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トピックス -企業家倶楽部

2015年07月07日

終わりなきモノづくりへの挑戦/島精機製作所を支えるスタッフ

企業家倶楽部2015年8月号 島精機製作所特集第4部 


 「限りなき前進」を掲げ、終わりなきモノづくりに挑戦し続ける島精機。「失敗は許す。しかし、妥協は絶対に許さない」。誰もが師と慕う島正博の魂は現場のスタッフにも脈々と受け継がれている。彼らはいかにして革新的な製品を生み出してきたのか。島精機のモノづくりにかける想いに迫る。(文中敬称略)



「現状」に甘んじず業界にイノベーションを起こす


「現状」に甘んじず業界にイノベーションを起こす


取締役副社長 島三博


 和歌山が誇る有名企業社長の御子息が、勝手に家を飛び出したあげく、親に連絡もせず独断で就職・結婚までしたと聞けば、「どこぞの信長か」と誰もが思うだろう。しかし真実は小説より奇なり。この破天荒な男こそ今や島精機で副社長を務める島三博だ。

 三博は、東京の大学を卒業。父である島正博には「和歌山に帰って来い」と言われたが、若い頃に田舎に帰ることに反発、いよいよ家を飛び出した。学生時代からコンピュータを自作するなどハードウェアには元から興味があった三博。当時はウィンドウズもない時代だったが、「これからソフトの時代だ」と考え、ソフト開発を手がける会社に就職。父には相談無しでの決断だったので勘当された。

 仕事を始めてから2年ほど経った頃、「興信所の人が訪ねて来て見つかった」という。島精機はその時25周年の節目を迎え、東京支店の設立が計画されていた。父正博は田舎に戻らない息子を見かねて、「そこまで和歌山に帰って来たくないなら東京支店に行くのはどうだ」と提案、三博もそれを受け、晴れて島精機に入社する運びとなった。

 東京支店の立ち上げ当初は支店長と事務員、そして三博の3人だけで、新顧客開拓の営業全般と東京近郊顧客のメンテナンスを担当していた。その経験から、「顧客には、機械自体の性能や効率ではなく、それを使って何を作るかを深く考えてほしい」と説く三博。「顧客からどのようなアイデアが来ようと具現化できる機械が島精機にはある」と自社の強みを語る。

 顧客は、ファストファッションを手がける企業からヨーロッパの名だたるブランドまで幅広く、海外展開も11カ国に拠点を持つまでになった。自社の経営は順風満帆だ。しかし三博は、「日本のアパレル業界にはもっとイノベーションが必要。今は無駄が多すぎる」と訴える。

 現在、世界では約9000万トンの糸が作られ、その45%がアパレル商品に使用されている。従来の編機のように、反物から切り出して服を作った場合、原料の30%を捨てることになるが、島精機の主力製品である横編機は反物を必要とせず、糸からそのまま服を編む仕組みだ。結果、これまで捨てられていた糸の無駄がなくなり、環境負荷を低減できる。三博は、「まだまだ島精機の横編機には伸びしろがある。それを利用してアパレル業界に新しい価値観を根付かせることが島精機の使命だ」と意欲を見せ、それに伴う変化に対しても常に積極的だ。

 三博は、父親であり上司でもある正博を、「頑固だが同時に柔軟な発想を持っている」と称する。「何を言い出すか分からない。目の付け所が私たち凡人とは違います」

 奇想天外な発想を持つ正博をあらわすエピソードがある。正博が妻の和代と結婚して間もない頃、2人はトタン屋根の家に住んでいた。「そこで父が母に『俺と結婚したら自動ドアの家に住ませてやる』と言ったらしいんです」。正博はその頃から自動化が好きで、家庭でもその片鱗を見せていたという。

 そんな父に対して三博は、「とにかく変な人であって欲しい。社長がそうあることで、普通に甘んじない企業文化が生まれる」と、父に現役で居続けて欲しいと望む。近々自身が会社を引き継ぐことも見据え、「50年後、技術以外のところで何が残るかを常に意識していく。横編機を捨て去るくらいの発想が出来るほど柔軟に考え、現状に固執はしない」と、力強く抱負を語った。



執念を持って自分の道をまっすぐ進む


執念を持って自分の道をまっすぐ進む


常務取締役 生産本部長 和田 隆


「高校の担任にはこっぴどく叱られました」

 現在島精機で生産本部長を務める和田隆は、既に決まっていた内定先を辞退した当時の様子をそう回顧する。1966年に島精機への入社を決めた時、周囲は大反対だった。何しろ同社は社員100名ほどの町工場。決して安定しているとは言えない状態だったからだ。しかし先輩からの勧めや、地元和歌山で就職したいという気持ちが和田の背中を後押しした。

 和田は昼夜を問わずひたむきに働いた。時代は高度成長期真っ只中、生産すればするほど売れる時代だ。そんな中、島精機は全自動衿編機FACを開発する。この製品は従来の3倍のスピードで生産することができ、和田はその性能に大いに魅力を感じた。あまりの感動に上司に直談判をしたところ、遂にこの衿編機の担当を任されることになる。

 しばらく経ち、和田はこの発明をもっと大々的に世に広めたいと考え始めた。市場に打って出ることを提案し、同僚たちと共に、自らの足で営業して回った。「会社にとっても、私にとっても、この衿編機は原点」と和田は振り返る。しかし当時はマニュアルもない時代。和田は試行錯誤を繰り返した。「今はインターネットで容易に情報を手に入れることができるが、知識として定着させるのは難しい。一方、何度も失敗を繰り返し、手で覚えたことは忘れない」と語る和田の言葉からは、島精機に今も脈々と受け継がれる「とにかくやってみよう」というチャレンジ精神が伺える。

 当時の島を振り返ると、プレハブ小屋の一角で忙しそうに一生懸命図面を引いていた姿が浮かぶという和田。とにかく忙しく、まともに顔を合わす暇もなかったという。

 穴を開ける作業一つを取っても、現在は全自動の機械で簡単にできてしまうが、当時はすべて人の手で行われていた。骨の折れる工程だが、和田はその苦労が今も島精機のモノづくり精神に活きていると断言する。

「むしろアナログだからこそできることもある。やはり人間はコンピュータ以上に柔軟です」

 機械を導入するなどして経営の効率化を図り、コストだけを重視した結果、最終的に事業撤退に追い込まれる企業は少なくない。地元和歌山での生産にこだわっていた島精機も、円高の煽りを受けて、一時期中国に拠点を移すか否かという苦渋の決断を迫られたことがある。しかし島精機は今まで培ってきた大切なノウハウを盗られてしまうという懸念、そして品質の低下に対する危惧から、あくまでも自社での生産にこだわった。

「初期投資は中国で生産するよりも高く付くが、うちの製品は上質で丈夫、かつ安定して生産することができる」と和田は設計から生産までを自社で一括して行っている島精機の強みを誇らしげに語る。質はもとより、スピードが最も重要視されるようになった現代でも、このシステムによって顧客のニーズにしっかりと応えることができる。

「社長は失敗に対しては寛容。だが、無理だという表情を見せるとたちまち怒り出す。信念を超えた、執念の人。できる・できないではなく、とにかくやってみようという信条がある」と和田は島の経営に対する姿勢をこのように評す。周りからは頑固に見られることもあるが、それは一度決めたら最後までやり通す、ぶれない心を持っているからに他ならない。人の意見に惑わされることなく、自分の考えを押し進める強さがあるのだ。

「80歳まであと2年。しかし社長は、いつまでも若々しい少年の頃の夢に生きている。健康に気をつけて、いつまでも夢とロマンを追い続けてほしい」



生まれ変わっても島について行きたい


生まれ変わっても島について行きたい


常務取締役 開発本部長 有北礼治


「島精機が一番いいんじゃないか」

 開発本部長を務める有北礼治が高校卒業後の進路を決めたのは、社長の島をよく知る担任からの一言がきっかけだった。島精機一筋44年。大学進学が盛んになり始めた中で、和歌山工業高校への進学を決めたその時から、機械の設計や開発に携わることを夢見ていた。

 大きな転機となったのは入社から1年半後、当時島精機の開発を一手に担っていた島アイデアセンターから応援依頼がきた時のことだ。そちらに移った有北は、図面の作成や、試作品を量産するための工具を設計する仕事を任された。

「図面を書く仕事を担い、夢が叶った喜びがあった」と当時を振り返る有北。当初は助っ人という立場だったが、次第に応援に行く頻度が増え、正式に島アイデアセンターへ移ることとなった。

 異動後は、深夜1時、2時まで開発に明け暮れる日々。「開発には終わりが無い。常に自分を超えなければいけない」。新製品が出来たその瞬間から、また次の新製品を見据え走り出す。まさに会社の経営理念「限りなき前進」を体現している。

「昨日の物は古い、世の中にない物を作る」。社長の言葉を胸に、ホールガーメントなど他社には無い機械を生み出し、ニット編機で世界トップシェアを誇っている島精機。ユニクロ、H&M、ZARAからイタリアのハイブランドまであらゆるアパレル会社のニット編機を手がけている。ユニクロが低価格、高品質で世界に打って出られるのも島精機の製品があってこそだ。

 技術者として走り続けてきた有北は島から多くのことを学んだ。「相手を思いやって図面を書け」。開発へ異動となる際の面接で社長に言われた一言は、今でも胸に刻み込まれている。100cm、50mm といった、できるだけ区切りのいい数字で寸法を決め、綺麗に収める。今でこそ端数はコンピュータが処理してくれるものの、これはかつて、効率を上げるために不可欠な心掛けだった。

 相手を気遣う精神は島の振る舞いからも現れている。話をしている時、誰かが後から入ってくると島はまた最初から話し始める。プライベートでも常に周りを見て気を配る。有北へのアドバイスは日常的に島が実践してきたことだった。

 島と共に多くの壁を乗り越えてきた有北。中でも最後発だった裁断機への参入については苦労があった。製造業において、後発企業の宿命ともなるのが既存企業が作り上げた特許との戦いだ。膨大な特許を端から端まで確認し、弁護士に相談しながらなんとか活路を見出した。

 苦難を乗り越え、今や日本国内トップのシェアを誇っているが、その中でも社長の活躍には目を見張るものがあった。「社長は編機のことしか知らないだろう」と決めてかかっていた有北。島が今まで作り上げた編機と裁断機は到底同じものとは思えない。豊富なアイデアを持つ島も、何のノウハウも無い裁断機に関してはお手上げだと考えるのが自然だろう。しかし、自ら刃のストロークや回転数など改善点を次々と指摘していく島の姿を目の当たりにし、有北はただ脱帽した。

 全部自分で1から作り上げているからこそ、すべてオリジナルになる。たとえ編機だろうと裁断機だろうと何も変わらない。作っている機械の構造すべてが頭の中に入っているのだ。「ここまで成長できたのは社長のおかげ、生まれ変わってもまた社長の下で働きたい」と島を慕う有北は、「限りなき前進」を胸に、今現在も新製品の開発に日々邁進している。



島が拓き、薮田が作る


島が拓き、薮田が作る


ニットミュージアム館長 薮田正弘


 現在、島精機の歴史を伝えるニットミュージアムの館長として若手の育成に励んでいるのが薮田正弘だ。半生を編機に捧げてきた薮田にこそ適任の役である。

「全自動の手袋編機で日本一を目指す会社がある。行ってみないか」

 工業高校3年生だった薮田は教師の勧めに即応した。実は、早いうちから機械に興味があった薮田は島精機を訪れたことがあり、手動の手袋編機を見た時の感激は少年時代の良き思い出。そして何より、自分が高校生になるまでの数年間で手動だった機械が全自動に進化していたことに胸を躍らせた。

 早速、高校の夏休みにアルバイトのような形で働き始めた薮田。今でこそ1700人以上の社員を抱える同社だが、この時は従業員数がわずか30人ほどの町工場である。そんな中、炎天下に上半身裸姿でひときわ熱心に鋳型を加工している若者が目に留まった。先輩社員が「まーちゃん」と呼ぶと、「おう」と応えるが、こちらを意にも返さず作業に夢中になっている。この男こそ、社長の島正博であった。

 こうして出会った島と薮田。2人の仲は極めて親密で、島は新しいアイデアを思いつくと、「えへへ、こういう機械作ってくれんか」と笑いながら話を持ちかけてくる。設計から機械加工、顧客対応までをこなす薮田は、新しい発明に忙しい島にとって頼れる弟分。どんな困難な要求にも、「御意」と快諾してやり遂げるその姿勢が絶大な信頼を得た所以である。

 薮田の使命は「向こう三軒、両隣」。島が最初の一手となるような最先端の編機を発明すると、藪田がその周辺で応用できそうな技術を探し、役に立ちそうな特許を多数取得していく。この絶妙なコンビネーションで、常に他社とは一線を画す編機を作ることに成功したのだ。

「これで、ドヤ!」

 島はたびたび薮田に、これ見よがしに自分の作った編機を自慢した。一方、社員である薮田が第一級の製品を作ると、島は「おっ」と喜び感心する反面、「負けてたまるか!」と皆を驚かせるような発明に挑む。島が10歳も年上ではあったが、2人は技術者としてお互いに刺激し合う仲でもあったのである。

 怒ることなく優しい島であったが、手抜きには厳しい。「猿には毛が三本足らない。猿真似をするな」と口を尖らせる。三本の毛とは「みわけ―物事を正しく見分ける理解力」「なさけ―人を思う包容力」「やりとげ―最後まで全力を尽くす力」のことで、島はこの3つを心がけ、工夫を重ねることが大事だと説いた。

「社長は私が独自性に欠けるものを作ると黙り込んでしまいます。よその会社にはできないことをするのが島精機の強み。幾重にも趣向を凝らす社長ならどのように作るだろうか、と考え続けました」

 島の右腕として、大量の特許を会社に残した薮田は05年に現場から引退。「80年間、ありがとう」。退職する時に島が掛けた労いの言葉は人生最高の贈り物だ。

 高度経済成長期だった当時、薮田は夜遅くまで働き、毎月200時間もの残業で会社を支えた。薮田の働きは勤務時間と成果を考慮すれば、まさに80年分の大仕事に値すると言えよう。

「この時の言葉ほど嬉しかったことはありません。社長は寝ても覚めても島精機と編機のことばかり。退任される際には、150年分の大事業、お疲れ様でしたとお返しするのが楽しみです。社員も増えましたが、ミュージアムで後進たちに島社長の想いと歴史を伝えていきます」



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