2015年11月10日
回収騒ぎでマイナスからの第二創業/五洋食品産業 代表取締役社長 舛田圭良(ますだ・けいすけ)
企業家倶楽部2015年12月号 私の危機突破
肩書き、プロフィール、会社概要は掲載当時のものです。
2000年は、日本の食の安全神話が崩壊した年となった。大手乳業メーカーが発端となった集団食中毒事件のニュースは全国を駆け巡った。消費者は疑心暗鬼になり、食品衛生関連のニュースに敏感になっていた。そんな最中に九州にある小さな食品会社のケーキにカビが発生し、回収する問題が起きた。事態はすぐに収束するはずが、思わぬ展開に進んでしまう。二代目社長舛田圭良が倒産の危機をどう乗り越えたのか再現してみよう。(文中敬称略)
「ケーキにカビが生えているぞ」
2000年10月、地元の生協(生活協同組合)の担当者から突然連絡が入った。今から15年前のことである。飲食店向けにピザ用チーズの加工・販売をしていた五洋食品産業(本社・福岡県)は、その販路を持つ利点を活かしてケーキを作り、チーズと一緒に喫茶店や生協に商品を卸していた。このケーキの一部にカビが発生していた。
回収騒ぎの3カ月ほど前、雪印乳業が集団食中毒事件を起こし、世間は食品衛生問題に厳しい目を向けていた。そんな日本中がピリピリしている最中にカビによる回収騒ぎである。
「時代の流れで商品回収の件を公にしなければならない」という生協の決まりで、30万人の組合人に告知された。すると回収騒ぎを嗅ぎつけた熊本の新聞社から問い合わせがあった。
「今、事実関係を確認しているところなので記事にするのは待って欲しい」と回答したが、『五洋食品のケーキで食中毒か?』という記事が掲載されてしまった。そのニュースは瞬く間に全国に知れ渡り、ケーキ以外の商品に至るまで返品・回収作業に追われる事態に。翌朝舛田が出勤すると、会社の前には戻ってきた商品が入ったダンボールが山のように積まれていた。
「よこしまな理由で家族が経営する会社に入ったので罰が当たったのでしょう」と舛田は言う。元々、舛田は自動車のエンジンを開発する技術者として日野自動車で働いていた。舛田の父親がチーズ加工・販売会社を1975年に設立し、後継者として呼び戻したのである。後を継げばマンションやゴルフ会員権をくれるという話で、換金すれば5000万円になる計算だった。クルマ好きだった舛田は、「フェラーリが買えるな」と思ったという。
そんな軽い気持ちで1997年、家族が経営する五洋食品に入社したが、食品業界の知識もなく、いきなり役員待遇であった舛田の入社を面白くないと思う社員もいた。靴や白衣を隠される。週末出勤だと聞かされて行ってみると休みだったことも。普段から会社の待遇に不満のある社員からイジメの洗礼を受けた。
社員の士気が下がっている中で発生した返品・回収騒ぎ。社員が辞めていくのにそう時間はかからなかった。アルバイトら数名を残して全社員が会社を去った。
「私は行くところもないので、掃除でもしましょうか」とアルバイトの田村勇気(現執行役員生産部長)。取引は全て停止になり会社に来ても仕事は無かった。ほどなくして取引先から支払いの催促が始まった。資金繰りなど金回りは父親が担当していたが、心労が溜まり倒れてしまう。
会社にあると思っていた金もよく調べてみるとない。フェラーリどころの話ではない。金を工面しようとマンションを売ろうにもローンが残っていることが発覚。幸運にも資産家がマンションを買ってくれ、ローンの残りを支払い、あまった金を資金繰りに当てたがまだ足りない。
車を売り、質に入れられるものは全て金に換えた。資金繰りの知識が無いので、最終的に行き着くところは消費者金融である。カードを何枚も作り、引き出せる限度額まで借りたが、個人で用意できる金はせいぜい800万円程だった。借りたはいいが、次に待っているのは返済に次ぐ返済である。「破産」の二文字が舛田の頭に浮かんだ。
冷凍庫に残っていた在庫をクーラーボックスに入れて手当たり次第に営業して回ったが、「あの五洋食品さんでしょ」と取り付く島もない。
無謀だと知りながら生協にも足を運んでみたが、案の定、門前払いだった。途方にくれていると、たまたまその場に居合わせた大手冷凍食品卸のユキワ(現三菱食品)で品質管理責任者をしていた男性が「どうしたの?」と舛田に声を掛けた。回収事故を起こして会社が潰れそうだと打ち明けると、「それは大変だな。どこの会社なの?」と心配してくれた。
「福岡の会社ですが」というと、「なんだ同郷じゃないか。私は品質管理担当なので、一度どんな工場なのか見に行くよ」といって本当に工場を訪ねてくれた。実際に工場を見学するなり、「これはひどい。私が教えてあげるからやってみなさい」とまずはHACCP(ハセップ、食品製造過程で安全を確保する管理手法)の本を数冊渡され、食品製造の基礎を勉強した。
食品工場では人の出入り口と原料搬入口は分けなければならない。
「清潔区と汚染区を分けるのはビニールカーテンでいい。DIYで材料を購入し、自分でやりなさい」と指示された。舛田はエンジニア出身であったので、隙間を埋める溶接やセメントを張るのは得意だった。それから毎週、本当に先週言ったことが出来ているか進捗を見に来てくれたのだ。
「よし、ここまで出来たら大丈夫だ」といって生協のバイヤーを紹介してくれた。五洋食品の商品はユキワが間に入ることで承諾してくれた。首の皮一枚つながった。
しかし、肝心の商品がない。舛田は生協に卸す商品開発を急がなければならなかった。ちょうど生協では共同購入から個配に移り代わる頃であった。そこでスイーツが客引きになるので、力を入れたいとのことだった。
これがきっかけになって、現在主力商品になっている冷凍チーズケーキの本格的な開発を始めた。レシピ本を見てチーズケーキを試作し、ユキワのバイヤーに、試食してもらったが「話にならん」とつっかえ返された。
東京のトップセールスの若い女性社員が首を縦に振らないと話は先に進まない。何度も試作を繰り返してはテストに臨んだ。
「駄目だったらどうなるかなんて考えもしなかった。OKをもらうことに没頭していた」と舛田は語る。金は底を付き交通費も借金してかき集め、宿泊先は浅草の吾妻橋のそばにある1泊3000円のカプセルホテルだった。今になっても東京滞在時は「そこが一番落ち着く」と常宿になっている。
前職での経験が冷凍チーズケーキ開発に役に立った。エンジニアの先輩社員から「有限寿命設計」という考え方を伝授された。車のエンジンはある一定の期間を超えると壊れる設計になっている。例えば、レース用のエンジンは一般車両の様に何年も長持ちする必要が無い。極端を言うとレースが終われば壊れていいので、耐久性は最低限あれば済み、極限まで薄く軽くして軽量化を図っている。目的をどこに設定するかという考え方であるが、これを冷凍チーズケーキに応用した。
通常のチーズケーキは焼き立てを食べるが、冷凍ケーキは焼いてから一度急速凍結し、食べる直前に解凍する。美味しさのピークを焼き立てではなく、解凍直後に持ってくるように製造過程を設計するのがポイントである。砂糖の配分や水分とクリームの油が分離しないように乳化させる配合バランスなどデータを収集・分析し、ケーキの種類によってデータベースを構築しているのが五洋食品の強みとなっている。
「これだったら行ける」、やっと女性トップバイヤーから合格点がもらえた。課題をクリアするまでは妥協しない厳しい彼女であったが、一度自分が納得したら、五洋食品の冷凍チーズケーキを応援してくれた。まずは小さな生協から採用された。500パックほどであったが、それでも嬉しかった。チラシに組合員の主婦の一口コメントがあり、「チーズケーキが美味しかった」と感想が紹介されると、口コミで広がり、大きな生協からも注文が入るようになった。発注規模は1万パックに拡大した。
注文を取ったら仕様書が必要になる。舛田は食品衛生法やJAS法など食品表示の基礎を習得し、その提出資料を自ら作成。昼に営業して、夜にはカプセルホテルで仕様書を作って送る。「五洋食品は対応が早いね」と取引先が喜んでくれた。冷凍チーズケーキの美味しさと対応の早さが評判になり、舛田は東京、名古屋、大阪と全国を営業で回っていると福岡に帰る暇がなくなるほど忙しくなった。
営業で東京の街を歩いていると新商品のアイデアも浮かんだ。冷凍フルーツが業務用食材として出始めた頃で、鮮やかな色合いを活かしケーキにトッピングした。今では当たり前になったが当時は斬新でどこもやっていなかった。舛田の狙いは当たった。全国から注文が来て、生産が追いつかない程売れた。
その後もヒットは続く。銀座で話題のモンブランを見つけ、品揃えを増やした。モンブランといえば栗だが、栗以外でも抹茶はどうだろうか。苺にしよう。生チョコ、ティラミスと新企画を打ち出すと目新しさから、提案したものは全て採用され、百発百中だった。
信用力のあるユキワが品質管理を全面的にバックアップし、五洋食品は商品開発力もあるということで、特別枠が出来るまでに信用が回復した。売上も毎年1億円ずつ伸び、工場はフル稼動であった。
外食チェーンのバイヤーから工場設備に注文が付き、新工場設立に動き出した。すると福岡市に隣接する糸島市の産業団地に工場誘致という話を聞いた。早速、視察に行くと勢いで契約書にサインをしてしまった。
1億3000万円が必要だったが、銀行からは土地購入に融資は出来ないと断られてしまった。資金繰りに苦労していた頃、取引所のセミナー(2002年2月21日)に参加したこともある。舛田は助成金のことだと勘違いし、申し込みのため印鑑を持参した。しかし、いざ説明が始まると想像していた内容とは違った。司会者から株式上場の目標について、参加者に一人ずつ挨拶して欲しいと順番が回ってきた。
舛田は正直に「すみません。私は勘違いしていました。場違いでしたので、帰らせて頂きます」とそそくさと会場を後にした。自分の無知さ加減に悔しくなったが、『10年後に株式上場』を心に誓い、その時の資料は額に入れて飾った。その後、金融について調べてみると、資金調達には銀行の融資以外にもベンチャーキャピタル(VC)からの投資があることを知った。VCから出資を受けるためには事業計画書が必要で、人前で初めてプレゼンも経験した。VCで足りない分は従業員からも出資を募った。取引先の事業会社も周り、話がまとまりかけた2008年9月、リーマン・ショックで話はご破算となり、振り出しに戻ってしまうという苦い経験もした。
銀行が駄目なら公庫、ふるさと融資など、可能性があるものなら何でも自分で足を運び、担当者に顔を覚えてもらうまで通い詰めた。一度は回収騒ぎで倒産の危機に陥った舛田であったが、新工場の竣工に必要な7億5000万円を執念で集めることが出来た。
2010年3月、無事に糸島市に新工場が竣工し、冷凍スイーツ業界において、企画開発型のメーカーとして地位を確立した舛田は、次なる目標として売上100億円を掲げる。そのためには同規模の工場が必要になる。更なる設備投資のため、株式上場を決めた。
五洋食品は、2012年2月21日に東京証券取引所が開設するプロ投資家向けマーケット市場TOKYOAIM取引所(現TOKYO PROMarket)に株式上場を申請した。2月21日は10年前に、取引所のセミナーで屈辱を味わった日である。2016年5月期の売上げ19 億2700万円、営業利益1億1500万円を見込み、東証マザーズへ鞍替えを目指している。舛田の挑戦は続く。
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