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トピックス -企業家倶楽部

2015年07月10日

稀代の発明家/島正博の人的ネットワーク

企業家倶楽部2015年8月号 島精機製作所特集第5部 


 発明家。島正博を表すのにこれ以上ふさわしい言葉は無いだろう。彼をよく知る人物から次々と語られる逸話はどれも、未知なる機械を想像し、その実現に邁進する一人の男を描き出す。開発に情熱を注ぎ、多くの製品を生み出した今もなお、この根っからの技術屋は新しいアイデアを求め続けている。 (文中敬称略)

肩書き、プロフィール、会社概要は掲載当時のものです。



夫婦一心同体 常に全力投球の技術屋


夫婦一心同体 常に全力投球の技術屋


吉野三保子


「初めてお会いした時は無口でシャイな方だと思いました。対する主人は江戸っ子でよくしゃべりますから。冷静沈着で周りを観察していたんじゃないのかしら」

 島の第一印象をこう振り返る吉野三保子は、作業手袋の卸を営んでいた夫・吉野弘の仕事の関係で、55年ほど前に初めて島と顔を合わせた。夫の弘と島の出会いは、忘れもしない1959年伊勢湾台風の日、夫が業界の集まりに足を運んだ際に偶然島と同じ部屋で足止めされ、話したことがきっかけだった。

 当時、島はまだ22歳で業界では名が知れた発明青年だった。弘は島の一回り上の34歳、「特許など分からずにアイデアを盗まれてしまった」という青年の話を聞いているうちに、弟のように思ったのだろうと三保子は言う。お互い、若い頃から家族を養うなど大変な生活を送った経験があったことも相まって交流が深まり、三保子と島の妻・和代も交えた夫婦ぐるみの付き合いが始まった。

 三保子が「根っからの技術屋」と称する島の一面をあらわすエピソードがある。島がアメリカで開かれる展示会に参加した時、出品するはずの機械が届かないアクシデントが起きた。周りが慌てる中、島だけは冷静に別の場所にあった荷物を探し出し、動かなくなっていた機械を調整して展示会開会に間に合わせた。展示会に同行していた弘はそれ以降、島の技術と人柄にすっかり敬服し、魅了されたようだと三保子は言う。

「島さんは驕ることなく、常に相手を尊重して対等な立場から話をする」と三保子は感服する。私的な付き合いかビジネスかは関係無しに心遣いが細やかで、たとえ相手が若者であっても謙虚な姿勢は変わらないという。

 弘と島は、お互いを島さん、吉野さんと呼び合う間柄。「お互いの状況がどう変わってもさん付けでいよう」と話していた。島精機で催しがある際は夫婦で和歌山を訪れ、島夫婦が東京に来た際には4人で食事をした。定期的な電話も欠かさなかったといい、親密な関係だ。「場所が離れていて、ビジネス上の損得なども意識しないで済むからこそ、気軽に話ができる部分があると思う」と三保子は言う。

 島精機が上場した時、いい滑り出しだったのでお祝いのファックスをしたところ、後日島に「吉野さんは抜けている」と言われた。何のことかと思ったが、「他の人たちはチャンスだと思って株を譲ってくれという電話をかけてきたのに、吉野夫婦だけは何も言ってこなかった」と言う。そういった距離感と夫婦の人柄が長く続く付き合いの秘訣なのだろう。

 島は大変な愛妻家で、「いつも二人一緒にいたから、個々に考えられない」と言われるほどだ。常にアイデア豊富な発明家の側にあって、その情熱をかき立て、さらには繊細さと気遣いで夫の寡黙さを補った内助の功。この夫婦間の絶妙なバランスは、三保子をして「二人三脚というより一心同体」と言わしめる。

 島とは50数年来の付き合いだが、20代の時から変わらず「和歌山から世界に発信する」という信念を持ちつづけ、和歌山に本社を構えることにこだわっているという。「何をするにも全力投球で、結果的に人より150%抜きん出ることが出来るエネルギーがある」と期待を寄せる。

「私たち夫婦の人生に楽しみを与えてくださって、感謝しています。素晴らしい家族に恵まれていらっしゃるので、いつまでも元気で現役でいてください」と昔からの友人へメッセージを贈った。



父の遺志を継いだ企業家


父の遺志を継いだ企業家


産業医 上硲桂之介


   上硲桂之介は中谷病院で副医院長を務めていた折、嘱託医として島精機製作所へ派遣された。1992年4月からは島精機の常勤産業医として勤務。計40年以上に渡って同社の発展を見守り続けてきた。島精機へ派遣されたのは全くの偶然だったが、そこにはただならぬ縁があった。

 1964年12月、東京オリンピックの余韻冷めやらぬ中、金策に走り回る男がいた。島精機社長、島正博である。決済期日12月25日までに60万円集められなければ、手形が不渡りになってしまう。倒産するという噂が立ち、誰も金を貸そうとはしない。万事休すとはこのことだ。

 期限まで残り24時間を切った24日、万策尽きた島の元へ突然現れたのが、大阪のプレス加工会社、上硲金属工業社長の上硲俊雄だった。当時の和歌山県庁・経済部長、仮谷志良が前途有望な青年の窮地を救うべく、噂が届いていない大阪でのスポンサー探しをさせていたのだ。俊雄は風呂敷包みの現金100万円を島に渡し、「返済はいつでも良い。領収書もいらん。頑張りなさい」とだけ言って去った。この思わぬクリスマスプレゼントによって、島精機は倒産の危機を乗り越えた。同郷の和歌山出身で、自らも苦労の末に起業した俊雄は、島に過去の自分を見たのかもしれない。

 その恩人である俊雄の長男が桂之介である。父からは、松下幸之助のモノづくりがいかに世のためになったのかを繰り返し聞かされて育った。上硲金属工業では事務用品や自動車部品を作っていたが、俊雄の夢は大きく、より世の中に役に立つ機械を生産したいと願っていた。そんな父がいつしか「自分に成し遂げられなかった、世のためになる機械を作っている人がいる」とたびたび島の話を持ち出すようになった。

「島社長は忍耐力、寛容の人。そして常に感謝を忘れず、私は過分の優遇を受けている」と桂之介は謙遜する。2012年の創立50周年記念イベントでは感謝状を贈られた。長年に渡る産業医としての功績を称えたものではあるが、大恩人の俊雄から2代に渡る感謝の印でもあったに違いない。

 桂之介は、島と一緒にいるとその突飛な発想に驚かされることが多い。二人でうどんを食べていると「このうどんにもっと出汁を浸み込ませるには、中に穴を空ければ良い」と島が言い出した。そのまま聞いていると「いや、穴があったらうどんらしくないな」と次々に思考を深めていく。島にとっては、日常のあらゆる事がアイデアの宝庫なのだろう。

 桂之介もその息子たちも医師となり、俊雄の事業を継がなかった。「私たちに代わって、島さんがモノづくりという父の遺志を継いでくれた。感謝の思いでいっぱい」と語る桂之介。島は年下だが、家業を継いだ長兄のような存在なのだという。気が付けば父、俊雄のように、子供や孫に島の話を繰り返し語っている自分がいた。

 島には健康第一で元気にいつまでも活躍して欲しいと願っている。紀伊高原ゴルフクラブのオーナーである島の趣味はもちろんゴルフで、キャリアは50年。果断な経営者らしく豪快に飛ばす一方、ここ一番には集中力の高さを見せ、ホールインワンまであと一歩ということもしばしば。島の勧めで桂之介もゴルフを始め、今でも月に1、2度コースを回ることが健康維持に役立っている。

 そんな桂之介も86歳となり、島に気を使わせてしまうからと最近は頻繁には会わなくなった。しかし、会食の席では必ずその横に陣取る。酒豪の島が飲み過ぎると、横からそっと制す桂之介は、今なお医師としての役目をまっとうしている。



努力し続ける発明家


 努力し続ける発明家


弁護士 的場悠紀


「上場しようとしている和歌山の会社がある」

 自身が顧問弁護士を務める証券会社からの相談に親しみを覚えた的場悠紀。彼にとって和歌山は、中学高校と青春時代を過ごしたゆかりの地だ。確認してみると和歌山の会社とは島精機。的場はその事実を知り、驚きを隠せなかった。

 それもそのはず、的場は以前から社長の島と親交があったのだ。仕事で再び会うことになるとは夢にも思っていなかった。

 以降、家族ぐるみの付き合いをすることになった的場は、制度が整うとすぐに社外監査役に就任。以降21年間、島を支えてきた身として、「温厚で、なにより仕事が大好きな人です」と彼を評す。

「社長はどこにいるんだ」。ある役員会でのこと、30分経過しても社長が現れない事態に動揺が走った。社員に確認すると、島は研究室にいるという。会議をそっちのけで島はホールガーメントの開発に没頭していた。

 常に機械のことを考え、ひとたびアイデアが浮かべば役員会の途中だろうと図面を描く。枕元には紙と鉛筆を常備し、新たな発想が生まれれば飛び起きて書き留める。高校時代から何百もの特許を取得してきた島の発明家としての姿は、社長となった今でも全く変わらない。

「できないことはない。やらないからできないのだ」が島の口癖。発明家として、まずはやってみる。いい加減を嫌い、どんな時も努力する。そんな島が心血捧げて作ったからこそ、ホールガーメントという世界の誰にも真似できない唯一無二の機械が完成した。

 監査役として子会社に出向くことも多い的場。行く先々の工場で気付くのは、機械に全てを任せるのではなく、人間が自分の感覚で作っていることだという。ネジを製造する会社では、出来上がったネジをすべて手作業で水洗いし、仕分けていた。人間の勘によって微細な違いを見つけ、選別しているのだ。

 細かな部品から社員一人ひとりの魂が入って機械が出来上がっていく。部品から全て一貫して作っているのが島精機の一番の強みだ。

 編機で世界トップシェアを誇る島精機。世界規模の大企業となれば、本社を東京や大阪などの大都市に移すことも多い。しかし、島は絶対に和歌山から移さないと公言している。地元の人を雇用するのはもちろん、公安委員や商工会議所会頭に就任し和歌山の活性化に尽力。和歌山のあらゆる役職を、どんなに忙しくても引き受ける。郷土愛に溢れ、誰よりも和歌山を盛り立てたいという思いが強い。

「これからは、いかにして良い人材を集めるか」。的場は、監査役として島精機の課題を指摘する。島精機にとって開発に並び柱となるのが営業。世界の顧客を相手に自社製品の魅力を伝えるにはグローバルな人材が必要だ。和歌山という田舎のイメージを払拭し、島精機がグローバル企業だということをいかにして宣伝していくか。人的資源の確保は、島精機がさらなる躍進を遂げる上での鍵となる。

 島と公私ともに交流があり、言いたいことは何でも言いあえる仲だという的場。最後に島に対し「私もお付き合いするので、健康に気をつけてあと10年は頑張って下さい」とエールを送った。



ものづくり大国の発明王




 ものづくり大国の発明王


一柳アソシエイツ 代表取締役兼CEO /BSジャパン『日本の未来』キャスター  一柳良雄


 島正博と一柳良雄は10年来の盟友である。田中角栄が通産大臣を務めていた際に秘書であった一柳は、通産省の官僚として30年働いた後、政策規制と企業経営に関するコンサルティングを行う一柳アソシエイツを起業した。島との出会いは関西ニュービジネス協議会の和歌山ブロック例会で講演した時のことだ。

 会ってみると大人しくて口下手な印象だったが、島が類まれなグルメだったことから意気投合。一柳が主催する関西財界の勉強会に島が仲間入りし、絆を深めていった。

「島さんのこだわりは第一級です。島精機の50周年記念の時にはイタリアから購入していた生ハムを切る希少な機械を使い、目の前でスライスした超美味な生ハムをサービスしてくれたり、世界中からモデルを集めてファッションショーを開いたりと、どんなことでも常に最高のクオリティーを追求しています」と一柳は絶賛。昨年6月から島精機の社外取締役になり、毎月取締役会を終えた後に行う島との会食は最高の楽しみだ。

 多数の経営者への教育とコンサルティングを行っている一柳は、モノづくりはこれからも重要な分野であり、時代が要請しているソフト、ICTを加えた三位一体の製品を販売することが必須条件だと考えている。70年代にNASAからグラフィックボードを払い下げ、いち早くIT化を進めていた島の先見性には流石の一柳も舌を巻いた。

 社外取締役として島精機を見つめてきた一柳は、膨大な発明をしてきた島を「日本のエジソン」と評し、島自身の偉大さが同社の強みであると確信している。しかし、一柳が最も驚かされたことは、島が編機の技術以外の幅広い教養も持ち合わせていることだ。技術者は一般的に見識が狭くなりがちだが、島は環境問題や文化、世界経済、国際関係にも深い知見を持っている。

「島さんは戦後の貧乏な母子家庭で育ち、不屈の精神力を持っていた。お金を手に入れるためにどうすればいいか考え、工業高校を卒業してすぐに手袋製造業を立ち上げた。そんな経緯もあって、大学で勉強したわけでもないのに広範な知識を持っているのが不思議なところです」

 一流の専門的技術を持ち、さらには全体を俯瞰してみるための教養も持ち合わせている経営者は島だけと言っても過言ではなかろう。

 和歌山を拠点とする島精機はどうしても視野が狭くなりがちであったが、「一柳さんが社外取締役になって、取締役会が活性化した」と島も手応えを感じている。官僚という職を投げ打ってベンチャー企業を立ち上げた一柳の生き方に共感しているからこそ、島も絶大な信頼を置く。

「人生、胸を高鳴らせて生きるのが一番良い。だからこそ、年もとらない。知恵も出る。私も島さんも世界に無いものを生み出したいという想いを持った似たもの同士」と一柳。一見、温厚で優しい島だが、仕事のことになれば決してブレることのないポリシーと熱い情熱を持っている。

 島の最高傑作ホールガーメントが誕生して20 年であり、「ホールガーメントの成人式」と今年のITMAに島は気合十分。一柳も島のさらなる活躍を期待して景気づける。「我々はまだまだこれからです。島正博が地球にとってこんな良いことをした、という立派に生きた証を打ち立てるように精進してください」



「発明思想家」の誕生に期待




 「発明思想家」の誕生に期待


電気通信大学 名誉教授 合田周平


 英国クランフィールド工科大学(現クランフィールド大学)に、合田周平(システム工学者)は2007年末まで約30年にわたり深く関わってきた。同大学は、世界最初の航空機用ジェットエンジンをはじめ、垂直離着陸機「ハリアー」を開発し、超音速旅客機「コンコルド」のエンジン制作にも携わった著名な大学院大学である。精密工学の領域でも権威ある存在で、優れた研究センターも併設している。

 同大学の学長室に属していた合田は、90年代初頭に「島正博」という日本人の名を聞くことになる。これには、以下の様な経緯があった。もともと「編機」は、16世紀に英国人牧師ウイリアム・リーが発明した。400年の時を経て、その機器の技術開発を進め、近代産業にまで育成した人物を、同大学が名誉学位を授与して表彰することになったのである。その最有力候補者に挙がったのが、島だったのだ。

 1991年秋に、合田は知人の紹介で島と東京で会った。第一印象は物腰柔らかな紳士で、人間味豊かな態度と話しぶりが印象に残っている。英語で言うところの「humane」な人柄であることを、その後の大学の会議で述べた。

 こうして、1993年6月に3本の滑走路の空港を有する広大なクランフィールド工科大学のキャンパスにて、島に名誉学位記が授与された。その夜、近くの古城を貸し切り、学長夫妻をはじめ大学や島精機ヨーロッパの関係者を招待して、パーティーを華やかに開催した。同大学の名誉学位は、日本人で初めて授与されたのが本田宗一郎、さらに稲盛和夫というから、どれほどの栄誉かは想像できよう。

 昨年夏、合田は和歌山の熊野を訪問する機会があり、久々に島に会った。昔話に花が咲き、島精機が英国にヨーロッパ事務所を開設以来30年になることを知った。当時の事務所は、大学に近いミルトンキーンズという新興都市にあり、社長の増井にも何かと世話になった。とりわけ、スコットランドで開催されたゴルフコンペ「島カップ」への参加は良い思い出だ。

 そんな経緯から、合田は昨年秋より、顧問として島と毎月1回の頻度で会う機会に恵まれた。会議での話題が尽きることは無く、気付けば昼食も忘れて4時間も経っていたということもあった。

 島について合田は、「発想がレオナルド・ダ・ヴィンチに似ている」と評す。例えば、島は学校で掛け算や「サイン、コサイン」の方程式を学ぶ前に、自ら計算の手法を編み出していた。独自の手法は、数字の空間的な組み替えから生まれているようだ。「こうした発想力が、世界初のホールガーメント編機を生んだのでしょう。島さんは設計図を描く前に、自分の手でモノを作ってしまう」

 理論の前に実践があり、16歳で特許を出願していたという島。自分の発明を基に、会社をここまで成長させた例は少ない。だが、そこが企業組織としての脆さにも繋がるのではないかと危ぶむ。

「発明やモノづくりには際限があり、必ず誰かに陵駕される。しかし、根底にあるダイナミックな精神は、島独自の『思想』として多くの若い人々に影響し、やがて人類社会に大きく貢献することになる。是非とも、それを著作として残して戴きたい」 

 後継者は育てるものではなく、その思想に触れて自然発生的に誕生するもの。「経験が思想を生む」という名言に想いを馳せることだ。

「島さんの思想から、その精神を受け継ぐ後継者は自ずと現れる。私自身も、『発明思想家』としての島さんと熊野古道を散策しながら、ゆっくりお話を伺いたい」



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