トピックス -企業家倶楽部

2015年12月11日

短命に終わった奥羽越列藩同盟/吉村久夫 

企業家倶楽部2015年12月号  歴史は挑戦の記録 vol.11


肩書き、プロフィール、会社概要等は掲載当時のものです。

 

吉村久夫( よしむら・ひさお)

1935 年生まれ。1958 年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998 年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎と井深大に学ぶ現場力」「二十一世紀の落とし穴」など。



戊辰戦争始まる

 1868年(慶応4年、明治1年)から1869年(明治2年)へかけて、全日本を巻き込んだ討幕戦争がおきました。干支にちなんで「戊辰戦争」といいます。1868年1月、鳥羽・伏見の戦が起きました。王政復古したはずの幕府軍が納得せず、薩摩、長州の討幕軍と戦ったのです。これが始まりでした。

 明治維新戦争が始まったのです。新政府は錦の旗を掲げた追討軍を出しました。追討軍はまず歴代の将軍の居城だった江戸城の攻略に向かいました。4月、江戸城は無血開城され、首都の江戸は戦火を免れました。これは前将軍が謹慎したのと、無抵抗で江戸城を明け渡すという協議が成立したからでした。

 しかし、戦火が無くなったわけではありませんでした。王政復古に不満の幕府の家臣たちは、上野の山に立て籠もりました。同時に、東北方面へ逃げて反撃しようとしました。東北には幕府に忠実だった会津藩がいました。政府軍はなんとしても、京都守護職として働いてきた会津藩を討伐したかったのです。

 政府軍は会津攻略に当たって、東北最大の藩である仙台藩に先鋒役を勤めるように命じました。仙台藩は反発しました。「政府軍といっても実態は薩摩や長州の軍ではないか。京都での恨みを晴らそうとしている。私怨の戦には応じられない」というわけです。

 4月11日、仙台藩はこれも東北の雄藩である米沢藩と共に、奥羽諸藩に働きかけ、会津藩救援のための諸藩会議を開きました。そして政府軍の司令官である奥羽鎮撫総督へ、会津藩に寛大な処置をお願いするという嘆願書を提出しました。嘆願書は却下されました。

 こうしたことがきっかけで、奥羽列藩同盟が誕生しました。後に越後の諸藩も加わりましたので、奥羽越列藩同盟となりました。参加藩は安東氏の秋月藩を含め全部で31藩に上りました。史上初で最大の東北、北越連合軍が結成されたのです。



諸外国中立を守る

 戊辰戦争の簡単な経過を述べましょう。1月鳥羽・伏見戦争、4月江戸城開城、5月上野戦争、奥羽越列藩同盟、その後宇都宮戦争、北越戦争などを経て会津戦争へ、9月会津藩降伏、庄内藩降伏、10月南部藩降伏、翌年5月五稜郭の榎本軍降伏。戦争期間は約1年半でした。

 この間、英米をはじめ諸外国は中立を守りました。フランスが前将軍に援助を申し出ましたが、前将軍は断りました。幕府の教官だったフランスの将校が榎本軍に参加しましたが、これは例外でした。諸外国が介入すると、戦は厄介なものになりますが、戊辰戦争は日本人だけの内戦で終始しました。

 その理由は、日本が諸外国に中立を申し入れたこともありますが、諸外国もまた日本人の自己解決能力を信じたからです。諸外国は日本人の優秀さを知っていました。日本が将来、経済的に重要な国になることも予想していました。

 ただし、諸外国の商人たちは武器の売り付けには熱心でした。ちょうど米国の南北戦争が終わったところで、大量の武器が余っていました。最新銃器の購入では新政府が一歩先んじました。旧知の商人が多かったのと、資金力で勝っていたからです。銃器の優劣が内戦を短時日に終わらせた一因でした。



絶望的な会津籠城戦

 会津戦争は5月頃から国境の白河争奪を巡って始まりました。仙台藩も派兵しましたが、同盟軍は緒戦で敗れました。これは痛手でした。政府軍はその後、二本松城、長岡城、猪苗代城などを落とし、8月下旬には会津城を包囲しました。同盟藩は次々に脱落して行きました。

 9月半ば、政府軍は会津城総攻撃を開始しました。政府軍は兵力が増強されます。武器も圧倒的に有利です。籠城軍は乏しい兵力、弾薬、食料に悩みながらの抵抗です。絶望的な籠城戦です。いろいろな悲劇が起きました。白虎隊の自刃、西郷家婦女子の自刃、女子隊の斬り込みなどです。

 9月22日、会津は無条件降伏しました。続いて庄内藩、南部藩も降伏しました。翌年5月、函館の五稜郭で抵抗していた榎本軍も降伏しました。明治新政府は全国を平定したのです。

 会津藩は元々、勤王派です。先帝に信頼されていました。一方、藩祖の保科正之以来、幕府に忠義を尽くしてきました。教育に力を入れ、文武両道の人材を育成してきました。京都守護職は万止む無く引き受けた任務でした。

 ところが、時代は激変し、会津藩は最大の朝敵となりました。そして無条件降伏です。断腸の思いだったでしょう。しかし、会津藩は落城の前に、降伏の交渉を開始していました。有為の人材をこれ以上失うのは国家の損失だと判断したのです。

 戦後処理は領土に関しては厳しいものでした。しかし、戦犯については寛大でした。1名の家老が切腹させられただけでした。戦後、多くの人材が新時代を担って行きました。



夢に終わった政権構想

奥羽越列藩同盟は4カ月の短命でした。戦争の進展とともに脱落する藩が続出し、8月28日には米沢藩、9月15日には仙台藩が降伏しました。会津城は丸裸になってしまいました。列藩同盟は一時、江戸から亡命してきた輪王寺宮を盟主として政権を樹立し、大政元年という年号まで設けようと構想していました。それもわずか4カ月の夢に終わりました。

 史上初にして最大の同盟軍があえなく崩壊し、「白河以北一山百文」と軽侮されたのはなぜでしょうか。

 まず第1に、薩長に対する反発の感情が先に立って、明確な政治思想がなかったことです。参謀の中には、仙台藩の玉虫左大夫のように、米国の事情に通じ、合議による新政治を考えた人もいましたが、多くの人は漠然と東日本政権を夢見ていたということのようです。

 第2には、資力も軍事力も伴っていなかったことです。各藩とも財政は破綻状態にありました。軍備も遅れていました。一方、薩長は藩政改革を進めて財政を建て直し、外国と戦争して軍備を強化していました。実力、経験とも同盟軍は不足していたのです。

 第3には、領民、つまり民衆の支持が乏しかったことです。戦は侍が勝手にやっているもので、こちらは大迷惑というわけです。薩摩では英国海軍に城下町を焼かれるという苦難を皆で体験しました。長州では庶民が奇兵隊に参加して藩の主導権を握りました。そうした一体感はありませんでした。

 その証拠に、会津降伏の直後に「会津世直し一揆」が起きました。侍は降伏しましたが、残った村役人や商人が襲われました。検知帳を焼き、村役人の世襲を止めさせるという民主化運動を展開したのです。この一揆は後年の福島県の激しい自由民権運動につながっているように思います。

「一山百文」といわれた東北もその後、名誉を挽回しました。平民宰相原敬を出して、天下を握ったのをはじめ、各方面に人材を送り出しました。軍国日本にも兵士や軍馬を供給し続けました。奥羽越同盟は敗戦の中から、しぶとく立ち上がって、やるべきことをやったのです。
 



コメントをシェア

骨太対談
 
コンテンツメニュー
企業家賞
企業家倶楽部企業家大学
Page Top