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トピックス -企業家倶楽部

2015年06月04日

“外人部隊”の功罪/ アサヒビール名誉顧問 中條高徳

企業家倶楽部2001年8月号 アサヒビール奇跡の真実 vol.13 最終回


1986年、住友銀行から来た樋口廣太郎氏が社長に就任。村井勉社長から「住友からはもう社長は来ない。次の社長は君だ」と言われていた筆者にとっては晴天の霹靂だった。樋口社長との間がぎくしゃくしたこともあったが、以前靖国神社で祈ったとき「お前に会社内で偉くなりたいという思いがあるならば、お前は半歩先も見えないだろう」という神の声を聞いたことを思い出した。樋口社長は失敗もしたが、勢いに乗じた拡張路線で手腕を発揮した。そして、創立100周年。「よくやってくれた」と多くの特約店の人たちが泣いた。アサヒの日本一は本当は奇跡でも何でもない。やる気になれば、誰でも勝てる時代が来たということなのである。



中條高徳(なかじょう・たかのり)

1927年、長野県生まれ、72歳。陸軍士官学校に学んだ後、52年、学習院大学文政学部卒業、同年アサヒビール入社。82年、常務営業本部長に就任。アサヒビール生まれ変わり作戦を企画立案、実施の指揮を執る。88年、代表取締役副社長、90年アサヒビール飲料代表取締役会長就任。96年アサヒビール特別顧問。98年アサヒビール名誉顧問。98年5月、朝日ソーラー販売の経営顧問に就任する。

*中條高徳氏は2014年12月24日、87歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。



ドライ戦争終焉

 アサヒビールが奇跡を起こした「スーパードライ」と、それに続く他社とのいわゆる「ドライ戦争」は、マスコミにも大々的に報じられ、社会現象になっていきました。

 それまでのビール業界の常識から考えて、大手他社は「二、三年もすればすぐにアサヒに追いつくだろう」と当初はたかをくくっていたと思います。しかしながら今度の「スーパードライ」のヒットはそれまでとはどうも波長が違う。同じような「ドライ」ビールを作ったり、世間が騒げば騒ぐほど、先発のアサヒがより有利になることが明らかになっていったのです。やがて他社はドライ戦争から撤退していきました。これは戦後他社から引き離され続けてきたアサヒが初めて業界内で主動の地位をとった瞬間でした。「主動の位置」という課題は勝つための条理として兵法の中で常に説いている重要テーマです。

 この勝利は、昭和三十九年に「アサヒスタイニー」として、他者のラガーに対し、「生」で勝負を始めたという礎があったからこそ得られたものなのです。決して突然「スーパードライ」が出現したわけではありません。

「事の成るは『成る日に成る』にあらず」

「事の敗るるは『敗るる日に敗るる』にあらず」という格言があります。成功も失敗も、その過去に深い原因があるものです。努力を積み重ねていけばやがては勝つ日がくるという教訓だと思います。

 そもそもそれまでの大手各社のビールは、業界のプロがブラインドテスト(利き酒)をしてもしょうちゅう間違えるほど、各社同じような味でした。そういうビールのままでは、強者に勝てるわけはありません。アサヒは消費者主導、マーケットインの信念により「キレ」の強い今までとは違ったビールを造ったからこそ成功したのです。

 いずれにせよ「ドライ戦争」は、スーパードライの登場がいかに衝撃的なことだったかを物語る事件でした。



アサヒ“Z”の失敗


 スーパードライのヒットの後、マーケット味覚調査で出てくる意見は「もっとキレのあるビールを」という意見でした。それをうけてさらに「キレ」を追求したビールが「アサヒゼット」でした。しかしこれはたった二年で撤退することになりました。

 生産者として、味覚動向調査のための試験的発売ならば良かったと思います。スーパードライが永久に売れ続けると思い込むのは確かに慢心、謙虚さが足りません。しかし、ゼットの販売戦略はそうではなかったんです。

 トップはスーパードライとシェアを奪い合っても良いという指揮をとりましたが、それは間違いでした。「スーパードライ」は当時一億ケースも売れている商品です。ゼットの販売戦略は、スーパードライを飲んでくれている何千万というお客様に「間違っている」と反逆する行為に等しかったのです。

 経営というのは、よほど謙虚でないとだめです。いつのまにか消費者に背を向け、プロダクトアウトの発想に戻っていました。

 ゼットは二年で撤退しました。その後、プロパーの社長になってからスーパードライ一本に販売体制を強化すると、アサヒはまた好調を取り戻しましたが、ゼットの失敗経験は、マーケット戦略の重要性を認識させる良い教訓となりました。


アサヒ“Z”の失敗

樋口社長就任


 樋口社長就任


 樋口廣太郎さんが住友銀行からアサヒビールにやってきたのは、スーパードライを発売する少し前、一九八六年でした。

「コク・キレ」ビールを発売し、われわれが創立百周年をめざして挑戦を始めた年です。村井勉社長は社長の座を樋口廣太郎顧問(住友銀行副頭取)に譲りました。




 樋口氏の就任はまさに晴天の霹靂でした。当時の社長だった村井勉さん本人が「もう住友銀行から社長は来ない、次の社長は君だ」と言っていましたから。下関の特約店の加地社長は、もう住友銀行から社長は来ないと聞いていたのにアサヒは嘘をついたと、批難の手紙を書いてきたほどです。その事で私と樋口さんの関係がぎくしゃくしたこともありました。

 強烈に反対して樋口さんがアサヒに来るのを拒否することもできたのかもしれない。しかしわれわれの目標は敵に勝つことです。内輪もめしている場合ではありませんでした。

 時代がバブルだったこともあって、樋口さんはゴルフ場や絵画にどんどん手を出していきました。おまえ達プロパーは本業のビールにかかれ、銀行や大蔵から来ている外人部隊(ご本人がそう呼んでいました)が不動産や資産づくりをやると、はっきり言っておられました。

 住銀から派遣されてきた方を窓口にしてのゴルフ場の会員権の買い集めは私たちの想像をはるかに超えていました。当時は名簿も発行されるゴルフ場もかなりありましたから隠すことは出来ません。これには私も反対しました。二〇〇一年三月期、アサヒビールは赤字を出しましたが、それは当時の膿を排出したからです。福地茂雄現社長はマスコミに責められていますが、その事を理解してもらいたいものです。

 そうはいっても、樋口さんがいなければアサヒビールがこれだけの拡大を成し遂げることもまずはなかったと思います。ビール業界は保守的なので、私が社長をやっていたとしてもできなかったでしょう。生意気な仮説を立てれば、スーパードライの急拡大に見合う設備投資の拡大は絶対出来なかったと思います。彼本来の性格なのか、住友で身についたものなのかはわかりませんが、彼でなければ勢いに乗じた拡張路線にあれだけのお金を投入することはできなかったでしょう。



神の声が聞こえた


 私が一九八二年に営業本部長に就いた時の出来事が思い出されます。当時アサヒビールのシェアは九・六%に転落、最悪の時期でした。私の足はおのずと靖国神社に向かっていました。そして靖国の神々に向かって祈りました。「どんな努力もいといません。ただ、その努力が会社の成功というベクトルに向かっているかどうかだけでも教えてください」と問いかけたのです。すると神の声があったのです。「お前自身が会社内で偉くなりたいなどというさもしい思いがあるならば、お前は半歩先も見えないだろう」と。

 自分自身の希望や思いを自分に言い聞かせるだけでは揺らいでしまう。だからこそ神仏が自分に代わって言ってもらったという、自己の精神作用なのかもしれません。

 いずれにせよ、この言葉を聞き、出世という欲を捨てた瞬間、ものすごく気が楽になりました。そもそも私は軍人で一生を終える人間だと思っていました。本当は軍人なんだから、いつだってサラリーマンとしての身分は捨てられる心境にいるんです。上司に楯突くのも厭いません。サラリーマンがそういう心境になったら精神的に本当に楽になりますよ。


 神の声が聞こえた

副社長、そしてアサヒビール飲料会長へ

 樋口さんが社長に就任した一九八七年の三月、村井さんが退任される時に、私も村井さんと一緒に辞めると言ったんです。村井社長と苦楽を共にして営業本部長という参謀の役割を務めてきた私は当然、行動を共にすべきと判断したのです。

 しかし村井さんには「君にはこの立ち上がりの成果を見届ける責任がある。それに社長と営業のトップである君が争っていて一番困るのは社員だろう?部下に迷惑をかけるな」と言われ、九月までその任にあたることを命ぜられました。

 その年アサヒビールは見事に蘇りました。この確かな足どりを見て、村井、樋口両氏から営業本部長の後継の推薦を求められました。私は躊躇なく瀬戸雄三君を指名しました。彼はソフトな人柄で外人部隊の方々ともうまくやっていける男ですし、それでいてなかなか芯のあるセンスのいい営業感覚の持ち主でした。

 その後、八八年二月から副社長を務め、副社長時代にも辞表を提出しました。樋口さんは受け取りませんでした。村井会長と私の後任瀬戸副社長が止め男になり、説得されました。村井さんは例の明るい表情で「いつまで陸士的な生き方をしているんだ。信州人は理屈っぽいな。トップとセカンドがトラブっているとマスコミの餌食になるよ。それよりも、君が一番気にしている部下に一番迷惑がかかる。部下がさまよってしまうよ」と言われました。

 私は人生の師と仰ぐ瀬島龍三氏にもすべてを打ち明け、身の処し方をご教示願いました。すると、村井さんとまったく同じ意見でしたので、お二人の先輩の助言に従うことにしました。

 私はアサヒビール飲料の会長に就任することになりました。アサヒビール飲料はアサヒビールの一〇〇%子会社です。やはりプライドもありましたから、事実上の業務執行責任者である社長であれば、親会社の社長と業務上の打ち合わせも密でなければならない。意地と意地の突っ張り合いのような二人では部下に迷惑がかかるので、社長は断り、報告義務のない会長に就任することになったのです。


副社長、そしてアサヒビール飲料会長へ

みんなが泣いた創立百周年の日

 一九八九年、アサヒビールは創業百周年を迎えました。再生の立ち上がりは八六年でしたが、この百周年を目指してよみがえろうと努力したようなものです。それまで、アサヒビールを売るがゆえに不幸になっていた特約店、酒屋さん、飲食店の皆さんに幸せになってもらおう、翻って消費者に幸せになってもらおう、その思いが実を結んだ時でした。マーケット・インの姿勢でつかんだ勝利でした。式典では、特約店の人たちは「よくぞやってくれた」とみんな泣いていましたよ。

 百周年の記念事業として、東京・墨田区の吾妻橋のほとりに新しい本社ビルを建てました。

 ビルの高さは百周年ということで百メートル、「生」でよみがえりを果たしたということでビル全体の外観をジョッキに注がれた生ビールの形にかたどりました。話題に上ったのは本社ビルの隣のアサヒスーパードライホールです。ちなみにその土地は明治三十六年からの城であった吾妻橋工場を墨田区役所に売却したとき、あまりに悔しいので、ビヤホール部門五百五十坪だけを手許に残していたものでした。

 フランスのスタルクというデザイナーに、アサヒビールの永遠のテーマである「謙虚と感謝」をモチーフにしたオブジェを制作するよう頼んだところ出来たのが、ビルの上部におかれた炎のオブジェです。当初はオブジェを垂直に立てようと考えていたようですが、三百五十トンというあまりの重さのため、横に寝かせざるを得なくなりました。おかげさまで、皆様には「ウンコビル」という愛称を頂くことになりました。

 成績がどん底の時は人の気持ちがよくわかります。それまで、ほとんど見つめてもらうこともなかったアサヒビールでした。そんな状態で戦う惨めさ、苦しさ、切なさが身に染みています。「ウンコのよう」と言ってくれるのは見つめてくれた証です。ありがとうと心の中で叫んだものです。


みんなが泣いた創立百周年の日

やる気になれば誰でも勝てる

おかげさまでアサヒは昨年、シェア四六・七%と、日本一の座を揺るぎないものにすることができました。

 人は「アサヒの奇跡」と呼びますが、奇跡でも何でもありません。へなちょこアサヒでもできたのです。やる気になれば勝てる時代が到来したのです。最後になりましたが、これだけは強調しておきたいと思います。

 これ以上筆を進めるとあまりにも生々しく、人を傷つけたり迷惑をかけたりするかもしれず、どうしてもこれ以上筆を進める気にはなれません。一応、この物語はこれで筆をおくことにし、しかるべき時期を待ちたいと思います。その時までお別れです。長い間、ご愛読ありがとうございました。



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