トピックス -企業家倶楽部

2015年10月06日

自由を奪われて行ったアイヌ/吉村久夫

企業家倶楽部2015年10月号  歴史は挑戦の記録 vol.10


吉村久夫( よしむら・ひさお)

1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「二十一世紀の落とし穴」など。



蝦夷とアイヌの関係

 蝦夷とアイヌは同じでしょうか。同じ時もありました。しかし、後には別のものになりました。蝦夷とアイヌの関係は時代と共に変わって行ったのです。その変遷は同時にアイヌが自由を奪われて行く過程でもありました。

 中世の十三湊が栄えていた時代のことを考えてみましょう。アイヌは和人と混在して暮らしていました。そして蝦夷島、つまり北海道に住むアイヌは自分の収穫物を自由に船で運んできて、湊の市場で物々交換しました。

 東北は縄文文化が栄えました。各地からいろいろな人が移住してきました。アイヌの先祖たちも居ました。アイヌ語の地名がたくさん残っているのが、そのなによりの証拠です。蝦夷は勇猛な人のことでした。最初「えみし」と呼びました。蘇我蝦夷という大臣もいました。

 大化改新の後、大和朝廷は城柵を設けて、蝦夷の同化策に乗り出しました。城柵が奥地に進むにつれて、蝦夷は「えぞ」と呼ばれるようになりました。そして最後には蝦夷は北海道のことを意味するようになったのです。

 こうして北海道で狩猟を生業とし、独自の言葉と文化を守って生活する蝦夷は自他共にアイヌと呼ばれるようになって行ったのです。この間に、多くの蝦夷が稲作を習い、和人と混血するなどして大和の国民となって行きました。


蝦夷とアイヌの関係

交渉相手は松前藩

 北海道の蝦夷は歴史的に大きな役割を演じてきました。なにしろ北方世界とつながっていたからです。鎌倉時代の末期には、中国の元が樺太南部に侵入しました。その余波で、蝦夷内部に抗争が生じ、それがまた安東氏の惣領職争いを誘発しました。この津軽大乱が鎌倉幕府の屋台骨を揺るがすことになりました。

 その後しばらく経って1457年(長禄元年)、コシャマインの蜂起がありました。北海道南部を支配していた安東氏の12の館が襲撃され、うち10が陥落するという騒ぎでした。鎮圧した主役は安東氏ではなくて武田信広改め蠣崎季広でした。この蠣崎氏がやがて松前氏となり、徳川家康から黒印状を交付され、アイヌとの交易独占権を公認されたのです。

 以後、アイヌの交渉相手は、近世大名となった松前氏ということになりました。松前氏は治める知行地を持つ大名ではありません。収入はもっぱらアイヌ交易です。他に鷹や砂金の収入がありました。砂金といえば1620年(元和6年)頃には、万を越す人が北海道へ渡ってきていたといいます。松前藩は自前の鷹狩場、砂金採掘場を持っていました。

 いずれにせよ、松前藩の収入の中心はアイヌとの独占的交易です。直接の収入の他、商人たちからの税収もあります。そこでアイヌは松前藩の交易方針に振り回される事になりました。勝手は許されなくなったのです。そこから松前藩とアイヌとの軋礫の歴史が始まりました。



シャクシャインの蜂起

 松前藩は家臣に商場知行制度を設けました。分け与える知行地が無いわけですから、代わりにアイヌとの独占的な交易の場所を提供したのです。知行主は自分の商場へ出掛けて行って交易をします。アイヌは従来のように自由に松前城下へ行って交易するわけには行きません。地域特定の管理交易です。

 アイヌは干鮭、干鱈、熊胆、鹿皮、海獣皮革、鷹の羽などを持ってきます。代わりに知行主は米、酒、煙草、古着、漆器、鉄製品などを提供します。物々交換の比率は知行側が決めます。1665年(寛文5年)頃、松前藩は一方的に交換率を変えました。それまで米2斗と干鮭100本だったのを米7升と干鮭100本にしたのです。アイヌ側からすれば3倍近い値上げです。

 アイヌ側は怒りました。首領シャクシャインに率いられて蜂起しました。彼らは商船19隻を破壊し、侍、船頭、水主、鷹師、通詞など273人を殺害しました。戦は3年に及びました。やっと和睦にこぎつけましたが、その祝宴の席でシャクシャインは謀殺されました。

 松前藩は他藩同様、いろいろと物入りで財政が悪化します。家臣は消費生活に慣れてしまい、家計は火の車です。一方、北海道の物産に対する需要は大量化して行きます。鰊のシメ粕、鮭の塩引き、蝦夷松の木材などがその一例です。そうした需要の大型化に対応する資力も能力も家臣にはありません。

 そこで商場制度の下で請負制がはじまりました。資力も能力もある商人に商場を請け負わせるのです。シャクシャイン謀殺から半世紀ほど経ってのことです。商人は請け負った以上、最大の収益を上げることに努めます。松前藩もその余禄に預かるわけです。

 こうして請負商人によるアイヌの収奪が強化されました。アイヌは疲弊して行きます。そこへきてロシアが南下政策を取ってきました。幕府も松前藩に任せておくのが心配になってきました。そこで一時、松前藩を転封したりします。そんなこんなの騒ぎの中で幕末が近づいてきました。



日本人化政策の悲哀

 明治維新が起きました。松前藩は無くなりました。代わって明治新政府が北海道の開拓に乗り出してきました。1869年(明治2年)、新政府は蝦夷の地名を北海道へ改称し、開拓使を設置して、大々的な開拓に乗り出したのです。

 アイヌにとっては迷惑なことになりました。明治政府がアイヌの土地を奪い、狩猟や漁労、林業などに規制を持ち込んできたのです。大勢の和人が押し寄せてきました。アイヌの大地だった蝦夷は日本人の北海道に変わったのです。アイヌは農業をするよう勧められました。

 同時に、明治政府はアイヌの日本人化政策を強力に推し進めました。アイヌは日本人として平民ということになりました。アイヌ語の使用は禁止されました。学校教育が始まり、アイヌ専用の学校が設けられたりしました。日本人になった以上、日本語と日本文化に親しめというわけです。

 明治政府には言い分がありました。明治維新は欧米列国の帝国主義に対抗するための革命でした。北方ではロシアの野心が見え見えです。アイヌも一緒になって戦う必要があるのです。それにアイヌにも文明開化の恩恵を享受させたいのです。

 アイヌにしてみれば余計なお世話です。アイヌ語を使い、アイヌの伝統文化を継承して行きたいのです。大自然の中で、極力自由に、生活を楽しみたいのです。しかし、それは許されなくなりました。アイヌは抵抗しました。しかし、富国強兵を突き進む国家権力は強力でした。

 先住民族の権利が認められるようになったのは戦後も1990年代になってからでした。1991年、北海道ウタリ協会の野村義一理事長が国連の「世界の先住民の国際年」で演説しました。翌年にはアイヌ出身の萱野茂氏が参議院議員となり、アイヌ文化の振興に関する立法に努めました。 そして2015年春、北海道は「北海道開拓記念館」を「北海道博物館」に改称し、開拓の犠牲になったアイヌ民族の歴史展示を大幅に拡充しました。アイヌの先住民族としての権利獲得への挑戦はこれからも続くでしょう。



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