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トピックス -企業家倶楽部

2015年05月28日

特約店の幸せのために!大決起集会で生まれ変わり宣言/アサヒビール名誉顧問 元アサヒビール代表取締役副社長 中條高徳 

企業家倶楽部2001年4月号 アサヒビール奇跡の真実 vol.11


いよいよ営業本部長として夢を実現する日を迎える。何よりも必要なのは信念と、組織を一つにまとめあげるベクトルづくり。「コク・キレ」を掲げた大阪での「アサヒ生ビール」の発表会は、山本社長の命日だった。

 



中條高徳(なかじょう・たかのり)

1927年、長野県生まれ、72歳。陸軍士官学校に学んだ後、52年、学習院大学文政学部卒業、同年アサヒビール入社。82年、常務営業本部長に就任。アサヒビール生まれ変わり作戦を企画立案、実施の指揮を執る。88年、代表取締役副社長、90年アサヒビール飲料代表取締役会長就任。96年アサヒビール特別顧問。98年アサヒビール名誉顧問。98年5月、朝日ソーラー販売の経営顧問に就任する。

*中條高徳氏は2014年12月24日、87歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。



アサヒビールの暗黒時代

 私は一九七六(昭和五一)年から五年間、大阪支店長を務めました。当時のアサヒのトップ、延命直松社長は、住友銀行から派遣された社長の中でもっとも苦労し、もっとも報いの少なかった人でした。

 十全会による株の買い占め事件をはじめ、悪いことが次々と起きた時期でもあります。ある日、四国支店の松分支店長が突如クビになりました。松分君は私より年下でしたが、職歴では一年先輩。早稲田大学ラグビー部のキャプテンだった、非常にいい男でした。私は彼に女性の問題でもあったのかと問いただしたくらい、不自然な人事でした。

 ビール業界は専売制で、四国の特約店はとくにアサヒビールを自分の会社のように思う情の篤い人たちだから、容赦なく経営トップに文句を言うのが常でした。銀行の仕組みで物事を見る延命さんはそれを「抵抗」ととらえたのでしょう。そんな反乱軍をそのままにしているのは支店長の責任であるとして、松分支店長をクビにしたのです。

 松分君は後に、復帰して副社長まで務めましたが、こういう調子でしたから、全国の特約店は銀行派遣の延命体制に対して反対の狼煙を上げ、排斥運動にまで発展しそうになりました。名古屋の大手特約店、山泉(現イズミック)はソニーの盛田さんの生家としてご存知の方も多いでしょう。そうした大手特約店も離れると言い出したのです。アサヒビールは揺れていました。

 八一年はアサヒビールにとってまさに暗黒時代でした。大阪支店長でありながら、会社を背負っている自覚を持つ私は、延命さんに営業本部と生産本部をつくる仕組みを提案し、採用されたものこの年です。住友銀行からアサヒビールの営業本部長として佐藤芳二さんを迎え、私がサポートに回るため、営業副本部長となりました。

 佐藤さんは住友銀行銀座支店の支店長を務めた人で、非常にいい人でしたが残念ながら、程なく病気になったため、八二年私が営業本部長となりました。



四百四十人の人員整理


 どん底から這い上がる過程に入る前に、忘れてはならないことがあります。それは八一年に行った四百四十人もの人員整理です。この課題を中心になって推し進めたのが取締役人事部長の渡辺格さんでした。彼はその著書の中で、心を残しながら去っていった四百三十九名、人員整理による固定費削減がなければ会社は消滅していただろうし、いわんや今日の隆昌もなかっただろうと言っています。

 これほどの大きな決断は論理で片づけられませんでした。なぜ四百四十人だったのか、本当のところは合理的な説明ができるようなものではないのです。

 私の頭から四四(死屍)という数字が離れませんでした。しかし三千人の会社が四十四人のクビを切ったところで、そんなに変わらない。やるときは思い切ってやらなければいけないのは、兵法の原則です。そこで単位を一つ上げると四四〇。「死屍(しし)ゼロ」になる、と思ったのです。何ら合理性はない、祈りといってもいい話です。「神のつぶやき」と私は呼んでいるのですが、指揮官というのは信念なんです。今の日本で信念と言うと、古い表現のように思われますが、経営者に必要なのはこれです。「一つの信念は百の知識を撃倒する」のです。

 渡辺さんは四百三十九名の解雇を労働組合に提案すると、予測したよりも素直に受け入れられました。そして経営側の一人として自身が四四〇番目となり、会社を去っていったのです。この人たちは後にアサヒビールが復活してから全員、元に戻しました。戻れない年輩者は、子どもや親戚を採用して償いをしています。渡辺さんも後にニッカウヰスキーの副社長になっています。

 また東京・吾妻橋の工場用地も売却(後に三分の一を買い戻して新社屋を建設)しました。これらの犠牲によって、立ち上がりの資金を捻出したのです。


四百四十人の人員整理

百周年に向けて志を立てる

 八二年営業本部長になったことで、いよいよ長年主張してきた生ビール戦略を実現できる立場になりました。その時点では、生を基本路線にするという社内コンセンサスは全然できていませんでした。「生」のベクトルが合っていなかったのです。

 勝たなければ生きていけない。そのための夢づくりをどうしよう、と考えました。頭に浮かんだのは百周年事業のことです。

 一八八九(明治二十二)年、大阪府吹田で生まれたアサヒビールの記念すべき百周年を祝う日が一九八九(昭和六十四)年にやってくる。この記念すべき日までに社員も、お客様も、取引先も、みんなが幸せになれるようにしようと思ったのです。

 百周年に向かって何をするか。アサヒビールが売れないために、誰が迷惑を受けたのか。社員も辛い思いをしたが、もっと苦しんだ人たちがいました。

 アサヒビールはこの三十年余の間にシェア三六・一%から九・六%に落ちたけれど、社員には先輩たちが蓄積してくれた不動産などの資産があったから、それを処分して給料の遅配もなく生きてこれました。しかし特約店はそうはいかない。アサヒと縁結びしたばかりに力のない特約店は悲鳴を上げながら倒れていったのです。

 東京では「いらないビール」と言われ、「お前が勧めるのは、自分が儲かるからだろう」などと罵詈雑言を受けながらもアサヒビールをひたむきに売ってくれた特約店、酒屋、料飲店の人たちを、このまま見捨ててもいいのか。われわれは今立ち上がり、百周年を迎える一九八九年までに、この人たちに幸せになってもらおう、という夢づくりをしたのです。

 もちろん自分たちも幸せになりたいけれど、「俺たちが幸せになろうよ」では迫力が足りない。訴えに力がこもらないのです。「誰々を幸せにするために立ち上がろう」と「他利」のため、ましてやご厄介になったお得意さんの幸せのためと訴えた方がはるかに力が出てきます。世間の人たちの共感も呼びます。そして百周年をめざしての立ち上がりですから「ニューセンチュリー計画」と名づけたのです。

 これが、志を立てる経営です。自分たちが幸せになろうと説くのでは、エネルギーの集約はできない。人様のために命さえ賭けるというぐらいの方が士気が高まり、まとめやすいのです。



三千名のベクトルを一つに


 三千名を超える大部隊ですから、夢の実現のためにベクトルを合わせる必要があります。幹部だけで決めた方が早く簡単ですが、組織というのは巻き込みをしなくてはいけない。中間管理層を選び出し、あえて時間をかけて売上設計の五カ年計画を立てさせました。一番大事なのは幸せを求める旗作り、「夢」すなわち経営理念です。これを実施するための行動の指針、行動規範。これらを作らせ、すぐさま経営会議にかけて磨き、全国に伝えて、毎朝大きな声で唱えさせました。

 負け戦続きで社員の腰は引けています。しかし大きな声を出すことは、自分を励まし、隣も励ます。欲求不満の解消にもなる。しかもコストはゼロ。うちの会社が何か始めた、何か変わってきた、とみんなが気づき始める。この気づきが極めて大切なように思います。

 一生に一度の戦という覚悟でした。すでにシェアは九・六%。失敗したら音をたてて崩れることは誰にでもわかるところまで来ていたのです。


三千名のベクトルを一つに

世界中を回って最高のビールをつくれ!

 どこの会社でも造る側と売る側、製造と販売の二部門を持っていれば、必ず起きる現象があります。それは「実りなき他責の打ち合い」です。営業側は「ビールが売れないのは生産の腕が悪いせいだ」と言い、生産側は「営業の努力が足りない」と言う。私は部下たちに「他責の場を最もしたたかに所有している人種」と定義してあげました。

 製造の連中は、真面目に造っているのに売れない、飲んでくれないと言うのです。一体、どこが悪いのか……。

 アサヒビールは当時、盛んに合理化運動をしていました。。強と書いてマル強運動と呼んでいました。電気を消せ、無駄な水は使うな、報告書は一枚にせよ(ワンペーパー運動)などです。

 生産部でも原料の節約を口やかましく言っていました。しかし、普通上司が「原料を節約しなさい」と言う場合、お客様が許すギリギリの線を発見して、そこまで節約しなさい、と言っているに違いないんです。ところがサラリーマンというものは自分の身を守ろうとする習性がありますから、「上司の命令なんだから」と、大事なお客様に背中を向けて原料節約の命令をした上司の方を向いて行動するものなのです。

「アサヒビールに対する信頼度調査」を実施したところ、販売員よりも製造する技術者の方が点数が低いことがわかりました。これは二通りに解釈できます。①に日本人特有の謙虚さ。高価な品を贈呈する時も「粗末なものですが」と表現する習性②製造する者のみが知る秘密。

 公式の場で、生産本部の技術者たちに①、②のどちらに原因があるかと尋ねると、答えはいずれも①謙虚さに基づく評価の低さと主張して譲りません。このとき主力工場である吹田工場長を歴任した夜久亢宥さんと、含み益を活用するために吸収したエビオス社の社長であった佐竹憲ニさんの二人が営業本部に配属されていたことが天佑でした。この二人に営業本部の会議でこの件を報告すると、二人が揃って叫ぶように言うのです。「とんでもない、理由は明らかに②で原料問題にある」と。

 私はすぐ生産本部と営業本部から若い社員を選び、徹底討論を命じました。明言はしないものの彼らは最初から、評価の低い原因は原料節約にあると考えていたように見えました。営業部門が激しい商戦を口実に販売経費を大量に使っていたため、技術陣に切ない思いをさせていたのかと私は慄然とし、申し訳ない気持ちに駆られたものでした。

 そしてアサヒビールは採算性放棄宣言をしたのです。この二人の存在は神の配材と言いたいくらいです。ビールづくりを徹底するために、ややもすると保守的になりがちの技術部門に堂々とものを言える人材として大阪支店にいた松井康雄君を営業本部に迎え入れたのです。彼はよくその期待に応えて活躍しました。

「好きな原材料を好きなだけ、世界中めぐって買ってきて、最高のビールをつくれ」と言って、技術者を言い訳ができない状況に追いやったのです。

 そこから変わりました。生産部はまず五千人を対象にした味覚調査をしました。お客さんの味覚の動向を聞かなければ、いてもたってもいられなくなったのです。

 調査の結果を見ると消費者はコクのあるビールを望んでいる。しかも、その反対の概念であるキレのあるビールもほしいという。この結果を受けて社内では今までにない現象が起きました。

「これがコクがあってキレがあるという要望にフィットしたビールだと思うが、よりお客さんと一緒に飲んでいる営業の諸君、試飲してくれないか」と技術者たちが営業マンたちにテイスティングを依頼してきたのです。

 これまでにあり得ないことでした。しかし責任をなすりつけることができなくなったから真剣です。営業も、自分の舌や喉で参加したものをお客さんが評価してくれなかったら、即自分たちの責任につながりますから真剣です。この瞬間からアサヒの品質については営業部門も製造部門と一緒に担っているんだという気構えに変わった。お客さんの求めるビールを造ろうという意識、マーケット・インの開発精神に目覚めたのです。

 同時進行したのがCI、コーポレート・アイデンティティです。これも戦を仕掛ける時、ベクトルを合わせるための手段の一つでした。

 当時、アサヒのマークは波の上に朝日が顔を出しているめでたい図柄でした。それを全国の意識調査にかけてみたら、「負けた海軍の軍艦旗のようだ」「滅び行く平家の御旗のようだ」という恐ろしい結果が出たのです。そんなイメージのものをバッジや商標に使っていたのではマイナスにこそなれ、プラスにはならない。「勝つ」ために色彩学まで学びました。最も好感度が高く、見えやすいカラーは「ホワイト」「ブルー」「レッド」の三色と教わりました。そこで作ったのが、青、赤、白で爽やかさを訴える現在のマークでした。日本デザインセンターの作品です。


世界中を回って最高のビールをつくれ!

「コク・キレ」で宣戦布告


 こうして作戦準備を行って、一九八六年一月、アサヒビールは新「アサヒ生ビール」を完成させ、CI導入を発表して本格的な戦いの日を迎えました。一月二十三日には東京、二十四日は大阪で、全営業マンを集めての「決起大会」です。

 東ブロックは都市センターホールで、私は営業の最高責任者として壇上に立ち、「宣戦布告」を宣言しました。ところがそのとき、何気なく会場を見渡すと、居眠りしている社員が六人ほど目に入ったのです。

 今でも名前を挙げられます。前日、飲食店の開拓にでも行って眠かったのかもしれませんが、私は情けなくなりました。よほど立ち上がらせようかと思いましたが、咄嗟に、ここで彼らに恥をかかせたら六人の戦力がなくなる、と思ったのです。そして瞬間的にこれを活用させてもらおうと思い、「全員立て!」と叫んだのです。

「この中に居眠りをしている者がいる。こんな状態では、絶対に勝てない。これはまだ全員が本気になって燃え上がっていない証拠だ。全員心の目を覚まして立ち上がろう。生ビールなら必ず勝てる!」

 決起集会は一瞬にして引き締まりました。後日、居眠りしていた社員に会ったとき「君が眠っていたおかげで全員を緊張させることができたよ。ありがとう」と言ったものです。

 その年はまた、かつて隆盛を誇ったサントリー・オールドが一気に凋落した年でした。西ブロックの集会は、山本為三郎社長が苦労して造ったロイヤルホテルで行い、「サントリー・オールドの崩れは山本社長の怨念がもたらしてくれたものだ。この絶好の機会に勝たなければ恥だ!」と檄を飛ばしました。アサヒビールの関係者でなければ「中條は気が狂ったのではないか」と思われるような発言でしたが、苦労してきたうちの営業マンたちには容易にわかる話だったと思います。集会は神が乗り移ったような熱気にあふれました。

「コク・キレ」を謳ったアサヒ生ビールが対外的に公表されたのは二月三日のことです。前日から村井勉社長はわれわれ役員たちを連れ、全国五ブロックで特約店会を開催し、新しいビールのお披露目をしました。大阪は二月四日、ロイヤルホテル。他の誰に言うでもなく、私は山本為三郎の命日を選んでいたのです。私たちは必ず生まれ変わってみせますから、アサヒビールを応援してくださいという一念を、この特約店会に集中させようと考えたのです。当日、山本社長の二十回忌にあたると気づく人が現れると、会場は一段と引き締まっていきました。

 八六年に生まれた新しいアサヒ生ビールには、消費者が指摘した通りの言葉をそのまま使い、「コク・キレ」とネーミングしました。広告にはジャンボ尾崎、青木功を起用しました。これにはそうせざるを得ないハプニングがありました。春先用として大橋巨泉を「コク」、ビートたけしを「キレ」にして作ってあったのですが、寸前、たけしが講談社に殴りこんだので、夏篇のジャンボ尾崎、青木功を急きょ起用したのです。

 その結果、世界の権威「ハーバード大学」や「ノースウェスタン大学」でも勝ち目がなしと言われていたアサヒビールが、その年全ビールの伸長率の三・八倍の成績を頂き、世間をあっと言わせたのです。これがアサヒビール蘇りの第一ページでした。



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