トピックス -企業家倶楽部

2016年02月15日

PCをホビーからビジネスの世界へ拡げた起業家たち/ブロードバンドタワー代表取締役会長 兼 社長CEO

企業家倶楽部2016年1/2月号 IoTとイノベーション vol.4


肩書き、プロフィール、会社概要等は掲載当時のものです。

藤原 洋(ふじわら・ひろし)


1954 年生まれ。1977年、京都大学理学部(宇宙物理学科専攻)卒業。工学博士(東京大学)。日本IBM、日立エンジニアリングを経て85 年、アスキー入社。96年、インターネット総合研究所(IRI)を設立、代表取締役所長に就任。99年、東証マザーズに上場。2000年、第2 回企業家賞を受賞。05年6月に子会社のIRIユビテック、8月にブロードバンドタワーをヘラクレスに上場させる。



ホビイスト向けのアップルⅡをビジネスマシンに変えたのは誰か?

 1977年4月に発表されたアップルⅡは、80年にはコンピュータ・ホビイストの心を掴み、ミリオンセラーの大ヒットとなりました。そこへ登場した新たなヒーローがダニエル・ブリックリンでした。私よりも3歳年上で、73年にMITで電気工学と計算機科学を学び、当時ミニコンの雄と呼ばれたDECに入社。76年に退社し、77年にハーバード・ビジネス・スクールに入学しました。教授が黒板に書いた金融モデルのパラメータの誤りを訂正ばかりしていることから、表計算ソフトのアイデアが浮かんだ彼は、MIT時代の友人であった天才プログラマーのボブ・フランクストンと共にソフトウェアアーツ社を設立。世界初のパーソナルコンピュータ向け表計算ソフト「ビジカルク」の販売を開始したのでした。

 ビジカルクは、アップルⅡのアプリケーションソフトとして、ビジネスツールとしてのPCの有効性を示し、アップルの大躍進をもたらしました。しかし、この成功は長くは続かず、巨人IBMの虎の尾を踏む結果となってしまいました。



大型コンピュータの巨人IBMのPC戦略を指南したのは誰か?

 マイクロプロセッサ向けのOS(基本ソフト)のビジネスで最初に成功したのは、ゲイリー・キルドールでした。彼は72年、計算機科学の博士号を受けた正統派のコンピュータ科学者。その後、海軍大学院大学の教授を務め、その間にインテル社からの受託で4004/8008用のプログラミング言語であるPL/Mを開発、さらにインテルに提案したフロッピーディスクベースのDOSが採用されなかったため、CP/Mと名付け、販売を開始。76年、CP/Mの開発・販売を行うデジタルリサーチ社を設立し、デファクトスタンダートの地位を確立、同社は急成長を遂げました。しかし、ミリオネアとなったキルドールは、自家用ジェットを所有して乗り回している間に重要なIBMPCの受注のチャンスを逃してしまうこととなります。

 79年10月からビジカルクで、アップルⅡのビジネスマシンとしての快進撃を目の当たりにしたIBMは、80年末には1年以内にPCを発売することを決断。この挑戦的なプロジェクトを任されたのが、ドン・エストリッジが率いるフロリダ州ボカラトンのIBMエントリーシステム部門でした。当部門は内製主義の伝統を打破し、CPU、メモリ、OSを外部調達することを認められました。

 エストリッジは、当初自社の研究所の技術を捨て、OSの候補としてデジタルリサーチ社とマイクロソフト社を挙げました。重要な会議の日にキルドールが不在であったのに対し、ビル・ゲイツは、BASIC言語しか無い状態にも関わらず、「インテル8088をCPUにするなら、こちらから提供できるOSがある」とハッタリをかましたのでした。

 その後彼は、ピンク・パターソンがCP/Mをモデルに開発したシアトル・コンピュータ・プロダクツの86-DOSを手に入れるために同社を5万ドルで買収し、MS-DOSの商品化に成功します。果たして、IBM-PCは、CPUにインテル8088、OSをMS-DOS とするIBM初のPCとして81年8月12 日に発表されたのでした。

 この物語は、ビルに当然中身があったからIBMが採用に踏み切った訳ですが、慈善団体でのビルの母メアリー・ゲイツ女史とジョン・オペルIBM会長との会話が人物保証になったとのことです。

 PCが産業として拡がった理由は、従来のIBMの常識を打ち破って、他社が周辺機器や互換ソフトを製造販売できるように、オープンアーキテクチャにしたことにありました。ソースコードが著作権で保護されることもあり、合法的に「クローン」を作り上げる方法が見つけ出されるとは考えられていなかった訳ですが、例えばBIOSのソースコードが公開されたことや、IBMとは違うコンパック社の登場で、IBMの予期せぬ世界が拓かれたのでした。こうして巨人IBMは、インテル、マイクロソフト、コンパックといった起業家精神を育てる心の深さがあったからこそ、今日の不滅のIBM神話をを守り続けているようにも思えます。



巨人IBMから主導権を奪取したのは誰か?

 巨人IBMの初代PCのOSに採用されたことで、マイクロソフトの更なる進撃が続くことになりました。しかし、MS-DOS(PC-DOS)上で予期せぬ大ヒットアプリケーションソフトが登場します。それが、ミッチ・ケイポアが開発した「ロータス1-2-3(表計算を含む統合ソフトウェア)」でした。これは、アップルⅡ+ビジカルクを遥かに凌ぐソリューションだったのです。

 マイクロソフトはOSをIBMに提供しましたが、それはビルにとってチャンスであると同時に試練でもありました。ロータスの登場は、ビルにとってキルドールに勝利した後の新たなライバルの出現だったのです。ケイポアの優れたソフトウェアは、ポール・アレンに続いてビルの盟友となったチャールズ・シモニーの活躍の場となりました。シモニーは、機能・性能ともにロータスに及ばなかった表計算ソフトの失敗を補って余りある「マイクロソフト・オフィス」の開発の立役者だったのです。

 8ビットPCの時代の覇者=アップル、16ビットPC時代の覇者=IBMとなり、世界の誰もが「巨人IBMの時代はまだまだ続く」と思っていました。そこへ登場したのが32ビットマイクロプロセッサでした。インテル386対モトローラ68000の戦争は、PCソフトの互換性からインテルの勝利に終わりましたが、OS戦争を制覇したのは、コンパックの技術力と事業戦略力でした。

 IBMは、この転換点で三つの失敗を犯したのです。第一は、従来のOSと全く互換性のないOS/2を市場投入したこと。第二はPC/ATバスと全く異なるマイクロチャネルという周辺機器用のハードウェアインタフェースに変更したこと。そして第三は、32ビットCPUにも関わらずAS400と呼ばれるオフィス用ミニコン性能を上回る32ビット命令体系が社内競合を起こすため、あえて16ビットのままにしたことでした。

 結果は明白でした。IBMは、ほぼ絶対的だった標準を自ら放棄してしまい、IBM-PC時代からIBM-PC互換機時代へと転換。こうして、PC産業の主導権は、16ビット時代のIBMから32ビット時代のウィンテル(ウィンドウズのマイクロソフトとCPUのインテル)連合へと主導権が移ったのでした。写真は、久々に日本に来てくれたビル・ゲイツ、慶應義塾大学の徳田英幸教授との記念写真です(2005年6月28日古川享氏〔初代日本マイクロソフト社長、現慶應義塾大学院教授〕のマイクロソフト退任記念パーティにて)が、昔話に花が咲いた瞬間でした。

 次回は、いよいよインターネット時代へと話を進めたいと思います。



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