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トピックス -企業家倶楽部

2017年04月04日

藩校は一貫した全人教育/日本経済新聞社参与 吉村久夫

企業家倶楽部2017年1/2月号 教育への挑戦~新しい日本人を求めて~ vol.6

什の教えを斉唱

 教育は幼児、少年、青年と、人の成長段階に対応した一貫したシステムが必要です。近頃、小中一貫とか中高一貫とか、一貫校の試みが増えているのは、そのなによりの証拠でしょう。

 教育は最初が肝心です。一貫教育の中でも幼児教育がきわめて重要です。幼児は感受性や吸収力に富んでいます。幼児のうちに基本的な道徳観と読み書きソロバンを教え込むことが大事です。 子供は甘やかしてはなりません。鉄は熱いうちに打たなければなりません。子供は大人顔負けの能力を秘めているのです。幼時に覚えたことは生涯忘れません。幼児を信頼して指導することです。

 いい例が会津藩の「什の誓い」です。会津藩では、上級武士の子供は、藩校の日新館に入る前に「什」という小集団に入りました。彼らは什長の家へ行って遊び、一日の終わりに、什長の音頭で必ず「什の誓い」を斉唱しました。

「什の誓い」は次のようなものでした。

「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」「年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ」「虚言を言うてはなりませぬ」「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ」「弱い者をいじめてはなりませぬ」「戸外で物を食べてはなりませぬ」「戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ」。そして最後に「ならぬものはならぬものです」と斉唱します。

 理屈抜きに社会生活の基本ルールを叩きこんだのです。今となっては時代錯誤のものもありますが、いじめはならぬというのは今日大いに参照したいところです。侍というか人間の矜持を教え込んでいるのです。



郷中教育で鍛練

 不幸なことに戊辰戦争では、会津藩と薩摩藩は敵味方になりました。しかし、藩の教育という点では、お互い敵ながらあっぱれと、賛辞を交わすことができました。会津藩には什の誓いと藩校の日新館がありました。薩摩藩には郷中教育と藩校の造士館がありました。

 戊辰戦争に先立って、薩摩藩は英国艦隊と戦火を交えました。激しい戦いで、鹿児島の街は焼かれましたが、英国の艦隊もかなりの痛手を受けました。戦後、英国は薩摩藩の見事な戦いぶりに感心して、その原因を調べました。

 そして英国はその原因の一つが郷中教育による、青少年の心身の鍛練にあると知りました。このことがきっかけになって、その後、英国でボーイスカウトが生まれたのだと言われています。

 薩摩藩の郷中教育は郷単位に青少年が組織され、青年リーダーの下に連日、文武両道の鍛練に励むというものです。幕末には33の郷中が組織されていました。

 構成員は稚児(6、7歳から10歳)、長稚児( 11歳から14、5歳)、二才(にせ)( 14、5歳から24、5歳)、長老(24、5歳以上の先輩)です。今日の学校でいえば小中高大が一緒になっているのです。

 これらの青少年が二才頭というリーダーの下で日夜、いろいろな教育課題をこなして行くのです。学問もあれば武術もあります。卑怯者は軽蔑されます。文武両道の鍛練を積んで行くのです。

 西郷隆盛は下加治屋町郷中の二才頭でした。彼はこの頃から人望があり、多くの俊才に慕われました。その手腕が明治維新を成功させたのですが、人望の大きさが西南戦争につながったともいえるでしょう。

 郷中教育には欠点もありました。ボス中心になりがちで、かつ排他的になりがちだったことです。しかし、そうした欠点を補って余りあるほど、人材を輩出したことも事実です。それは幕末維新の歴史が証明しています。



議論倒れの水戸藩

 学問は大事ですが、議論好きが高じて、派閥が出来、内部抗争でエネルギーを使い果たしては、なんにもなりません。そうした不幸な例を水戸藩に見ることが出来ます。

 水戸藩はいうまでもなく徳川御三家の雄藩です。水戸光圀以来、大日本史を編纂して来た学問好きの藩です。幕末には、徳川斉昭という傑物の藩主が登場しました。その息子の一人が15代将軍になった慶喜です。

 水戸藩の藩校、弘道館も有名でした。しかし、藩校の設立は遅く、正式の開館式は安政4年(1857)のことでした。保守派が反対したのです。財政難もありました。昌平黌でいいじゃないかという考えもあったのでしょう。

「水戸っぽ」という言葉があるように、水戸藩の人たちは理屈っぽくて、かつ情熱的でした。主義に殉じる骨っぽい人たちでした。大日本史の編を通して尊王攘夷の思想を突き詰めた人たちでした。そこで大老井伊直弼を暗殺したり、天狗党の旗揚げをしたりしたのでした。

 しかし、同時に水戸藩は徳川御三家の一つであり、幕府を守る立場でもありました。保守派の人たちは佐幕派で諸生党を結成しました。藩内の政治思想が真二つに分かれたのです。その内部抗争が明治まで続き、有能な人たちの多くが派閥戦争で倒れてしまいました。

 内部抗争は他の藩でもありました。薩摩でも討幕派と公武合体派が殺し合いました。長州藩でも奇兵隊が主導権を握るまでに、内戦がありました。明治維新が成就するためには生みの苦しみがあったのです。しかし、水戸藩の内部抗争は長過ぎました。藩論統一に手間取ってしまったのです。

 もっと早く藩校が作られ、それを中心に一貫した全人教育が行われていればよかったのかも知れません。徳川御三家と大日本史の編纂という大事業がうまく調和出来なかったのかもしれません。

 幕末の水戸藩の有り様も、貴重な歴史資料として、私たちに課題を投げかけています。



革命には反革命

  私たちは水戸藩の長い内部抗争を嘲うことはできません。血みどろな戦いは困りますが、本来、正論には反論がつきものです。革命が成就しても、反革命がつきものなのです。

 その証拠に、明治維新という革命が成功した後も、士族の反乱が続きました。討幕の主力であった長州でも前原一誠の萩の乱が起きましたし、薩摩でも、あろうことか西郷隆盛をかついだ西南戦争が起きました。

 どうしてそうなるのでしょうか。物事には両面があります。政策一つとっても、それが100%正しいとは限りません。必ず副作用が生じるものなのです。幕府の寛政の異学の禁がそうでした。朱子学を正学としましたが、他の学説も一向に衰微しませんでした。逆に盛んになったくらいです。

 世論を考えてみましょう。世論はいろいろな意見で構成されるのが自然です。誰も異論を差し挟まない統一世論なんて迷惑なものです。戦前の軍国主義がそうでした。実は反対論は多かったのですが、それを口にすると「非国民」と一喝されたのです。

 会津藩の什の誓いや薩摩藩の郷中教育に見られたような、幼児から青年までの一貫した全人教育はきわめて大事です。社会の基本ルールや自己鍛練の必要性を教えてくれたからです。その結果、総合的な判断力が養成されたのです。

 こういうと、じゃあなぜ西南戦争が起きたのかという反論があるでしょう。西南戦争に殉じた人たちは、明治新政府のやり方に反対だったのです。反対行動が戦争になってしまったのです。

 しかし、同じ薩摩人でも新政府側についた人が大勢いました。西郷隆盛の弟の従道も従兄弟の大山巌も新政府に残り、明治維新を推進しました。戦争は忌避すべきですが、それぞれが志に従ったのです。このことは藩校の全人教育の成果だと言っていいでしょう。



Profile

吉村久夫(よしむら・ひさお)

1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「二十一世紀の落とし穴」など。



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