• トピックス
  • 企業家倶楽部
  • バックナンバー
  • 企業家チャンネル
  • 私の注目ニュース
  • 新商品コーナー

トピックス -企業家倶楽部

2016年11月08日

朱子学の官学「昌平黌」/日本経済新聞社参与 吉村久夫 

企業家倶楽部2016年12月号 教育への挑戦~新しい日本人を求めて~ vol.4

昌平坂学問所

 昌平黌、正しくは昌平坂学問所です。幕府直轄の漢学の学問所にしては、あっさりと地名を頂戴したものです。もっとも、昌平は聖人孔子の生地の郷名です。そこで元からあった坂道を昌平坂と名付け、坂道に階段状に湯島聖堂と学問所を建立したのです。長い校名なので、通常は「昌平黌(校)」と称されてきました。

 昌平黌の前身は上野の忍岡にあった林家の孔子廟と家塾です。林家とは漢学者の林羅山の家のことです。林羅山は京都の人で漢仏学に通じ、公家学者で歌人の藤原惺窩の門人でもありました。関が原の合戦から数年後、徳川家康に認められ、徳川幕府の文教の任に当たることになりました。

 永い乱世が終わり、太平の世が訪れたので、学問好きの家康はこれからは平時の教育が大事だと考え、儒教に目を付けたのです。以来、秀忠、家光、家綱、綱吉と5代の将軍が林家を盛り立てたのです。家光の時、林家は上野忍岡に屋敷を拝領しました。そこに孔子廟を建て、学塾を開いたのです。

 昌平坂へ移転したのは5代将軍綱吉の時で、元禄3年(1690)でした。綱吉は評判の学問好きで、自らしばしば家臣たちに儒学の講義を行ったほどです。生類哀れみの令を出し、犬公方ともいわれました。

 綱吉は赤穂浪士の吉良邸襲撃事件で、法秩序を守ることに徹したことでも有名です。人情において忍び難いことでも、法秩序は守るべきだという考えです。太平の世の秩序の在り方で論議を呼びましたが、世間は赤穂浪士贔屓で、後世永く「忠臣蔵」が当たり狂言となりました。



朱子学が幕府の正学

 寛政2年(1790)、幕府の老中で将軍補佐の松平定信が寛政異学の禁を打ち出しました。江戸時代の大きな改革の一つ寛政の改革の一環です。孔子廟が湯島へ移ってからちょうど百年目のことでした。

 寛政改革の主な柱は4本ありました。天明の飢饅で疲弊した農村の対策、失業者が増えて治安が悪化した都市の対策、借金まみれの武士を救済する借金棒引きの棄損令、情報の統制、風紀粛正のための文化統制です。文化統制の一環で、いわゆる「寛政異学の禁」が出されました。

 異学の禁は端的にいうと、林家の朱子学を正学とし、異説、俗説は排除するというものです。さらには、孔子廟と学問所を分け、昌平坂学問所を幕府の直轄にするというものでした。朱子学が幕府の正式認可の学問となり、昌平黌が幕府直轄の官学となったわけです。

 松平定信は8代将軍吉宗の孫に当たります。将軍になってもおかしくない血筋の人でした。定信は改革のブレーンを集め、断固として実行に移しました。一時的には緊縮政策が成功しました。しかし、結局は成功しませんでした。

 世の人々は基本的には自由が好きであり、緊縮、統制には反対なのです。水清くして魚住まずの譬えがあるように、人々は前の田沼時代の濁った水の方が恋しいと狂歌を作りました。

 江戸時代は官僚統制の時代だったと思いがちですが、意外に自由で、民間の自主性に委ねられている時代だったのです。とりわけ、学問は統制を嫌います。学問は本来、自由でなければなりません。そうでなければ進歩はありません。

 寛政異学の禁が出たせいで、朱子学が主流となりましたが、他の学派が鳴りを潜めたわけではありませんでした。昌平黌の朱子学の、いわゆる寛政の3博士の向こうを張って、古学派、陽明学派、折衷学派、山崎闇斎派、伊藤仁斎派、荻生徂徠派などの学派も活躍しました。


朱子学が幕府の正学

切磋琢磨の寮生活

 昌平黌には2つの寮がありました。寄宿寮と書生寮です。前者は幕臣、つまり旗本、御家人の寮です。後者は陪臣、つまり全国諸藩の藩士とそれに準じる者たちの寮です。幕藩体制と言いますが、中央の幕府と地方の藩とははっきり区別されていました。

 では、きわめて閉鎖的だったかというと、そうでもありません。町人、農民など庶民が受講できる講義もありました。教育は特定の人のためのものではないという認識はあったのです。しかし、庶民のための寮はありませんでした。

 寄宿寮は入居人数が限られていますし、幕臣たちの多くは通学でした。通学といっても、朝から夕方まで集中講義があるわけではありません。第一、学部や学科という細かな区分けがありません。そこで私塾に通って勉強してもいいのです。彼らは吟味と呼ばれる難関の試験に合格することを目指しました。

 人物を輩出したのは書生寮の方です。この方は各藩から選ばれて、給費生として昌平黌へ入学した留学生です。もうかなり学問を修めて来ているのです。そこで勉強の仕方は、諸先生の講義を聞くことよりも自習することでした。寮生同士で日夜、議論を闘わせるのが勉強だったようです。つまりは切磋琢磨です。

 同じ釜の飯を食うというのは貴重な体験です。書生寮の俊才たちは、元々、勉強が出来ますから、切磋琢磨してお互いに刺激し合い、友情を育みました。つまりは全国的な広がりを持つ交流を行うことができたのです。彼らのネットワークが幕末維新で大きな役割を果たしました。

 幕末維新で名を残した書生寮の人物には、清河八郎、秋月悌次郎、松本圭堂、高杉晋作、枝吉神陽、原市之進、久米邦武などがいます。明治維新をリードした人たち、それに学問で名を成した人たちです。学者の中には、二松学舎を創立した三島中洲のような人もいます。

 これらの人たちは同時に、若者たちに大きな影響を与えました。例えば、枝吉神陽は若くして病死しましたが、実弟の副島種臣をはじめ、江藤新平、大隈重信、大木喬任など明治新政府で活躍する人物を育てました。



近代教育への橋渡し

 昌平黌は明治3年(1870)、学制改革によって休校となり、そのまま廃校となりました。明治新政府は徳川幕府を倒して成立したのですから、幕府直轄の最高学府の存在をよしとしなかったのでしょう。

 明治新政府は昌平黌に代わる近代的な大学を創立しました。その第一号は東京帝国大学です。この東大は無から生じたわけではありませんでした。幕府が創っておいた学校を前身としました。蕃書調所改め開成所です。これが明治になって開成学校となり、やがて東大となって行ったのです。

 昌平坂学問所の敷地は現在の史跡の倍ありました。お茶の水から聖橋を渡って行きますと、右手に湯島聖堂、左手に東京医科歯科大学がありますが、医科歯科大学のある場所は元々、昌平坂学問所の敷地でした。

 この場所に明治になって師範学校(後に高等師範)、女子師範学校(後にお茶の水女子大学)、医科歯科大学などが出来ました。医科歯科大学の入り口には「近代教育発祥の地」という案内の金属板が掲示されています。この前を東大構内行きの都バスが通って行きます。

 この掲示板を見ているうちに「そうだ。昌平黌は近世から近代への教育の橋渡しをしたんだ」という感慨が浮かんできました。人類永遠の課題である教育は、途切れることなしに次代に受け継がれて行くものなのです。

 そう思うと、昌平黌もまた中世の足利学校を受け継いで来たのだと思われて来ました。乱世の知的拠点となった足利学校は、太平の世の秩序を教える昌平黌となり、文明開化の学校への道へつながって行ったのです。



Profile

吉村久夫(よしむら・ひさお)

1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「二十一世紀の落とし穴」など。



  • DEGITAL DATA SOLUTION
コメントをシェア

骨太対談
DEGITAL DATA SOLUTION
 
コンテンツメニュー
企業家賞
企業家倶楽部企業家大学
Page Top