トピックス -企業家倶楽部

2015年08月12日

蝦夷という名のフロンティア/吉村久夫

企業家倶楽部2015年8月号  歴史は挑戦の記録 vol.9


吉村久夫( よしむら・ひさお)

1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「二十一世紀の落とし穴」など。



日米開拓史の違い

 米国の開拓の歴史は東部から西部へでした。西部劇でお目にかかる通りです。先住民族がいました。ゴールド・ラッシュがありました。日本の場合は西部から東北部へでした。やはり先住の人たちがいました。蝦夷といいました。金も産出しました。一国の開拓史というものは大筋同じようなものでしょうか。

 もちろん、米国と日本では違います。第一、歴史の長さが違います。西洋と東洋の違いもあります。それに、米国は白人による原住民との抗争でしたが、日本は同じアジア人同士の抗争でした。それに農業も違いました。米国は畑作、日本は稲作でした。

 こうした違いから、米国の開拓史は短くて荒っぽいものでした。日本の開拓史は長くて和を大事にしました。とはいえ、日本の開拓史も長期にわたっただけに、激しい戦いの時期がありました。そのなによりの証拠が征夷大将軍の存在です。その歴史は千年余に及びました。最後は徳川慶喜が征夷大将軍を辞任した後の会津戦争でした。

 そしていま、東北は東日本大震災からの復興を戦っています。ある人は「東北はいつも貧乏くじを引く」と嘆きます。しかし、東北はそんなやわな存在ではありません。縄文時代は先進地帯でした。十三湊の時代は海外交易の拠点でした。平泉に中尊寺を建立し、世の平和を祈願した文化都市を造りました。東北は時間がかかってもしぶとく新東北を創り出すでしょう。



豊かな資源があった

 東北には有形無形の豊かな資源がありました。豊かな水産資源、肥沃な土地、繁茂する山林、そして日本海と津軽海峡に代表される海の道、一人で和人十人に匹敵するといわれた勇士、つまり蝦夷といったぐあいです。具体的産物でいえば、干鮭、鮑、昆布、ラッコの革、熊の胆、鷹の羽、鉄、金、馬、青森ひば、蝦夷錦などなどです。

 これらは中央の大和政権にとっては垂涎の的でありました。とりわけ大和政権は鉄、金、馬、鷹などを欲しがりました。それらは権威と武力を支えてくれるものでした。東国という広い地域でいうならば、勇者も必需品でした。大陸からの脅威に備えて筑紫の防衛を強化するためには防人が必要でした。防人は東国の出身者たちでした。

 したがって、中央政府は東北をしっかりと掌握したいと望みました。国というからには国土を統一しなければなりません。まつらわぬ者がいては困るのです。国民として組織化して、租税を徴収しなければなりません。それには水田稲作技術を学んでもらわなければなりません。狩猟よりも稲作が大勢の人を養うことができるからです。

 日本は海に囲まれていますが、国際的な存在であることを外国特に中国に認めてもらわなければなりませんでした。そのため大和朝廷はしばしば中国に朝貢しました。その際には、征服した国々の数を列記し、その証拠品として蝦夷を連れて行ったりしました。有名な478年の倭王武の上表文(『宋書』倭国伝)には、東に毛人55国を征服したという記述があります。



奥地に進む城柵

 大和朝廷の東北支配作戦は神代の時代からあったようです。四道将軍の派遣とか日本武尊の遠征とかがそれをうかがわせます。四道将軍の話では、大彦命が北東の北陸方面、その子の武淳川別が東海の太平洋側を進み、両者が合体した地点を会津と呼んだといわれています。大彦命の子孫が阿部比羅夫です。文献でみる限り、阿部比羅夫の遠征が東北支配作戦の本格化の始まりのようです。

 646年(大化2年)、大化改新の詔書が出ました。新しい国造りが始まったのです。蝦夷対策でも柵を設けて東北開発を進めるという動きが始まりました。翌647年に淳足柵が、翌々年の648年に磐舟柵が設けられました。そして658年、阿部比羅夫が180艘の水軍を率いて日本海沿いに蝦夷遠征に出発します。

 阿部比羅夫は大彦命の子孫だけあって、越の国守として北陸地方に強固な地盤を持っていたようです。遠征は3年に及びました。最後は渡嶋(北海道南部)まで行き、蝦夷の要請を受けて粛慎を討ちました。粛慎というのは樺太から南下して来ていたギリヤーク人だったようです。

 阿部比羅夫の遠征は蝦夷を討伐することよりも、現地の実情を把握し、仲良くして交易することだったようです。蝦夷の人たちを招いて饗応し、朝貢を勧めました。その後、大和朝廷は柵の他に重要地点には多賀城や秋田城を設けました。これらの城柵は時と共に奥地へと進みました。しかし、大和朝廷の基本政策は、蝦夷を国民として同化させることにありました。だから、蝦夷の有力者には位階を授け、官僚や武人として遇しました。敵対して歯向かってこない限り、戦にはしないで済まそうとしたのです。

 797年(延暦16年)、坂上田村麻呂が征夷大将軍になりましたが、彼もまた同じ基本的な戦略を取りました。したがって、投降してきた蝦夷の英雄アテルイは助けるつもりでした。だが、京都に居座っている公家たちは、アテルイの実力を恐れて斬首にしてしまったのです。田村麻呂にとっては痛恨事でした。



源氏軍との死闘

 878年(元慶2年)に秋田城下で起きた俘囚による元慶の乱を最後に、以来250年もの間、平和な時代が続きました。その間に蝦夷の中から東北を代表する富裕な豪族が生まれてきました。その代表者が安倍一族でした。安倍は阿部比羅夫の阿部に通じます。阿部の子孫であるとして密かに誇ったのでしょう。頭領は安倍頼良でした。彼は後、敵対することになった源頼義と名前が同音だというので、名を頼時と改めています。

 安倍頼時が名前を変えるほど遠慮した相手でしたが、源頼義は手加減しませんでした。1056年(天喜4年)前九年の役が始まりました。続いて頼義の子、八幡太郎義家による後三年の役がありました。源氏軍と蝦夷軍との長い戦いの始まりです。途中、藤原氏三代の平泉時代という平和時代がありましたが、最終戦が待っていました。それは1189年(文治5年)の源頼朝による蝦夷征伐です。

 同じ征夷大将軍でも坂上田村麻呂と源頼朝ではやり方が違います。頼朝は平泉を滅ぼすと共に、東北全体に御家人を配置しました。東北全体を武力支配下に置いたのです。しかも、頼朝は征夷大将軍に正式に任じられる前に、平泉討伐に出掛けたのでした。坂上田村麻呂は公家社会の武将でした。源頼朝は武家政権の創始者でした。軍事行動の政治的な意味合いが違いました。頼朝は平泉に逃げ込んだ弟義経を捕らえるというのは口実で、実は武家による全国統一を図ろうとしたのです。征夷大将軍の肩書は後でもよかったのです。名実共に全国を支配して鎌倉幕府を創立したのです。

 源氏は東北から軍馬を調達しました。義経はその軍馬を率いて史上稀にみる機動作戦を展開して平家を滅ぼしました。そして皮肉にも平泉で藤原氏と共に滅亡したのです。奥州の軍勢を温存していた藤原秀衡には別の戦略があったのかも知れません。だが、時が許しませんでした。今なお東北には義経伝説が残っています。渡海してモンゴルへ行き、ジンギスカンになったというのです。



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