トピックス -企業家倶楽部

2016年11月14日

背中で語る憧れの存在/幼児活動研究会を支えるスタッフ

企業家倶楽部2016年12月号 特集第4部


礼儀正しく、爽やかで、挨拶が素晴らしい。幼児活動の社員はまさに、子どもたちの手本の姿だ。子どもの力を信じ、限界に挑戦させ、自信を持って人生を生き抜いていく力を養う同社の教育法。それを現場で担うのは、山下の薫陶を受けた教育者たちだ。



全ての子どもができる

専務取締役広田照彰 Teruaki Hirota


全ての子どもができる


 中学校の体育教師を目指していた広田照彰は約40年前、幼児活動に入社した。いざ出社してみると、オフィスは山下の自宅の六畳一間。社員はたったの6人だった。新入社員は8名いたが、「この会社で仕事を続けられるのか」と不安が募ったという。

 入社して3年目のことだ。山下の「会社を大きくしていきたい」という想いが社員らとの決裂に繋がり、広田の上司が全員退職。広田は必然的に部長職を任されることとなった。

 当時、社内には大学時代の先輩もおり、彼を部下とすることには流石に抵抗があった。しかし、「部長職を受けた以上、きちんと指示をしなければならないので、割り切りましょう」と腹を割って話し、事なきを得た。それからは指導部長という立場で仕事に邁進。東京、大阪、広島、福岡と徐々に事業を展開していった。

 ある時、広島にある大きな園から「講習会に出られないので前日に来てほしい」と要請があり、広田が赴いた。その翌日には「契約したい」と声が掛ったが、まだ広島に事務所は無い。大阪支部からならば人を派遣することができたのだが、その園としては広田にこそ来て欲しかったのである。

 山下に相談する広田。すると山下は、「お前が行け」と即決した。それからというもの、毎週火曜日の夜には大阪に入り、翌朝一の新幹線で広島へ。水曜、木曜と体育指導をして、木曜日の新幹線で東京に戻るという生活を10カ月続けた。

 こうした努力も実り、社員は40名にまで拡大。しかし、それまで体育指導の方法については具体的な決まりがほとんど無い状態であった。跳び箱などの大きな種目はあったが、指導内容は個人パフォーマンスの域を出なかったのだ。そこで広田は、指導部長として手帳を作成。カリキュラムの充実を図った。

 そんな広田が最も苦労したのは、2005年の上場の時。初めて外部から経理関係の人材を採用したのだ。だが、中途採用者との価値観の擦り合わせには思った以上の労を要した。結局は会社を去る人間も多かったが、「反対に、会社の文化がきちんと固まっていたことが強みにもなっていた」と広田。外部から来た社員と融合していくのは難しかったが、それによって生え抜きの社員の成長も促され、広田自身も学ぶところが多かった。

 広田の今後の目標は、三つある。

 一つ目は、幼児体育に対する社会的意識を変えること。幼児教育に携わる人たちの社会的地位が上がってくれば、良い人材を集めることができるようになり、今まで以上に様々な施策も打てるようになるだろう。

 二つ目は、後進に自分の持っている技術を伝えること。「弊社の社員にとどまらず、幼稚園の園長先生や職員の方々も含め、これから幼児教育に携わる先生方に幼児体育の大切さを伝えられれば幸いです」と広田は願う。

 三つ目は、「100%」を確実に広げること。これまでは、心の中のどこかで「(運動が)できる子もいれば苦手な子もいる」と思ってしまっていたと振り返る広田。だが今は、「全ての子どもができる」との思いを強くする。もちろん、幼児活動が軸に置く人間性の育成が最も大事だが、体育指導をしてお金をもらっている限り、「この子はできませんでした」では済まされない。「私たちが子どもの可能性を心から信じ、結果を出し続けたい」と熱く語った。

「山下の真似をするのではなく、自分にしか出来ないことに挑戦したい」と意気込む広田。

 山下には「社長は生涯現役を貫くでしょうから、健康に気を付けてください」とメッセージを送った。



有言実行する山下は永遠の憧れ

取締役 管理本部長 兼 総務部部長 川田 伸 Shin Kawada


有言実行する山下は永遠の憧れ


 元々子どもたちに体育を教えたいとの夢を抱いていた川田伸が、縁あって幼児活動に入社したのは30年以上前のこと。ちょうど地元の広島に新しく支部が開設される頃で、大阪支部にて研修を積んだ後、満を持して広島に着任した。

 当時、広島支部が契約していたのは2、3園のみ。そんな中、体育の指導をしながら自ら営業も行い、契約園を増やしていったという。人と話すのが得意ではなかった川田は営業に苦手意識を持っていたが、今でも印象に残っている出来事がある。

「園を訪問した際、脱いだ靴をくるりと回転させ、つま先が手前になるようにしまったのです。すると、偶然それが目に留まり、契約が決まりました」

 当時の川田には「指導では絶対に負けない」という自負があったが、それよりも社会人としての基本的な礼儀がなっていることを通して、良い人材だと感じてもらえたのだ。今では、幼児活動の社員全員が礼儀作法やマナーを持ち合わせている点が口コミで広がり、同社の大きな強みとなっている。

 だが、大きな失敗をしたこともあった。指導方法には自信を持っていた川田は、園の職員に異議を唱えて傷つけてしまい、園長先生から「何のために来ているんだ」とお叱りを受けたのだ。

「自分が認められることばかり求めて動いていましたが、私たちはあくまでも園のサポート。園の望んでいることに応えるべきなのだと気付かされました」

 それからは、園の方針に応じた独自のカリキュラムを作成。先生が要望していることには全て対応し、園を支えることを第一に考える指導者となった。

 川田が様々な経験を積み、本社で働き始めたのは6年前。IR活動や内部統制を主として任されることになった。当初は、支部で徹底されている挨拶や掃除を本社の社員ができず、愕然としたというから驚きだ。だが、事業部長として川田が社員を統べた結果、本社の社員にも礼儀が徹底されるようになった。

 社長の山下と頻繁に顔を合わせるようになったのも、本社で働き始めた頃からだ。

「山下は思ったことを何でもガツンと言うので、はじめは理解に苦しむこともありました。ですが、初めてお会いした時、お世辞抜きで本当に素晴らしい人だと感じたのです。当たり前のことかも知れませんが、彼は宣言したことを何もかも実行する。その姿を見て、この人にどこまでも付いて行こうと決めました」

 以前、山下がよく口にしていた言葉は、「お客様第一主義」。だが今は、社員が一番なのだという。「社員が楽しんで仕事をすることが、お客様第一に繋がる。だからこそ、お客様が望んでいることに、私たちが応えなくてはなりません」。自らの苦い失敗を振り返るようにして、川田は自分たちのあるべき姿を説く。

 まずは年商100億円の突破を会社の目標とし、自身の目標としても掲げる川田。有言実行できる山下の姿は彼の憧れだ。そんな山下からの信頼を受け、今日も仕事に邁進する。

「30年以上にわたり幼児活動で働いてきて、最も充実しているのは今ですね。社員全員が一丸となり、いかに経営計画書に記した内容を実行できるかに励むこの瞬間がとても楽しい」

 そんな川田は山下へ、「いつもありがとうございます。社長の背中を見て勉強させて頂いております。いつか認めてもらえるような男になるため、頑張ります」と熱い想いを語った。



日本を変える会社目指し邁進

取締役 事業本部長 久賀満雄 Mitsuo Kuga


 日本を変える会社目指し邁進


「経営理念を誰よりも理解して血肉化し、社員に実践させる男であれ」と山下から厚い信頼を受ける久賀。体育を教える仕事がしたいという想いから、幼児活動の採用試験を受け、入社に至った。

 山下との出会いは久賀が新人の頃。入社早々に大規模園の指導担当となり、その運動会に社長自ら出席していた。山下は「俺に付いてこい」と言わんばかりの絶対的存在だ。しかし一方で、仕事に関しては「見て覚えろ」という放任主義。それが久賀の成長にも繋がった。

 最初に所属した東京支部は本社の中にあり、新人の久賀を含めた4人で運営していた。当時は社員が少なかったため、一人ひとりの負担が大きく、一日3、4園の子ども達を相手に指導しなければならなかった。当時は各社員が別々の生活指導や準備体操を行っていたので、その統一を図るためにカリキュラムも作成した。ちょうど会社が変革期を迎えており、スーツ着用を義務化したり、入園時間を早めたりといった変化があった頃のことである。

 入社2年目で池袋、3年目には千葉と、関東を転々としていた久賀。東京支部にいた頃と違い、先輩の教え方がそれぞれ食い違うので、仕事にやりにくさを感じて転職を考えていたこともある。

「それでも辞めなかったのは、担当していた園児たちのおかげです」と久賀。実のところ、彼は子どもが好きではなかったが、関わっていくうちに可愛く思えてきたのだ。担当園から高い評価を得たことも、仕事を続ける理由となった。支部長から「朝一番で園に行け」と言われて実践していると、園長から「こんなに朝早くから来る先生は初めて」と称賛された。褒められたことで、俄然仕事に対するやる気が湧いたのである。積み上げてきた功績が認められ、入社5、6年目で支部長に昇格。「最も優秀な支部長」として表彰されたこともあった。

 支部長になってから数年後には、本社へ異動となり新規事業部を開設。提携幼稚園の空き教室を借り、2~3歳児を対象とした未就園児教室を開いた。未就園児が幼稚園入園相当の年齢になった暁には、それまで通っていた縁もあって提携した園に入園する確率は高い。少子化の時代でも幼稚園・保育園が未来の顧客を獲得できるような構図を作ったのである。

 今でこそ売上げの責任者とまで言われる久賀だが、契約を切られ、園に謝罪しに行った苦い思い出もある。その園とは「同じエリアにある他の園とは契約しない」という約束を交わしていたのだが、折悪く付近に得意先企業の新規園が建ってしまったのだ。結果、こちらとも契約せざるを得ず、先の園から怒りを買うことに。何度お詫びしても受け入れてもらえず、その園との契約は打ち切りとなった。

 声を震わせて泣きそうになりながら山下に報告すると、彼は「やるだけのことは精一杯やったのだから、その経験を次に生かせ」と久賀を励ました。「お前が最善と思うことをやれ」と口癖のように言っていた山下。

「最後は必ず社員をやる気にさせる。それが社長から一番学んだことです」と久賀は語る。

 入社以来、ずっと山下の背中を見続けてきた久賀。そんな彼の目標は、幼児活動を「日本を動かす会社」に成長させることだ。

「子どもは小さいうちに正しい生活習慣を身に付けておけば、大人になっても早寝早起き朝ごはんのサイクルが働くようになる。日本を変えていくためには、子どもの教育から変えていくのが一番。その見本となる会社を目指します」



教育への情熱、衰えを知らず

事業部 参与 鶴岡義彦 Yoshihiko Tsuruoka
教育への情熱、衰えを知らず


鶴岡が山下と初めて出会ったのは採用面接試験。第一印象は「なんだか暗い人」であった山下だが、子どもたちの前では全く別人のように輝く。一方、山下の鶴岡に対する印象も「こいつで大丈夫かな」。鶴岡は子ども受けするような顔ではないと思ったそうだ。

 鶴岡は、学生時代から教職を強く希望していたが、教員採用試験に失敗。進路に悩んでいたところ、高校時代の先輩から「幼児活動研究会で仕事をしながら、教員採用試験合格を目指すのはどうか」と提案を受けた。そんな腰掛気分で幼児活動に入社した鶴岡ではあったが、同社で働くうち、仕事の面白さに開眼。気が付けば30年が経過している。

 彼には忘れられない出来事がある。入社3年目に山下の後を受け、静岡のコスモスポーツクラブで教えていた時のこと。クラブに所属する男児が、床屋に行った際、「鶴岡カットにして!」と注文したことを母親から聞いたのだ。「この子は同じ髪型にしたいくらい、鶴岡先生のことが大好きなんですよ」。教員になる夢を追っていた鶴岡はハッと目が覚めた思いであった。

 その少年との交流は今も続いている。彼は大学卒業後、立派な官僚となり、結婚式に鶴岡を招いた。子どもが生まれると「鶴岡先生に教育をお願いしたい」と、わざわざ近くに引っ越しまでして、幼児活動の保育施設に通っているという。

 そんな鶴岡の印象に残っている会社の転機は10年目。かつての幼児活動は服装自由で、来賓を迎えるパーティの時ですらジャージやジーパン姿の者が目立った。そこで鶴岡をはじめとした社員数名は「先生と呼ばれる人間はそれなりの恰好をしていなくてはいけない」と社員手引書を作成。これにより、山下と社員の結束が固くなった。

 社外へ指導に出かける時はスーツを着用し、現地でジャージに着替える。指導が終わっても、5時までは園に残り、子どもたちと遊んだり、掃除や戸締りなどの手伝いをしたりする。「幼児活動研究会の指導員はきちんとした服装をしている。挨拶や手伝いもできていて、職員の見本になる」と喜ばれ、園長先生が他の園にも薦めてくれるようになり、契約は飛躍的に増えた。

 幼児活動では挨拶、清掃が当たり前。山下が率先して始めたトイレ掃除の徹底ぶりは、新入社員に驚かれるほどだ。トイレ掃除はきれいにすることだけが目的ではなく、気付く人間になるためだという。

 子どもたちが良くなれば将来の日本が良くなる。子どもたちが大人になり、親となり、また次の世代を育てていく。子どもの教育は、今現在だけの話に止まらない。「教育という仕事にもっと自信と誇りを持ってほしい」と鶴岡は説く。

 鶴岡の夢は常に子どもたちの教育に関すること。幼稚園時代に指導を受け、明るく努力家で礼儀正しかった子どもが、小学校に入学した途端、挨拶も片付けもできなくなる姿を何人も見てきた。「学力偏重ではなく、体育や道徳をきちんと教育できる学校、先生を作りたい」。鶴岡の若かりし頃の情熱は冷めていない。

 大学時代、仲の良かった面々はみな教員となった。入社当初は、自分の仕事を仲間に言えなかったという鶴岡だが、いつしか「教師という仕事も素晴らしいが、私はこんな仕事をしている」と自慢するようになった。話を聞いた仲間たちも「君の会社は素晴らしい」と口を揃える。

 山下に「日本の幼児教育のトップになってほしい。それだけの考えとノウハウを持っているのですから」と絶大な信頼を寄せる鶴岡。彼の熱量は、今後も多くの子どもたちを明るい未来へと羽ばたかせることだろう。



人をやる気にさせる天才

東日本事業部 部長  山口俊幸 Toshiyuki Yamaguchi
 人をやる気にさせる天才


「この人になら人生を預けても大丈夫だと思いました」

 山下の第一印象をそう語るのは、東日本事業部部長を務める山口俊幸だ。多くの保育園・幼稚園の先生と同様、幼い子どもに関わりたかったのかと思いきや、学生時代の夢は体育教師。しかし35年前、偶然にも山口は幼児教育の道へと進むこととなる。

 契機は自宅に届いた一通のダイレクトメール。体を動かして人に教えたいと考えていた山口は、山下が指導を行う幼稚園に出向くことを決めた。だが、当時はまだ大学生。スーツなど持っていなかったため、苦肉の策として学生服で赴いた。そんな山口に対しても、子どもたちは「先生!先生!」と駆け寄ってくる。この笑顔を見ているうち、幼児活動の仕事に惹かれていった。

「つらいこともありましたが、辞めたいと思ったことは一度もありません」と語る山口。しかし、乗り越えられたのは幼児の笑顔だけでなく、山下の存在が大きいだろう。そう感じさせるほど、山下は社員をよく見ている。普段の姿から感じ取ったことを、彼は手紙で伝えるのだ。社員としてこの上なく嬉しいことだが、なんと山口は額縁に入れて飾っているというから驚きだ。

「いつか山下に認めてもらえたと思えた時、感謝の気持ちを手紙に綴りたいですね」

 このように山下を慕う山口は「山下のことは親父だと思っています」と語る。山口の父が亡くなった時、心配した山下は葬儀に顔を出し、一言声をかけて帰っていった。山口の故郷は長崎。たった一言のために山下はわざわざ足を運んだのだ。山口は「喪主だからしっかりしないといけないと気を張っていましたが、山下の姿を見た瞬間に涙が溢れてきました」と懐古する。

 また、人としてだけではなく、上司としての姿からも山口は多くを教わった。「失敗を恐れるな」と言う経営者は多いが、失敗した社員に対する山下の態度は特徴的だ。自身の失敗体験を語りながら、その上でアドバイスを交える。失敗した社員に対して共感を示し、寄り添うことができる社長は稀であろう。

 山下の人を伸ばす秘訣はそれだけではない。山口に言わせてみれば彼は「人をやる気にさせる天才」だ。現在も年に1回は社内研修で直々に指導法を披露するが、今なお衰えることはない。園児に対しては、「よく出来たね、こうしたらもっと上手にできるよ」と褒めながらも、更に高みを目指すように促す。この両方をバランス良く出来る指導員はなかなかいない。子どもだけでなく、普段子どもたちを預かっている園までやる気にさせてしまうから頭が上がらない。

 もちろん、山下とて始めから指導が上手かったわけではない。山口が入社した頃の園長研修では、山下のキツい言い方に怒って帰ってしまう園長もいたほどだった。今でも口調は変わらないが、「子どもたちのために考えて欲しい」という山下の想いはしっかりと伝わっている。

 そのようなセミナーも功を奏し、右肩上がりの成長をしている幼児活動。しかし、山口は現状には満足していない。「もっと本物を追求したい。全国に2万ある全ての幼稚園・保育園から指名されるようになりたい」と意気込む。そんな山口も今年で57歳。「せめて私と同じ年の頃の山下に並びたいですね」。13年先を歩む山下の背中を追う男の目は、今日も未来を見据えている。



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