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トピックス -企業家倶楽部

2010年02月27日

坂本龍馬・ビートルズとゼロから始める起業家の志/日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合代表 村口和孝

企業家倶楽部2010年4月号 日の丸キャピタリスト風雲録 vol.13




NTVPゼロから創業支援3社成功

 人生は、後から振り返れば、まるでストーリーが最初からあったように語る事が出来るが、その時点時点で未来がどういうストーリーであるか、見通せている訳ではない。

 NTVPのゼロからの創業支援も、2005年DeNA(南場社長)上場、07年インフォテリア(平野社長)上場、09年エイケアシステムズ(有田社長)M&A売却と、3社成功した。ゼロからの成功を目指してはいたものの、結果が良かったからと云って最初描いたストーリーの通りであった訳ではない。

 土佐を脱藩した坂本龍馬の業績といわれる薩長同盟実現など、ストーリーのないドラマだったろう。ビートルズもリバプールで結成した当初、ここまで歴史に名を残すとは思っていなかっただろう。歴史上の偉人がやはり先人に学んだように、ベンチャーキャピタリストとしての私の実績も、実は坂本龍馬とビートルズの影響を受けている。


NTVPゼロから創業支援3社成功

私にとってのゼロ出発点

 私は、NHK連続テレビ小説「ウェルかめ」の舞台である徳島県海部郡美浪町の隣町海陽町で生まれた。海亀が産卵する海が近く、自然が豊かで非常に美しいのは良いが、農林漁業以外にこれと云った大きな産業が無い。会社という会社もなく、エレベータのある建物もなかった。

 私の家は、祖父竹次郎は戦前に小さな製糸工場を経営し人を雇っていたようだが、生まれた頃は家族経営で精米業や養鶏業を営んでおり、決して裕福という訳ではない。親戚の一人は、私が幼少の頃ついて歩いた祖父竹次郎の妹の子「丸本昌男」で、彼が現在阿波尾鶏を生産する年商150億円の、株式会社丸本創業社長である。ただ私が生まれた頃は小さな会社でしかなかった。

 母の父が1946年南海大地震で起きた津波で死に、母の兄弟9人は大変苦労して終戦後の時代を生きた。母は経済的理由から大学を諦め結婚して1958年私を産んだ。かくして私は徳島県南の片田舎で、全くゼロからの活動を始めたのだ。



ビートルズ成功モデルとの出会い

 田舎で水泳部のキャプテンだった中学校時代、多感にしてクラシックも聴いたが、テレビの映画音楽特集で流れた「レットイットビー」や「ハードデイズナイト」に驚いて、それ以来ビートルズをよく聴いた。私はリバプールという地方都市から世界に出たビートルズの音楽に驚きほれ込むとともに、ビートルズが最初は不良に毛の生えた無名の若者達、つまりゼロ出発であった事が心地よかった。

 また、ビートルズは郷ひろみや山口百恵とは異なり、またベートーベンやモーツァルトを演奏するオーケストラと異なり、自分でオリジナルな音楽を作曲して自分で演奏して歌っていた事に驚愕した。もちろんまだ田舎で親に面倒を見てもらっていた自分とも異なり、自分たちの音楽で経済的にも全く自立し、自分たちのメッセージを世界に発信して、何より若くして世界的に有名になっている。

 到底田舎の私には、どうやって世界に出ていいか見当もつかなかった。私は中学生で、水泳の世界では徳島県で少しは名が知られていたが、田舎にいて先行きがおぼつかない。徳島県外に出る事はおろか、大学に行く事すらどうするか決まっていなかった。



ビートルズ成功要因

  なぜ出発点ゼロのビートルズが、リバプールの地方都市から世界に出て成功出来たのか、どういう経過があったのか、当時年譜を見てよく考えた。

 第一に、集中的作業が重要だという事。注目したのが若き日の混沌としたハンブルグ修業時代のビートルズの活動だ。1960年頃、来る日も来る日も十時間も酔っ払った英語の通じない客と向き合って演奏し続けたという。どんな領域であれ、必死になって活動を積み重ねる辛抱強い時間が、超一流となってキャズムを超えるために重要だと学んだ。寝起きを忘れて長期間にわたり集中しなければならない。

 第二は、最高の商品サービスを創り出す事。ジョンとポールの才能に加え、ビートルズは第五のビートルズメンバーと言われるジョージマーチンをプロデューサーとして一緒に仕事をしている。とびきり輝く製品に仕上げる協力者の存在は重要だ。

 第三に、経営が重要だという事。マネージャーのブライアンエプスタインのお蔭でリバプールの不良バンドが、ロンドンから世界へと活動をスムーズに拡大していく事が出来た。彼が1967年急死して、ビートルズの経営はおかしくなり、とうとう1970年解散してしまう。

 第四は、高い志を持つ事。エルビスプレスリーを尊敬していた。ジョンとポールは世界のアーティストになる大きな夢と志を持っていた。



田舎から上京

 私は裕福な家に生まれたわけではない。大学受験にも失敗して二浪した。落ちこぼれの負け組である。1年目は宅浪したが失敗。2年目は高校の親友が何人か進学した日本の中心都市東京に出ようと思い立った。東京に行けば何かがあるかも知れない、と漠然と思った。ただ人ごみと林立するビルに圧倒された。

 当時荻窪の安アパートから駿台予備校四谷校へ通った。さすがに東京の予備校は先生のレベルが高い。情報の差で田舎の人間はチャンスを逸していると思った。成人式は受験が間近で誰からも祝われてもいないし、式に出席もしていない。親友の一人は大阪に出て左官職人で自立し、すでに結婚して2人子供が居り、浪人中の私にお中元を持って来た。一方私は大学生でもなければ就職もしておらず、将来は全く未知で不安だった。かつ私は都会の生活に疎かった。自分の志を高く維持するのもやっとだったように思うが、かろうじてビートルズの音楽に救われていた。



進路変更と、龍馬との出会い

 進路は予想外な変更となった。そもそも私は医学部を目指して理系の勉強していた。数学があったので練習にと受けた慶應義塾大学経済学部に合格したが、私は経済学がどんな学問か知らなかった。医学部受験にまたまた失敗してしまった為、友人の勧めもあり、道を諦めて1979年二浪して慶應大学に入学した。

 直系の一族で初めての大学生になり母親は喜んだが、資産家の子弟などが居る慶應大学で頭角を現すのは、当時の私には、どう考えても困難に思われた。経済学の授業に身が入る訳もなく、高校時代の同級生が2年前に現役で入部していたシェイクスピア研究会に入り、芝居作りに熱中した。また今でも慶應ビートルズ研究会があって部員が多いそうだが、実は私は創立初期のメンバーとなった。

 その頃、1日1冊読書の挑戦をしていて、読んだ本の1冊が司馬遼太郎の「竜馬がゆく」だった。私が土佐の隣の徳島で高知県境の出身だという事もあり、引き込まれて一気に読んだ。私は当時完全に落ちこぼれで、授業にもまじめに出ない、いい加減な学生だった。そこに龍馬という一筋の光明が差した。

 幼少落ちこぼれだった龍馬、四国から私と同じ19歳で上京した龍馬と小説の中で接することで、自分の劣等感と明るく向き合い、田舎生まれの運命を前向きに肯定して受け入れられるようになった。



龍馬の活躍から学ぶ

 第一は、幼少の龍馬は「よばあたれ」と言われ、落第生だった。小さい頃は落ちこぼれ、弱虫でもよい、という事だ。

 第二は、龍馬が19歳で千葉道場へ上京したように、若い頃に進んで変化が大きく、情報が沸騰する場所や街に身を置かなければならないという事だ。

 第三に、レベルの高い人に会い、肯定的に話を聞き、世界の情勢を俯瞰的に理解し、行動する事だ。龍馬が影響を受けた人は、ジョン万次郎の話を整理した川田小龍や、勝海舟などだ。

 第四に、家族を大切に、人間関係を基本にする事だ。龍馬にとって乙女姉さんとの愛情溢れる関係が、どれだけ人間的成長に役立ったか分からない。

 第五に、まず社会全体を考え、命がけで役立とうとする志の高さだ。「色情にうつり、国家の大事を忘れ、心得違いするな」との親の書付を常に身に着けていたという。大きく世界の動向をとらえて、天下の問題解決ストーリーを描き、実行してゆく事だ。

 第六に、商業事業を大切にする事だ。龍馬は、長崎に海援隊を創り、藩や国の対立を超えた貿易の意義を理解していた。

 第七に、古い組織からの独立だ。諸国の動きに反応して、龍馬は命がけで脱藩してから、本格的な活躍が始まった。独立した個人の立場で社会や時代に向かい合って、始めて独創的な人間としての迫力が生まれる。



会社を退職独立、天下の社会人に

 私は大学時代、シェイクスピア演出に没頭し、2浪した上に留年し親不孝を重ねた。1982年春、広尾の都立中央図書館で留年友達と一緒に経済学の集中勉強をした。そこで計画経済体制の歴史的崩壊を強く予感し、大学3年でゼミの先生から聞いたベンチャーキャピタルという仕事に天命を感じた。大学4年の年、龍馬の行動力に触発され、シリコンバレーにベンチャーキャピタリスト事務所をノーアポ訪問し、ベンチャーキャピタリストとなる事を志した。

 1984年証券系のベンチャーキャピタルに就職し、会社員としてベンチャー投資の一線に出た。誰よりも行動する活動的キャピタリストとして、一時活動が高じ組織人失格とまで言われた。様々な起業家との出会いがあり、アインファーマシーズ、ジャパンケアサービス、PALTEKなど数々の成功実績を積んだ。

 1998年春、結局14年間勤めた会社を独立して、NTVPを設立した。会社員が社会人になった瞬間だった。命を狙われた訳ではないので、龍馬の脱藩ほどの事は無い。

 ただ、組織人として組織の枠の中でローカルなルールを必死で守りながらもがいていた自分が、いったん組織を離れると同じ職業なのにこうも世界が違って見えるのかという体験を、龍馬もしたはずだと思う。組織人と天下の社会人、同じようで景色が全く違う。当時の事だから命がけの龍馬脱藩には相当の反対があったことも想像に難くない。

 NTVPでは1998年11月、周囲から無理ではないかと言われた第一号のベンチャーキャピタル投資組合を堀場製作所の堀場顧問らの参加を得て設立し、99年にゼロから創業期のインフォテリア、DeNA、エイケアシステムズに続々投資したのである。

 ついでながら99年10月、NTVPでは最初の社会貢献活動の青少年起業体験プログラムを、志を持って大田区池上本門寺境内で開催した。



3社ゼロから創業投資の成功

 インフォテリア(平野社長)は、アステリアという異なるデータを連携するソフトウェアの世界でマーケットポジションを獲得した。DeNA(南場社長)は、モバオクで上場して、モバゲータウンが大ヒットとなった。エイケアシステムズ(有田社長)は、メール配信代行ASPとしては国内のデファクトスタンダードとなった。3社ともゼロから創業初期から応援させて頂き、それなりに困難も乗り越え、今日の繁栄がある。

 ビートルズや龍馬の歴史的活躍に比べたら、3社の創業困難と活躍はまだまだスケールの小さなものだ。起業家として三人とも国際的には活躍しているとは言い難い。今も一緒に悩み、一緒に喜び、ゼロから創業の戦友(維新の志士仲間)である。

 投資成果の一部で、田舎者で落ちこぼれの私が、ゼロから始まって、銀座に鮨屋を一軒、新橋にカリフォルニアワインバーを一軒持つまでになれたのは、ビートルズと龍馬のお蔭と言っても過言ではない。

 ちなみに、私は29歳で結婚したが、妻の名前はたまたま龍子という。




著者略歴

日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合
代表 村口和孝(むらぐち・かずたか)

 

1958年徳島生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。84年日本合同ファイナンス(現ジャフコ)入社。98年独立し、日本初の投資事業有限責任組合を設立。03年より徳島大学客員教授。07年慶應義塾大学大学院経営管理研究科非常勤講師。



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