トピックス -企業家倶楽部

2015年11月20日

初めてのマイクロプロセッサのためのソフト会社と初めて成功したPCを創った会社/ブロードバンドタワー代表取締役会長兼社長CEO 藤原 洋

企業家倶楽部2015年12月号 IoTとイノベーション vol.3


肩書き、プロフィール、会社概要等は掲載当時のものです。

藤原 洋(ふじわら・ひろし)


1954 年生まれ。1977年、京都大学理学部(宇宙物理学科専攻)卒業。工学博士(東京大学)。日本IBM、日立エンジニアリングを経て85 年、アスキー入社。96年、インターネット総合研究所(IRI)を設立、代表取締役所長に就任。99年、東証マザーズに上場。2000年、第2 回企業家賞を受賞。05年6月に子会社のIRIユビテック、8月にブロードバンドタワーをヘラクレスに上場させる。



個人のためのコンピュータ「PC」を創ったのは誰か


 前回述べたように、1971年のインテル社による世界初の4ビットマイクロプロセッサの発明により、ムーアの法則に則って、72年8ビットの8008、74年完成度の高い8080が登場し、コンピュータ産業は大きな転換点を迎えました。もはやコンピュータは、IBMやスペリー(現ユニシス)、富士通、日立のような大企業だけではなく、小規模なベンチャー企業でも造ることができる環境が整いました。換言するとPCは、大企業ではなく、個人が主役になる世界が拓けたのだと言えます。

 私はこの時代、70年代後半にコンピュータ業界に身を投じ、日本IBMと日立グループで仕事をすることとなりました。そして80年代から90年代半ばまで、当時PC業界の雄であったアスキーで働くこととなり、多くの企業家たちと接点ができました。そこで、PC時代を創った個人として、ビル・ゲイツとポール・アレン、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックという今回の主役たちと、次回登場するゲーリー・キルドール、ダン・ブルックリンそしてミッチェル・ケイポアの7人をあげたいと思います。



ビル・ゲイツとポール・アレンの創ったマイクロソフトとは?


 ポール・アレンは、私も何度か会ったことがありますが、ビル・ゲイツの共同創業者として重要な役割を果たしました。シアトルの名門レイクサイド中学・高校でビルと知り合い、68年に同校が導入したDEC社製のコンピュータ「PDP-10」に出逢ってその魅力に取り憑かれ、70年にビルと共にレイクサイド・プログラマーズ・グループを結成。ISI社から給与計算システムの開発を受注し、高校の時ビルと共にトラフォデータ社を設立、独自開発の交通量分析システムを州政府に納入しました。ワシントン州立大学に進学するも、2年で中退、ビルが入学したハーバード大学のある、ボストンのハネウェル社にプログラマーとして勤務するなど、二人は東海岸で共に青春時代を過ごすこととなったのでした。

 私は、ビル・ゲイツとはアスキー時代にマイクロソフトFE本部に所属していた時期に何度か話をする機会があり、インテルから8080が発表された時、毎日不安で仕方がなかったと聞きました。というのは、誰かがマイクロプロセッサのソフトウェア会社を起業して世界を席巻してしまうのではないかという不安があったのです。

 ところで、世界初の「マイクロプロセッサのためのソフトウェア会社」であるマイクロソフトが生まれるきっかけは、世界初のPC用高級言語として動作するBASICインタプリタの移植でした。ビルはハーバード大学に入学してすぐ、大学が保有するコンピュータ上でしか動いていなかったBASIC(ジョン・ケメニーとトーマス・クルツがダートマス大学で開発した)をインテルの8080の命令体系で動作させるエミュレータの開発を、ポールと共に行いました。当時、起業を勧めたのはポールの方で、75年にビルを説得し、ニューメキシコ州アルバカーキにマイクロソフト社を設立。BASICインタプリタの販売を開始したのでした。

 アルバカーキで起業した理由は、世界初のインテル8080をベースとしたマイクロコンピュータ・キット(アルテラ8800)を開発したMITS社が興った街だったからです。エド・ロバーツ社長に対して、マイクロソフト社の社運を賭けたデモをポールが中心となって行い、これを必死で成功させました。MITS BASICことマイクロソフトBASICが誕生した瞬間でした。

 この時、ビル・ゲイツ19歳。ビル・ゲイツとポール・アレンは「世界中の家庭とデスクでマイクロソフト社のソフトウェアが動作する時代を創ることが我々のミッションである」と本気で考え、宣言したのでした。しかし、アルテラ社をはじめ周りの人々は、誰もそのことを信じませんでした。ビルとポールは、BASIC言語から始めていつの日かPCのOSを作る会社にしようと考えていました。 そして79年、二人のゆかりの地シアトルに同社を移転し、今日に至っています。



世界初の大ヒットPCを創ったジョブズとウォズニアックのアップル


世界初の大ヒットPCを創ったジョブズとウォズニアックのアップル


 MITS社のアルテラは、世界初のマイクロコンピュータ・キットではありましたが、世界で初めて成功を収めたPCを創ったのは、アタリ社でアルバイトをしていたスティーブ・ジョブズとHP社の社員だったスティーブ・ウォズニアック率いるアップル・コンピュータ社でした。

 当時HP社の社員だったウォズニアックは、8080より、MC6800の流れを汲むMOSテクノロジー社のMOS 6502の方が安く、回路が簡単になると判断し、75年10月から半年間かけて設計。76年3月プロトタイプを完成させ、ホームブリュー・コンピュータ・クラブでデモを行いました。

 ウォズニアックはHP社の上司にこの機械を見せましたが製造販売を断られ、自前で売ることを考えていたジョブズと共に、自分達で開発・販売を行うことにしました。ビジネスに興味のあるジョブズは、マウンテンビューのコンピュータショップ・オーナーのポール・テレルに基板を見せたところ、彼は非常に強い興味を示し、30日以内に50台納品できたら現金で支払うと回答。ジョブズは愛車のワーゲンバスを1500ドルで売り、ウォズニアックは自分のHPのプログラム電卓を250ドルで売却して、100台分の部品を集め、App leを完成させたのでした。また、アタリ社で製図を担当していたロン・ウェインも株式10%分の権利を持つことを条件として参加し、社名をアップルとすることが決まり、77年にアップル・コンピュータ社が設立されました。

 HP社を退社したウォズニアックは、Apple の再設計から始め、処理性能の向上、外部ディスプレイへのカラー表示、内部拡張スロットの追加、内蔵キーボード、外部記憶装置としてカセットレコーダを備えたApp le を実質的にたった一人で開発し、77年4月に発表しました。同機は1298ドルという低価格が奏功し、80年にコンピュータ・ホビイストの心を掴んで10万台の大ヒット商品に。同年アップルは株式公開(ジョブズは750万株を保有し200億円以上の資産家となりフォーブズ誌ランキング入り)、Appleはそのまま売れ続け、販売台数は84年に200万台を超えました。

 この世界初の大ヒットPCを開発したスティーブ・ウォズニアックと先日お会いしましたが、そのマニアックな技術力からシリコンバレーのレジェンドとして、またスティーブ・ジョブズを世界のビジネスマンに引き上げた人物として、コンピュータ・エンジニアの中で英雄として永遠に尊敬されています(写真参照、2013年2月27日東京にて)。これは、かつてビル・ゲイツの盟友だったポール・アレンと同じハイテクベンチャーが成功する共同創業者の重要性を物語っています。



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