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トピックス -企業家倶楽部

2015年05月26日

苦しいときこそわかる縁の大切さ/アサヒビール名誉顧問 元アサヒビール代表取締役副社長 中條高徳 

企業家倶楽部2000年12月号 アサヒビール奇跡の真実 vol.9


生ビールの正しさを証明し、夢を現実のものにするために、縁をつくり、つないでいくことを心がけた大阪支店長時代。崩れ落ちようとする土手を支えるために、ありとあらゆる縁をつなぐ。つらい日々を堪え忍ばせたものは、マーケット・インに基づく信念だった。



中條高徳(なかじょう・たかのり)

1927年、長野県生まれ、72歳。陸軍士官学校に学んだ後、52年、学習院大学文政学部卒業、同年アサヒビール入社。82年、常務営業本部長に就任。アサヒビール生まれ変わり作戦を企画立案、実施の指揮を執る。88年、代表取締役副社長、90年アサヒビール飲料代表取締役会長就任。96年アサヒビール特別顧問。98年アサヒビール名誉顧問。98年5月、朝日ソーラー販売の経営顧問に就任する。

*中條高徳氏は2014年12月24日、87歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。



縁結びの神様と呼ばれて

 柳生家に、こういう教えがあります。


「小成は、縁にあっても気がつかない。中成(普通の人)は気がつくけれどもその縁を生かしきれない。大成(立派な人)は、袖ふりあう縁をも生かす」。


 商売の成果は、縁の集め方による。アサヒビールに入って、どの任地で何をしている時も同じ気持ちでしたが、とりわけ大阪は私にとっては初任地であり、全国を回った後、最後に支店長を務めた地でもある縁の深い土地です。


 アサヒビールにとっても大阪は縁の地です。明治二十二年、大阪府三島郡、今の吹田で誕生しました。ですから大阪の人たちにとってアサヒビールはおらがビールです。マッカーサーに分割され、東日本は縁の薄い市場、端的にいえば赤の他人のようでしたが、西日本にはすごい応援団がいたわけです。一九七六年からの五年間、私はその一番の中心地、心臓部の責任者として、心がけたことが「縁づくり」でした。


 極めて生意気な発想ですが、大阪支店長を経てやがて自分が全国の営業部門の総指揮をとらねばならないとの思い込みを強く持っていました。その日まで、このアサヒの命脈を保っておかなければならない。それがためには、アサヒの金城湯池である大阪の地盤をしっかりと守らなければならない。


「攻撃が最大の防御なり」という兵法の教えが常に頭のなかにありました。


「ビールは生ビールがお客にとって正しい。生ビールは必ずキリンに勝てる」という考え方を大阪の地で内外共に徹底させることこそが裁量の攻撃手段。これ以外の攻撃手段はないと判断していました。


 とはいえ、これも前回語っったことですが、いかに生ビールが正しいと言っても、その考え方が内外にすぐに理解されるはずはない。


「生ビールは夏のもの」というのが当時の常識。ビール業界数十年のドグマはちょっとやそっとでは崩れません。


 生ビールで必ず勝てると思いながらも、焦るのは禁物でした。孫子はこう言っています。


「よく闘うものは先ず勝つべからざるをなして、以て勝つべきを待つ」「勝つべからずとは、守るなり。勝つべしとは、攻むるなり」


 戦い上手は態勢をしっかり気づいて気付いて築いて相手方の態勢のすきや、自分の正しい主張を以て攻めることを説いているのです。つまり、縁結び、縁集めを強化して自陣の態勢を整えておき、そして生ビールのドグマを破壊する。それこそが大阪支店長たる自分の役割だと強く自分に言い聞かせ、徹底した縁づくりに精進したのです。


 私が仲人をした結婚式は百件を超えています。「縁結びの神様」と言われました。


 大阪港区の特約店、不二家の沢登弘さんのところは二代、仲人をしました。ひょっとしたら三代目もするかもしれません。西区の川隅正治さん(故人)も熱烈にアサヒを支援してくれた酒屋さんでした。娘の縁談は君に任すと厳命されました。大阪支店の名物であり、宝とも言われた岡辺ジウさん(故人)の隣の阪神車輌の佐守正三君との縁を結びました。正治さんの弟、住吉の川隅侑さんも商人の鑑のような方でしたが、息子隆行くんの仲人をさせていただきました。


 道頓堀、昌慶苑の西条さんは韓国出身で功成り名遂げた人です。どうしても息子弘芳君の仲人をせよとの命令でした。大阪ロイヤルホテルで行った宴は全て韓国の様式でした。韓国では大勢来るほどいい婚礼だそうで、凄まじい数のお客様が見えました。列席した人たちすべてがアサヒファンになるような気分でした、。


 池田市の特約店の倉田早治くん、ミナミ(大阪中央区)の白木辰雄君(故人)、ますやの赤沢敏夫君(相撲の神風の甥)、幸田商店を切り回していた加藤専務の子息加藤昌彦君(東京中野・エイコー社長)、北区の業界リーダーであった浦田光男君(故人)、門眞の川上酒店、特約店の総元帥ともいうべき松下商店(現伊藤忠食品)の取締役長野泰之君、東京・旭寿の前林孝一さんの二人の息子、東京・豊島の神山さん、田辺さん、北区の津川屋さん、大田区の岩沢正郎君など、挙げたら切りがありません。阿修羅のごとく縁づくりに精進しました。さすがに女房は悲鳴を上げる始末でしたが、明日を信じ、やがて勝つと思っていた私にはさして苦痛ではありませんでした。


 大阪に仲人をした人たちの集まり「中條仲友会」なるものがあります。集まると幼稚園のようですが、この人達は肉親のようにアサヒビールの生まれ変わりに協力を惜しまなかったのです。有り難き哉縁。縁は限りなくボリュームを大きくしなければその偉力を発揮しません。


 朝日、毎日、読売、産経新聞の運動部長たちを集め、オリンピックメダリストの葉室哲雄さんに中心になってもらい「スポーツマンほろにが会」をスタートさせたのもこの頃です。水泳の鶴田さん、飛び込みの小柳さん、馬渕君同じくかの子さん、ラグビーの永井さんなど錚々たる顔ぶれを集め、毎月、梅新のビヤホールで気勢をあげました。扇町プールに三千名もファンを集め、メルボルン・オリンピックの応援費用を捻出したりもしました。この人達は柄は少々荒っぽかったですが、強烈なアサヒ指名軍団とかして行きました。


 縁づくりは慶事ばかりではありません。特約店の吉田精造商店の吉田社長、北区の特約店の林豊商店の林豊治社長が亡くなった時には、請われて葬儀委員長を務めました。


 何度も言うように、アサヒビールがなんとか立ち上がるまで日まで、土手が崩れないように支えて行かなければならなかった。それにはやはり関西の市場で、とりわけ大阪の市場で専売の特約店や販売店、飲食店との縁を大事にし、一般の人達を巻き込んで、その縁を育て集結することだったわけです。


 しかし、アサヒには素直に光はさしてきませんでした。この頃、京都十全会の高木理事長によるアサヒ株の買い占め事件が起きてきたのです。


縁結びの神様と呼ばれて

寄付した冷蔵庫にキリンビールが・・・

 ビールの売り先は、今は家庭が主ですが、当時は家庭より飲食店。大阪ではキタ新地やミナミの繁華街がビールの一大消費地でした。キタの飲食店には毎晩のように行きました。どこのママの旦那さんは誰だとか、興信所よりも詳しいぐらいでした。酒屋さんたちの会合にも、本当は疲れているんだけど、出てくれやと言われれば、どんな会議でも、どこまでもついていって、縁つなぎをしていったのです。


 最近の報道を見るにつけ胸が痛みますが、そごうさんも本店は大阪です。山本為三郎社長が間に入って、水島社長が誕生した経緯がありました。ですから水島さんはアサヒビールしかお飲みにならないぐらい強力なファンになってくれた。高島屋さんは七日会というアサヒビールを飲もうという会を作ってくれて、そのお世話をしてくれた柏木さんのお嬢さんはアサヒの専務を務めた丹下君に嫁ぎました。そういう卓越な縁の積み重ねをしないと、続かなかったと思います。


 肉体の切り売りをしていたようなものですよ。あらゆる縁を重ねていかなければ、土手が崩れてしまう。よく挫折しなかったと言われますが、辛いこともたくさんありました。


 たとえば冷蔵庫を寄付してくれたらアサヒビールを入れますよ、と言われる。ひと箱でも売りたいと思って、なけなしのオカネをはたいて寄付する。ところがあまりにも売れないから、三カ月後その店に行ってみると冷蔵庫の中にはキリンビールがビッチシ入っていたこともありました。そういう残酷な体験をすると、人を恨みたくもなります。だからこそ、教えられなくても、縁をつくり、強くして支えなければいかんと思う。縁の貴さというのは、人間が落ちぶれてみるとよくわかるものなんです。


寄付した冷蔵庫にキリンビールが・・・

信念に基づく夢は強い

 アサヒビールの人たちはみんな辛い、嫌な体験を経てきたわけですが、それをクリアできたのは夢を持った人だとしみじみ思います。人生に夢は絶対に必要です。


 われわれが描いた夢は、創業百周年を迎える昭和六十四年までにアサヒビールをよくして、切ない思いをさせている特約店、苦労している販売店、悪口を言われつつも売ってくれる飲食店の人たちに、アサヒビールと特約してよかった、アサヒビールと縁結びしてよかった、アサヒビールを応援してきてよかったと思われるような会社に生まれ変わろうぜ、ということでした。この夢を、あの落ちぶれた際に持っていたことが救いだったと思うのです。


 中には、アサヒビールのバッジをつけて歩くのが恥ずかしいと、はっきり言っていた社員もいました。残業代もまともにつけられませんでしたから。ゼロではありませんが、会社が貧乏しているから一部寄付しろ、と。君の良心に照らして堂々と請求できる部分で、つけない部分は俺に預けろと言ったんです。どこの銀行よりも高い金利で払ってみせる。現実に金がないわけだから、文学的夢を結んでおかなければならなかった。


 その後、瀬島龍三さんご夫妻と一緒にハバロフスクに行く機会がありました。瀬島さんは十一年間、ソ連の捕虜になっていた人です。日本からは六十万人の仲間が連れ去られ強制労働させられて、六万人が犠牲になりました。ラーゲルの建物の残骸の前に立って、瀬島さんは言いました。


「ここに鉄条網があって、触ったら死ぬのがわかっていても望郷の念にかられて、帰りたいと叫びながら触って死んでいった者がたくさんいる。その時に生き残った者、助かった者はすべて、絶対に帰れると夢を持っていた者だった」と。


 そう考えると、日本の去年の自殺者が三万三千人、一昨年が三万二千人もいることは異常です。死人に鞭打つ気持ちはないけれど、あまりに弱すぎる、それに夢が小さいんじゃないかと思います。ちょっとした苦労や苦難、失敗で、すぐ命を捨てるなんて…。アサヒビールのあの残酷な時代、本当に自殺したいぐらいでしたが、われわれは夢を持っていました。明日を信じなければ、苦難には堪え難いものです。


 そういう夢結びをするために、縁つなぎをして、「生」の道を説いて歩きました。ただ「がんばります」というのはどこでも言うでしょう。しかし私には「生」なら勝てるという信念がありました。昭和三十七年、生ビールの提案をする時に、他社の十七人の技術者を訪ねて、ビールはどういう姿で飲むのが正しいんですかと聞いて歩いた。全員口をそろえて生ビールが正しいという答えでした。


 なのに、なぜビール業界はパストリゼーションで火入れをして、ラガーと称して、それが正しい飲み方だと嘘をついてきたかといえば、腐るから、傷むから、取り扱いが難しいから、という話でした。腐って困るのは誰なのか、傷んで困るのは誰なのか、取り扱いが難しくて困っているのは誰なのか。お客さんは全然関係ありません。作る側が困るからに他ならない。それは大きな発見、気づきでした。


 数十年間、我が国のビール業界は「ビールは生」が正しいとわかりつつ、自分に都合のいい方式でビールを提案してきたのです。これを学問の世界では、プロダクト・アウトの商品づくりと呼びます。われわれはどん底の悲哀を味わっただけにお客から見て正しい商品、喜ばれる商品でなければ、即ちマーケット・インでなければ勝てないということに気付いてのです。


 商品づくりはすべて、お客さんが、うまいなあ、いいなあという価値を見出してこそ買ってくれる、お客様本位、そのことにある。マーケット・インに気づき、生なら必ず勝てるという信念が夢を結んだのです。


 言ってみれば思い込みです。恋愛と同じで、苦痛は比較的少ないんですね。ただし具体的でなければいけない。「そのうち元気になるよ」なんて曖昧なことではだれも信じませんから、社員も特約店も生に命をかけて、「生なら必ず勝てるよ」と叫んでいました。お客さんから見て正しいことなんですから、迫力があります。そうしたことのベースに縁づくりが大切で、私は結婚式も葬儀委員長も、頼まれたら喜んで行きました。それだけ係累が増えるんですからね。女房からは「助けてください」と言われました。今、その負債勘定を返していますよ(笑)。



パラダイムシフトを認識

 当時は、商品を生産する側の論理で推し進めるプロダクト・アウト、生産者的発想が支配的でしたね。世界的にみると、今でも日本には、その傾向は非常に濃い。しかし今の日本が求めているのは、国家と大企業が中心になることで成功してきたこのメカニズムが通用しなくなったのはなぜか考えることです。


 一九四五年、終戦と同時に地球上は米ソ対立という構図に入りました。日本人に足りないのは、まずこの認識です。この半世紀、日本の富構築のために日本人が流したすべての汗よりも、米ソ対立の冷戦構造の方がはるかに有効な神風だったとの認識が必要です。


 戦後の大半は冷戦構造が続き、われわれはアメリカの傘の下に入りました。自由主義陣営参加です。地図を広げて見ると日本列島が米ソ対立のはざまに横たわっていることに気づきます。これを地政学的優勢と呼びます。それを中曽根さんは「不沈空母」と言いました。沈むことのない航空母艦のことです。それほど価値のある日本列島だったんですよ。


 たとえば一九五〇年、韓国に北朝鮮が攻め入り、予告もなく朝鮮動乱が勃発しました。"赤"が自由主義陣営を攻めてきたということです。日本列島と照らし合わせてみると、まるで日本のポジションをわからせるような出来事で、その時、マッカーサーは気がついたわけです。日清戦争、日露戦争が日本の戦略戦争だという認識が間違えであることを。彼は極東を治める責任から上陸して動乱を抑え、そして帰国後、日清・日露戦争は北からの驚異に日本が対抗したものであって侵略ではなかったと上院で証言したんです。冷戦構造の半世紀、日本は世界とろくにつきあいもせず、ビール協会とか鉄鋼連盟とか建設工業会とか、それぞれ業界団体をつくってお互いに傷をなめあい、ひたすら銭儲けをしてきた五十年でした。それを特にヨーロッパの人たちは指をさして悪口を言ったものでした。しかしアメリカは、日本は自由主義陣営の、最前線の砦の役割をしているのだからまあ大目に見てくれ、と言っていたんです。実際に朝鮮動乱ではいわれなき人たちがたくさん殺されたじゃないか。ああいうことがいつ起きてもおかしくない部分を日本に担わせているんだと。


 それが一九九一年ソ連崩壊ですっかりなくなった。そのことを日本人が意識しない限り、二十一世紀はどうあるべきかなどという方程式が発見できるはずがありません。これから来るのはどういう世の中かといえば、アサヒビールが苦しい時から立ち上がって気づいた、お客さま本位の世の中なんです。世界をみたらそうでした。自由競争が激しければ、自然にそうなるものなんですよ。


 日本が異常だったことが、アサヒビールが助かった理由でもありました。当時のアサヒビールのように、シェアが最も小さい企業のことを限界企業と言います。つまり価格決定の機能の最も弱い会社ということです。その会社がしばしば値上げできたのは、国が守っていたからです。国税庁が協力指導してくれたのです。値上げのタイミングがきたぞ、問屋が苦しがっているぞと、問屋の立場までみてくれる。異様なことですが、国民は誰も不思議に思わない。冷戦構造がゆえに、日本は防波堤だから崩ししちゃいかん、早く達者になってもらわなきゃいかんというアメリカの希望もあったのでしょうが、限界企業であるアサヒが真っ先に値上げが出来るような味代にどん底だったことは、アサヒビールにも命運があったということです。ビール会社ばかりでなく国全体がそうでした。それが今、世界と同じ海に出てきたから荒波にもまれて大きく揺らいでいる。それを深く考えないで、バブルの崩壊でこうなった、又あの景気が来ないかなと思っている。あんな時はもう二度と来るはずはありません。これをパラダイムシフトと言うんです。


 アサヒビールは、時の縁運にも恵まれていたことをしみじみ感じます。



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