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トピックス -企業家倶楽部

2017年02月14日

幕末へかけて藩校続出/日本経済新聞社参与 吉村久夫 

企業家倶楽部2017年1/2月号 教育への挑戦~新しい日本人を求めて~ vol.5

財政危機でも開校

  幕府の昌平黌の隆盛の向こうを張って、諸藩の学校、つまり藩校が花盛りとなりました。俗に300諸侯と言いましたが、実に200余の藩が藩校を設立しました。まさに百花繚乱です。

 藩校の第1号は、岡山藩主池田光政が創立した岡山学校とされています。寛文9年(1669)のことでした。昌平坂学問所が正式に発足する前、まだ上野忍岡の林家の家塾だった頃のことです。

 戦国時代の遺風や遺訓だけでは、太平の世は処理仕切れないと判断したのでしょう。池田光政は儒学を学び、熊沢蕃山を登用したりして、藩政の改革に熱心でした。

 そこで教育が大事だと考え、いち早く藩の学校を設立したのです。彼は一般領民の教育も大事だとして、藩校設立の翌年には郷学として有名な「閑谷学校」も設立しました。

 その後、藩校の設立が増え始め、江戸末期には雨後の竹の子のように続出しました。これはもちろん、ペリーの黒船の来航が刺激材になっています。それだけではありません。この頃になると、諸藩の財政が逼迫し、藩政の改革が必至となっていました。

 藩政を改革するには、知恵と勇気のある人材が必要不可欠です。そこで各藩は競って人材開発に努めました。財政逼迫が教育投資を迫ったのです。お金がなくても、逆にそれだけに、藩校の設立、拡充を必要としたのでした。



地域的特色を発揮

  全国の藩校には共通項と同時に地域的な特色がありました。この地域的特色が、いま国策として注目されている地方創生の原動力となりました。藩はそれぞれの地方の歴史、風土、文化を背負っていました。この地域的な多彩な特色が明治維新のエネルギー源となったのです。

 そのことは幕末の各藩の攘夷開国、勤王佐幕をめぐる激しいしのぎ合いが証明しています。薩摩、長州、土佐、佐賀、会津、水戸といった雄藩がそれぞれ個性的に時代変化に対応して行ったのです。そのエネルギーを見て、諸外国は日本と日本人に一目も二目も置かざるを得なくなったのです。

 とはいえ、全国の藩校には共通項もたくさんありました。まずは漢学を中心としたことです。校名も多くは四書五経の名言から採用しました。だから、同じ校名がたくさんあります。例えば、弘道館、明倫館、時習館などなどです。

 もっとも、漢学といっても、幕府が正学とした朱子学を一様に採用したわけではありませんでした。陽明学も古学も折衷派もありました。藩はそれなりに学の独立を大事にしたのです。

 藩校にも起源、規模その他、各種各様がありました。領内の家塾から発展したものもあれば、重臣教育から出発したものもありました。規模も大小まちまちでした。雄藩のそれは城内、あるいは郊外に大きな敷地と立派な建物を持つものでした。

 藩校には学問だけでなく、武術を学ぶ部門もありました。通学するだけでなく、寄宿する寮もありました。生徒も今の小学生クラスから大学生クラスまでありました。藩士だけでなく、一般庶民にも門戸を開放するものがありました。

 時代が下がって幕末ともなると、漢学だけでは生徒の希望に応えられないので、藩校で洋学、医学、兵学なども教えるようになりました。藩校だけでは手狭なので、別途、独立した洋学、医学の学校を設立する藩も出て来ました。藩校は時代の変化に対応して行ったのです。



藩校運営の苦労

  藩校の運営は大変でした。血気盛んな若者の教育です。校則を守らせ、真面目に勉強させるためのいろいろな工夫が必要でした。生徒にしても藩校での成績が将来の役職に影響するのですから、勉強せざるを得ません。

 佐賀藩の弘道館では、なによりもまず無事に卒業することが大事でした。そうでないと、先祖からの 家禄を相続できないのです。しかし、藩主の鍋島直正は厳しいだけではありませんでした。彼は脱藩した若者たちを死罪にしませんでした。人材を温存したのです。おかげで江藤新平や大隈重信が明治新政府で大活躍することが出来ました。

 藩校の運営は学校奉行の担当でした。学校奉行には重臣が任じられました。彼らの最大の仕事は藩校の資金調達でした。

 資金の出所は藩主のお手元金もありましたし、藩校に所属する田畑の収穫であることもありました。藩校はそれなりの学田(知行地)を与えられていることが多かったのです。さらには藩士から教育税を納めさせる場合もありました。

 学校奉行は経済、経営感覚に優れた人でした。そのいい例を閑谷学校に見ることができます。津田永忠という人物がいました。彼は藩が財政難から学田を減らそうとするのに抵抗して、学田の永続を図ると共に、新田開発を行い、4万石余に相当する収穫を上げることに成功しました。

 津田永忠は65歳で隠居すると、閑谷学校の近くに居を定めました。隠居した後も閑谷学校の発展を見守ったのです。そうした先人の努力によって、閑谷学校は幾多の人材を世に送り出し、その講堂は国宝に指定され、今日なお岡山県青少年教育センター閑谷学校として生き続けています。



中学、高校として生存

  藩校は実に明治維新後も設立され続けました。それだけ藩校に寄せる人々の期待と愛着が強かったことを意味します。しかし、明治4年(1871)、廃藩置県によって、さしもの藩校開設もやっと終止符が打たれました。

 しかし、藩校が完全にこの世から消えてしまったわけではありませんでした。藩校は新しい教育制度の下で中学校となり、戦後は高等学校となりました。今に藩校の名前を冠した高校が存在します。福岡の修猷館高校などその最たるものでありましょう。

 有名な藩校の一つ、会津の日新館もその例に漏れません。会津落城の後、会津藩は青森の僻地に追いやられ、わずか3万石の斗南藩となりました。ところが、飲まず食わずの貧困状態の中で、日新館を再興しています。

 その日新館も廃藩置県で消滅します。しかし、人々はなけなしの資金を叩いて私立会津中学校を設立します。やがてそれが県立会津中学校(現在は会津高等学校)となるのです。校章は会津藩の旗に書かれていた「會」の字でした。

 江戸時代は封建制度の社会でした。藩校はその封建制度が生んだものでした。藩校は侍という当時の指導者層の教育機関でした。だから藩校なんて近代以前の「和魂漢才」時代の遺物に過ぎないと軽視する人もいます。

 しかし、そんな軽視で済まされるでしょうか。江戸時代は幕藩体制だったおかげで、地方が生き生きしていました。平和のおかげで、庶民の文化が栄えました。藩主たちは善政に努めました。庄内藩のように、領主の転封を領民が反対して阻止した例もありました。

 一つの時代は次の時代を準備します。江戸時代は明治時代を準備したのです。新時代の人は得てして前時代を批判します。しかし、前時代が現時代を準備したことを否定するわけにはいきません。謙虚に前時代の優れた点を学ぶべきです。

 内村鑑三は、封建制度が無くなったことで、いいこともたくさん無くなったと嘆きました。虚心坦懐に藩校の優れていた点に学び、今後の教育に生かして行くべきでしょう。

 近年、毎年、湯島聖堂で全国藩校サミットが開かれていると聞きました。懐旧のための会合ではないでしょう。藩校の優れた諸点を考究し、今後の日本人創りに役立てようというサミットだと思います。結構なことです。



Profile

吉村久夫(よしむら・ひさお)

1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「二十一世紀の落とし穴」など。



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