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2016年09月23日

西欧にも知られた足利学校/日本経済新聞社参与 吉村久夫 

企業家倶企業家倶楽部2016年10月号 教育への挑戦~新しい日本人を求めて~ vol.3

ザビエルが驚いた大学

  栃木県足利市に日本中世の大学、足利学校があります。足利市は鎌倉幕府を倒し、室町幕府を開いた足利尊氏の本拠地でした。足利学校と背中合わせに、足利氏の菩提寺である鑁阿寺があります。この寺はかつての足利氏の館跡で、回りを堀で囲まれています。足利氏を勉強するには、もってこいの史跡です。

 日本の文化庁は2015年、初めて日本遺産なるものを選定しました。2020年に外国人観光客を2000万人にしようという政府の目標に応えようとしたのです。その日本遺産の第一号に、教育遺産を取り上げました。もちろん、足利学校はその筆頭候補でした。

 文化庁の日本遺産選定はそれはそれで大変、結構なことですが、足利学校に限っていえば、実は16世紀には既に世界に紹介されていたのです。紹介したのは、キリスト教の宣教師として日本にやって来た、あの有名なフランシスコ・ザビエルでした。

 それは天文18年(1549)のことでした。ザビエルが来日してすぐのことです。彼は本国にこう報告しました。足利学校は「日本最大にして、最も有名な坂東の大学である」と。

 ザビエルが所属しているカトリックの修道会、イエズス会は禁欲的で、教育の改革を目指していました。ザビエルは海外布教を通じてインド、中国、日本などに学校を設立したいと考えていました。彼は足利学校の存在を知り、日本の教育が進んでおり、日本人が学問好きであることを理解しました。



「和魂漢才」の時代

 日本は明治になって「和魂洋才」がもてはやされるようになりましたが、それまでの千年は「和魂漢才」の時代でした。学問をするには、なにをさておいても漢学を身につける必要がありました。大和朝廷は律令制度を維持するために、指導者層の教育が必要と考え、中央に大学、地方に国学を設けました。

 足利学校は誰が創設したのか、実は諸説があります。奈良時代の国学の遺制か、平安時代の小野篁の創設か、鎌倉時代の足利義兼の力によるものか。3説ともそれなりの理由があるのかも知れません。私は国学の遺制かと思います。とすれば、創設は律令時代にまで遡ります。

 文献的にもはっきりしているのは、室町時代の永享11年(1439)、関東管領の上杉憲実が再興したという事実です。上杉憲実といえば、関東では主家の足利氏をもしのぐほどの実力者です。

 上杉憲実は学長人事や学習内容を決めたり、蔵書を寄贈したりしました。学長(当時は能化、後には庠主)には鎌倉円覚寺の僧、快元を招聘しました。彼は学殖豊かで、易学にも長けていました。

 学習内容では仏教を止めて、四書、六経、列子、荘子、史記、文選などとしました。儒教にしたのです。仏教は別の場を設けて教えました。なにしろ、入門すると僧籍に入ることが条件でしたから。それから易学、兵学、医学も教えました。漢学の総合大学です。

 学費は無料です。学校は所領を持っていましたから、そう出来たのでしょう。ただし、寮はありません。近在の民家に寄宿するのです。学校の敷地を使って野菜を育て、自炊します。病気になってはいけませんから、薬草園も自営しました。


「和魂漢才」の時代

全国から学徒3000人

 こうした憲実の学校改革によって、足利学校の人気は一気に高まりました。戦国時代が始まろうとしていました。大名たちは有能なスタッフをスカウトしようとしていました。学徒たちは易学、兵学、医学などを修めて、有力な大名に採用されたいと願っていました。

 そこで北は奥州から、南は琉球から、前途有為の青年たちが足利学校に集まって来ました。その数、実に3000人。足利学校は16世紀の初め、最盛期を迎えました。たまたまその時、宣教師ザビエルがはるばるとヨーロッパから日本へやって来たのです。

 ところで、戦国時代の大名たちの教育はどうなっていたでしょうか。すべては実戦によるオン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)だったのでしょうか。もちろん、それが主流でした。しかし、それだけではなかったのです。立派な家庭教師が付くのは恒例でした。

 教師はたいてい、学問では学識のある僧侶、武術では歴戦の武士でした。今川氏の人質になっていた徳川家康も名僧に付いて学問を修めました。家康の勉強した部屋が今に残っているほどです。

 人質というと、囚われの不幸な家族と思いがちですが、必ずしもそうではありませんでした。むしろ、十分に教育の機会を与え、将来、自分の陣営の役に立つ人物に育てるという狙いがありました。いわば人材開発に役立てたのです。

 いい例が、織田信長と蒲生氏郷のケースです。氏郷は信長の人質になりましたが、信長は氏郷の将来性を見込んだのでしょう、小姓にして自ら教育しました。もちろん、僧侶と武将も家庭教師に付けました。そしてとうとう、将来期待できると判断したのでしょう、次女の婿にしました。氏郷は後に、会津92万石の大大名に成長しました。

 いつの世でも、指導者は次代の指導者の教育に熱心です。動物だってそうです。ましていわんや、人間です。子孫の幸福を願えば、次代の指導者の教育に熱心にならざるを得ません。三内丸山や吉野ケ里のような大集落になると、その運営には、複数の指導者を必要としたことでしょう。



政治が教育を左右する

 政治によって教育は左右されます。学校の運命も政治次第です。スポンサーだった有力政治家が没落すると、その庇護を受けていた学校も運命を共にせざるを得ないのです。

 足利学校もその例にもれませんでした。スポンサーの関東管領上杉氏が越後に追いやられ、新しく小田原の北条氏が関東の覇者になりました。北条氏は教育が大事なことは分かっていましたから、足利学校の面倒をみました。ところが、その北条氏も豊臣秀吉によって滅ぼされてしまいました。

 スポンサーが替わった上、貴重な書物の一部が、秀吉の甥である秀次によって、京都へ持ち去られてしまいました。太平の世がやって来ました。そのこと自体は歓迎すべきことですが、易学や兵学など戦に関係する実践的学問が人気を失って行きました。

 もちろん、新たな天下人になった徳川家康は学問好きでしたから、足利学校を庇護しました。幕府は学校に所領100石を寄進しました。毎年、足利学校にその年の吉凶を占わせることにもしました。

 しかし、徳川幕府は太平の世にふさわしい学問大系が必要だと考えました。家康は林羅山と親しく、彼の儒学でもって、世の中の秩序を保とうとしました。後に、徳川綱吉のような学問好きな将軍が現れ、儒学も朱子学を中心とするようになりました。それに徳川幕府は官学の中心を湯島の昌平坂学問所(昌平黌)としました。

 いきおい足利学校は衰微しました。学校は全国区の学校というより、近在人が学ぶ郷学となって行きました。幕府は豊臣秀次が京都へ持ち去った書籍を取り戻してくれましたが、学者たちにとって足利学校は学校というより図書館と見られるようになりました。

 そして明治維新です。足利学校は一時、藩校となりましたが、明治5年(1872)、廃藩置県と共に廃校となりました。しかし、平成2年(1990)、史跡指定の建物が復元され、平成27年(2015)、文化庁から日本遺産に選ばれました。ザビエルが世界に紹介してから5世紀を経て、足利学校は外国人の訪問を待ち受けています。



Profile

吉村久夫(よしむら・ひさお)

1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「二十一世紀の落とし穴」など。



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