続けました。



延命社長の心労

 私が大阪支店長を務めた五年間は、そのまま延命直松さんが社長を務めた五年間でもありました。私があんまり生だ生だと言うものだから、延命社長の使者として竹縄常務がきました。「これ以上、生と生と叫ぶな」と言いに来たのです。


 延命さんは住友銀行から来た人で、名古屋支店長時代には「預金の神様」と言われた人です。彼はあくまでも現実主義者で、「お客がまだ五割もラガーを指示しているじゃないか。お客が正しいんだ」と言うんです。だから私は支店長会議で「社長、ラガーの売り方を教えてください」と皮肉な質問をしたものです。


 ある時、私は延命さんに「おたくでは何を飲まれているんですか」と聞きました。「ラガーだよ」と延命さん。「だからダメなんですよ」と私は言いました。


 あなたは銀行から来た人かもしれないけど、出入りの酒屋さんはあなたをビールのプロだと思っている。だからあなたが木枯らしが吹こうと大雪が降ろうと生を飲んでいたら、「なるほどビールは生が正しいんだ」と理解が進むじゃないですか、と。


「お前、いつから社長の飲むものまで指図できるようになったんだ」と延命さん。しかし彼は、口は悪いけど、私を評価してくれていました。


 よく電話が掛かってきましたよ。得意先の手入れが悪いんじゃないかとか、売り上げのここが悪いのはどういうわけかとか。「社長、そんなことは任せておいてください」と言うんですが、ものすごく細かい人でした。そこが銀行的でした。銀行は商品が金で、金に特色があるわけではないから、品質をよくするという発想はないわけです。成績のすべては営業力という考え方です。しかし営業力といってもただであるわけじゃありません。人員を増やせばそれだけコストがかかる。だから今あるものの営業行動量を増やすしかない。そういうことを銀行の処方箋で言ってくるから、私もついにやりきれなくなって、「わかりました。それ以上はお任せ下さい。」と電話を切ってしまったんです。それでもまた掛けてくるんですよ。それで秘書に「もう出かけたって言っとけ」と居留守を使いました。


 自宅に掛かってきたこともありました。延々七十分。売り上げがどうの、部下がどうのと気の毒になるぐらい、細かいことを真剣に考えているんです。とにかくこの人の魂を慰めてあげなくちゃいけない。住友銀行から来た六人の社長の中で、一番苦労して、一番実りが少なかった人です。私はその苦労は尊敬します。でも、金融の人たちには、一つのサンプルだったと言いたいですね。


 企業に仲間を派遣する時、大きく物を見る人を送らなければ、かえって悪くしてしまいますよ、と。自分で苦労して、それで組織内からも得意先からも受けが悪かったんですから、それは本当にお気の毒でした。


延命社長の心労

指揮官の信念で士気高揚

 とにかく、大阪支店でしたことは現場の士気高揚でした。部下を元気づけ、戦意を衰えさせないようにした。それから特約店です。専売制ですから脱落しないよう、景気の悪い話はしないで、「まかしといてください、生でやっていたら日が昇りますよ」と言い続けました。大阪支店長の五年間、シェアはあまり上がりませんでしたが、揺らいでいた特約店が崩れなかっただけでも、課題を達成したと言えると思います。そしてじっと堪え忍んで、逐次、生への理解を浸透させる。今となっては、あっさり理解されたように思えるかもしれませんが、決してそうではありませんでした。駅のホームで、「みなさん、わかりませんか」と叫びたいぐらいでしたよ。なかなかうまくいかない。お客様は勝手なものですから。


 こうした苦労をしたからよく見えてくるのは、やはり信念です。一九六二年、山本為三郎社長の前で涙したあの時、そして抜本策を作れと言われたあの時、各ビールメーカーを訪ねて十七人の技術者に聞いたら、ことごとく「ビールは生で飲むのが正しい」と言った。この答えは迫力がありますよ。自分の都合で生がいいと言っているわけではないんですから。大日本麦酒三十年史をひもとくと、明治時代に値を高くして夏だけ、吹田工場から生を出していたと書いてあるんです。わかっていることだったんです。わかっていることなのに、売り手であるビール会社の都合で嘘をついてきただけなんです。


 そうして工作を進めているちに、全ビールの内に占める生の割合が、徐々に上がってきていました。だから、大阪支店長時代は誰はばかることなく、生こそ命の世界へと進むことができたんです。


指揮官の信念で士気高揚

大手特約店、増田商店の倒産事件

 大阪時代の「事件」として、大阪に本店がある大手特約店、増田商店の東京店が二十億円を超える負債を抱えて潰れたことがありました。沖縄でホテル業や飲食業、パイナップル畑と事業を拡大しようとして失敗したんです。大阪が本店だから、事情は私が一番よく知っているだろうということで週に三回、債権回収のための会議で東京に通いました。夕方、東京に着いて会議をして翌日帰る。またその翌日は夕方から東京で会議といったふうです。


 その夕方からの会議で、私は夕食を取ろうと秘書の小林君に言ったんです。すると延命さんは「取っちゃいかん」と言う。そんなばかなことはありません。一心不乱に仕事をしていて夕食を食べるのを忘れたというなら見事ですが、夕食を取ったら不真面目で、取らなかったら真面目だなどという論理はありません。秘書に言って取らせました。取ったら延命さんも食べてるんです。


 こういうことを、サラリーマンは往々にして針小棒大に受け取りがちなものではないでしょうか。上司がちょっと注意したことを絶対のもののようにとらえる。正しいことは毅然として主張しなくてはいけません。「お前、こんな時にのんびり飯が食えるか」と言われるかもしれない。勢いで言うかもしれませんよ。それを金科玉条のように「夕食は取るべからず」とする。トラブルが発生した時は、関係者が一人でも脱落したら他の者にかかる負担が大きくなるものです。健康でいなくては。体をこわす方が問題なんですよ。夜遅くまで嫌な問題を討議するんですから、腹ごしらえするのは当然のこと。食べる時には食べなくては、と言ったことを思い出します。


 この東京の増田商店問題の時、アサヒビールは初期動作の手順を誤ったんです。アサヒだけでなく、他のビール会社や酒造メーカーにも経営不安は起きているのだから、みなさんはどうしますかと打診して、それではアサヒビールさんが代表で調査してください、というネゴシエーション(交渉)をしておけばよかったんですが、それをせずにアサヒが最初に調査に乗り出してしまったんです。そうすると、うちが目付役のようになってしまって、他社の酒の入荷を保証することになったわけです。問屋整理の不手際も重なって、結果として大きな損失を被りました。単に金額の問題だけでなく、社長以下の日々の心労ははかり知れないものがありました。当時は切ないことでしたが、やがて日本全体がこうした事態に陥ったことを思うと、先んじて体験したことは強さになったと思います。


 悪いときには悪いことが重なるものです。気をつけなくてはいけないのは、指揮を執る者が落ち込んで暗くなり、物事を消極的にとらえるようになること。そんなとき、少しでも戦況がよくなると気持ちも高揚して、明るく前向きにとらえるようになるものです。


 今の日本がそうです。だから開き直りの心が大切なんですよ。日本は昔、貧乏だったから、憂き事が嫌なんです。しかし「憂きことの尚この上に積もれかし限りある身の力試さん」という言葉があります。他人様がバブルに酔っている頃に、一人アサヒビールが悩んで沈んでいたことは、よかったとは言いませんが、耐えたから今日があるんじゃないでしょうか。


 人生も同じです。ストレートにいい学校に進み、いい会社に進む、それが日本の母親たちがわが子に望む理想像です。しかし、そうしたほとんど挫折を体験しないような人たちほど、今度のアサヒビールの戦で弱かったことを告げざるを得ません。人生に挫折はきてほしくないけれど、きた時は成功の喜びをより確かに味わうために神様がくれた塩味ぐらいに考えたいものです。



一度は断った副本部長辞令

 話は大阪支店長時代のことに戻りますが、延命さんが苦労して真剣に努力しているのに評価が低い。私としては、責任を感じることでもありました。だから、延命さんを傷つけない、アサヒビールとしても得な処方箋はないかと考えて提案したのが、営業本部と生産本部でした。延命さんは何でも自分でやろうとする。何でも自分でつかんでいたいと言う。「それは無理ですよ」と言ったんです。銀行から急に来られて、とりわけビールの製造のことなんて、なかなかわかりませんよ。だからアサヒビールをもっとも容易に把握する仕組みを作りましょう。生産本部は本部長にすべて責任を持たせて、それもアサヒのプロパーを任命しなければ誰を連れて来てもダメです。そして、あなたは営業力がダメだと言っておられるのだから、営業本部長には、あなたが住友銀行で最も信頼する人を連れて来られたらいかがですか。人事問題についてのアサヒ側の保証は私が引き受けますから、と言ったところ、延命さんは応じたんです。これが営業本部のスタートの真相です。

 そして営業本部長として住友銀行から佐藤信司さんが来られました。取締役銀行支店長をしておられた延命さんのしんにんの厚い方でした。延命さんは私に副本部長としてサポートしなさい、と直接言ってきましたが、私はただちに断りました。


 ご指示は嬉しいですが、生に対する哲学で私はあなたと意見が合っていません。社長と副本部長の間で哲学が混乱しているようでは部下が迷惑しますから、お断りしますと言ったところ、「お前は信州人らしくて理屈っぽいな」と言われました(笑)。


「お前が言う生の考えは、俺はとっくに理解しているよ。お前は大阪の大支店長にも関わらず支店長会議で俺に『ラガーの売り方を教えろ』なんて無茶な質問をするから抵抗してただけだ」


 そんなことはないでしょう。常務をわざわざ大阪支店に差向けて、「それ以上生のことを言うな」と言ってたじゃないですか、だからお断りします。


「それほどこだわるのか」


 それはそうです。いわば参謀本部の主要メンバーの哲学が違うようではうまくいくとはとても考えられません。


「だからお前に命令している」


 政治の場だってどこだって、政策合意というものがあります。私はそこで条件を出しました。


「ビールに関しては、あなたは社長といえども一切、口を挟まないと約束してくださるなら、私は副本部長として佐藤さんをサポートします」


 延命さんは、これを飲みました。それで私は副本部長になったのですが、本部長になった佐藤さんが倒れたんです。立派で誠実な人でしたが、あまりの苦しさに病気になってしまった。一年たたないうちに、私は営業本部長の任に就くことになりました。



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