トピックス -企業家倶楽部

2016年07月11日

多民族が融合した日本文化/日本経済新聞社参与 吉村久夫

企業家倶企業家倶楽部2016年8月号 教育への挑戦~新しい日本人を求めて~ vol.2

日本人はどこから来たのか

 日本人はどこから来たのでしょうか。現生人類の祖先はアフリカの一人の女性だとされています。今から20万年も昔のことです。なんだかマリア様や天照大神を思い出します。とにかく、そのアフリカの女性を出発点に、時とともに人類が地球上に溢れて行ったというのです。その流布はやがて極東の日本列島にも及びます。およそ2万年ほど前のことです。

 2万年前の日本といえば石器時代です。確かに石器時代の日本人がいました。最近では、沖縄や福井などで人骨も出土しています。その人骨を使って、石器時代の日本人のDNA(遺伝子)が解析されるようになりました。母系の先祖を辿ることの出来るミトコンドリアDNAです。その結果、ミトコンドリアDNAは20種類ほどに分類出来ることが解りました。

 ミトコンドリアDNAの世界の分布状況と日本の石器時代人のそれを対比して行きますと、日本人の祖先が見えて来ます。石器時代人のミトコンドリアDNAの内、約3割を占めるタイプも解りました。それは中国大陸に多いタイプでした。つまり、日本人の多くは中国大陸に起点を持つ人たちで、彼らは海を渡ったり、朝鮮半島を南下したりして、日本へ渡って来たのです。

 約20種類のミトコンドリアDNAの存在は、日本人が多様な先祖を持っていることを意味します。街を歩いていると、いろいろなタイプの日本人に会います。その特徴から先祖のタイプが類推されて来ます。北方系、蒙古系、朝鮮系、中国系、南方系などです。明治10年代、日本を旅行した若い英国の女性旅行家イザベラ・バードは、アイヌ人がヨーロッパ人によく似ていると感嘆しています。日本は昔、明らかに多民族社会でした。



日本は希望の新天地だった

 主としてアジア各地から、人々が日本列島へ海を渡って移住して来ました。石器時代、縄文時代、弥生時代と波状的に移住して来たのです。その理由は様々だったでしょう。飢餓や疫病を逃れたり、政争や戦争に負けたりです。西日本の大名には祖先を中国、朝鮮の王族とするものが少なくありません。例えば、山口の大内氏です。大内氏は、祖先は百済の王族と称しています。

 いろいろな理由があるにせよ、人々が日本列島を目指したのは、日本列島の方に受容力があったからでした。日本は温暖の地です。山の幸、海の幸に恵まれています。山紫水明です。おいしい水が飲めます。回りを海に囲まれていて、異民族が攻めにくい国でもあります。つまり、移住する人たちにとって、日本は希望の新天地だったのです。私はかねてから、日本は古代、アジアの新世界、つまりアジアのアメリカだったと考えています。

 いい例が、徐福伝説です。中国の秦の時代、始皇帝の命令で徐福が大勢の人を引き連れて日本へやって来ました。不老長寿の薬を求めてです。不老長寿の薬が東海の蓬莱山、つまり日本にあるといわれていたのです。不老長寿の薬は入手できませんでしたが、徐福の一行は中国に戻らず、日本に住み着きました。

 そのせいで、日本の各地に徐福伝説があります。例えば和歌山県新宮市には徐福の墓があります。また佐賀県には金立神社があって、徐福を祀っています。近くに徐福が上陸したという場所もあります。そういえば、吉野ケ里遺跡も近くです。この全国最大級の弥生時代の遺跡は徐福と関係があるのかも知れません。


日本は希望の新天地だった

和の日本文化が生まれた

 石器、縄文、弥生の永い先史時代によって、日本文化の基本的な特徴が形成されて来ました。それは一口にいって「和の文化」です。有史時代に入って、聖徳太子が17条の初の憲法を設けましたが、その第1条は「和をもって貴しとなす」でした。

 日本は恵まれた自然環境にありました。そこで人々は自然と共生することを覚えました。自然を崇拝するようになりました。もちろん、地震や台風もありました。そこで人々は八百万の神々を祭って神と親しみました。

 日本人の祖先はアジアの各地から移住してきました。多少のいざこざはあったにせよ、おおむね旧人は新人を親切に受け入れました。そして水田稲作に必要な共同作業の仲間としました。人々は自分たちの祖先を崇めるようになりました。その一方で仏教を受容しました。

 人々は自然と祖先を崇めながら、混血を繰り返して行きました。先史時代は2万年にも及びました。有史時代はせいぜい2000年くらいのものです。日本人は永い先史時代を通して、混血によって融合し、共同作業を共にして来ました。

 有史時代になると、日本人はまるで一家のようになり、姓も源平藤橘の4つの姓に代表されるようになりました。そして源平藤橘は無姓の天皇家を天子様と崇めました。天皇制は日本社会が生んだ独特のソフトウエアです。

 むろん、日本列島はいつも平和を享受していたわけではありません。水田耕作が進み、経済的な格差が生まれると、争いも起きてきました。中国の史書によると、弥生時代の終わり頃には、倭と呼ばれた日本は百余国に別れて勢力争いをしていました。勢い余って朝鮮半島へ攻め入ったりもしていました。

 とはいえ、日本人は基本的には平和を愛し、自然と祖先を崇拝し、皆な親族として仲良く暮らしました。和を尊び、自由を愛した楽天的民族でした。勤勉でかつ好奇心旺盛でした。外国人や外国文化を喜んで受け入れました。仏教も漢字も受け入れ、それを日本独自のものにしました。いわゆる創造的技術導入です。日本人はそれだけの創意工夫の才能を身につけて行ったのです。



なぜ戦争へ突入したのか

「和の文化」の日本がなぜ太平洋戦争へ突入したのでしょうか。戦争の原因は当事者双方にあります。恨みの連鎖は平和をもたらしません。そこで日本では戦国時代に「喧嘩両成敗」の大名法が制定されたりしました。

 とはいえ、中国や韓国などが問題にしている日本の「歴史認識」を軽視するわけには行きません。日本は率先して戦争の真因を究明し、二度とあのような暴走が起きないよう、しっかりと歯止め策を講じる必要があります。

 明治の文明開化は一応、成功しました。大正時代にはデモクラシーが謳歌されました。ところが、大正の末期から昭和初期にかけて、急速にファシズムの風潮が強まり、青年将校たちのテロリズムが頻発して、日本は軍国主義一色となりました。

 世論は急変するものです。日本人の欠点は付和雷同しがちなことです。大正から昭和へかけて、環境が急変しました。第一次世界大戦で勝ち組だった日本の好景気は、一変して昭和恐慌に転落しました。不況で失業者が溢れ、農村は疲弊し娘たちを売るという騒ぎになりました。

 人々は優柔不断な政党に愛想を尽かします。軍部主導の満州国の建設が素晴らしいことに思えました。青年将校たちがテロを起こし、国論は軍国主義に急傾斜して行きます。日本は国際的に孤立し、ついにドイツ、イタリアと三国同盟を組んで第二次世界大戦を引き起こします。

 明治以来の国民教育の成果はどこへ行ったのでしょう。人々は非国民と言われることを恐れ、軍に協力します。ついには特攻隊がつくられます。しかし、戦勢の挽回はなりませんでした。日本は330万人の戦死者を出し、焼土の中で敗戦を迎えました。

 日本の文化、教育のどこが間違っていたのでしょうか。それを検証して「温故知新」の知恵を得たいと思います。



Profile

吉村久夫(よしむら・ひさお)

1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「二十一世紀の落とし穴」など。



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