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トピックス -企業家倶楽部

2017年06月13日

松下村塾という奇跡/日本経済新聞社参与 吉村久夫

企業家倶楽部2017年6月号 教育への挑戦~新しい日本人を求めて~ vol.7

人が人を創る

 藩校ではありませんが、藩儒や藩士が開いた私塾もいろいろありました。中には塾主の強烈な感化力によって人材が続出し、明治維新をリードしたものがありました。その代表格はなんといっても長州藩の松下村塾です。

 松下村塾の例を見ると、教師の人格、学識、情熱、行動力が塾生たちに決定的な感化力を持つことがよく分かります。その結果、塾生たちがまたお互いに感化し合うのです。つまり、人が人を創って行くのです。

 そうした教師が吉田松陰でした。教育の力を考える時、吉田松陰という人物を考究しないわけには行きません。残念ながら、吉田松陰は戦前、神様のように崇められたせいか、戦後は軽視されて来たように思われます。

 吉田松陰は安政6年(1859) 10月、いわゆる安政の大獄で刑死しました。享年わずか30歳でした。その若さで高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎など、幕末維新の主役になった人たちを育てました。

 吉田松陰が松下村塾を主宰したのはわずか2年半のことでした。どんな指導をしたのでしょうか。彼はもっぱら、塾生たちと友達のように膝を交えて、激しく問答をしただけです。

 短期間にそれだけのことで、多くの人材が生まれたのです。なぜでしょうか。塾生たちが元々優秀だったからでしょうか。黒船襲来という時局がそうさせたのでしょうか。

 それもあったでしょう。しかし、松下村塾の奇跡はそれだけで生じたわけではありませんでした。なんといっても吉田松陰の持つ磁力と感化力がものをいったのです。



兵学者松陰

 吉田松陰は長州萩藩の下級武士杉家の次男に生まれました。名前は寅次郎です。5歳の時、叔父の吉田大助の養子になりました。吉田家は山鹿流の兵学師範の家柄でした。吉田松陰の原点は兵学者になるべくして育ったことです。

 寅次郎は吉田家を相続したものの、まだ幼かったので、実家の杉家で暮らし育ちました。杉家は貧しいけれども愛情に満ちた大家族でした。松陰は生涯、家族愛に恵まれました。

 その一方で、実父の杉百合之助や叔父の玉木文之進から厳しく教育されました。特に叔父の指導は厳しく、兄弟たちは松陰に同情しました。玉木文之進は後、前原一誠の萩の乱の責めを負って自刃します。自分にも厳しい人でした。

 寅次郎は秀才でした。実父、叔父の薫陶もあって、10歳の時、藩校の明倫館で兵学の講義をしました。その後も藩主の前で、しばしば兵学を講義しました。藩主はそれを聞いて、松陰の人柄、識見を深く愛するようになりました。

 家学の後見人として山田宇右衛門、山田亦助らがいました。松陰は彼らから国際情勢を学び、日本の国防が容易ならざる状態にあることを知りました。松陰は自分が勉強して、お国の役に立たなければならないと考えました。

 松陰20歳の時、藩は海防のため、松陰に領内海岸線の視察を命じました。さらに翌年、松陰は海防の現地視察のため九州へ遊学します。これを手初めに、松陰は津軽まで実地見聞します。しかも、脱藩の罪を犯してまでです。そしてついには、米国軍艦に乗り込もうとするのです。

 松陰の知識吸収力は旺盛でした。後年の「野山獄読書記」によると、獄中の1年9カ月の間に約900冊の本を読破しています。読書の対象は、中国、日本の史書、農学を含む経済書、各種詩文、郷土史資料などに及んでいます。しかも、内容を要約筆記しているのです。

 松陰は机上の学問だけでなく、現地視察に熱心で、外国の知識を得るため密航しようとまでしました。「和魂洋才」の先駆けです。一方、国内では多くの識者と交遊しました。佐久間象山、梅田雲濱、安積良斎など枚挙にいとまがありません。


兵学者松陰

教育者松陰

 松下村塾は元はと言えば、松陰の叔父でかつ師である玉木文之進が天保13年(1842)に開いた家塾でした。そして松陰の死後も断続的に開塾され、明治25年(1892)まで存続しました。実に半世紀存続したのです。

 吉田松陰が松下村塾を主宰したのは安政3年(1856)から同5年にかけての実質2年半のことでした。しかし、松下村塾といえば異口同音に吉田松陰ということになります。その理由は、松陰が主宰した2年半が塾の最盛期で、人物が輩出したからです。

 松陰時代の塾生はおよそ100人でした。最初は8畳間一つの教場でしたが、入り切れなくなって10・5畳の間を増設しました。塾生皆で力を合わせて作った話は有名です。松陰は病気療養を理由に実家に預けられた罪人でした。

 それでも前途有為の若者たちが押し寄せてきたのです。若者たちは未来を切り開く術、国難を打ち払う術を求めていました。松陰の識見、実行力、それに人柄が彼らを魅了したのです。吉田松陰は天性の教育者だったのです。

 松下村塾は開かれた塾でした。塾生は武士に限りませんでした。志を聞かれることはありましたが、入門は自由でした。決まった授業料もありませんでした。開始の時刻も決まっていませんでした。徹夜で議論しても構いませんでした。

 基本的に自由なのです。テキストもその人に応じて松陰が選びました。そして松陰も一緒になって読み、かつ議論をしました。寺子屋のようでもありましたし、大学のゼミのようでもありました。

 そうやって松陰は、塾生の天分を鋭く見抜きました。例えば、伊藤博文こと俊輔について「周旋の才あり」と、政治家としての素質を早くから指摘していたのは有名な話です。



思想家松陰

 松陰は思想家でした。その思想は万巻の書物、現地調査、人物交流などを通じて、つまり情報収集の結果、形成されたものでした。その思想を情熱的に語って、友人としての塾生に迫るのです。俊才たちは感応しないわけがありません。

 では、松陰の思想は何だったでしょうか。それは道義という普遍的な道徳に基づいて、忠義という行動を起こすことにありました。天下は天下のものであり、幕府の私有物ではありません。幕府は勝手に諸外国と通商条約を結ぶべきではないのです。

 そこで松陰は安政の大獄を引き起こしつつある井伊直弼の片腕、間部詮勝を襲撃する計画を立てます。血気盛んな門弟たちも、さすがに二の足を踏んで、止めにかかります。松陰は反論して手紙を書きます。「僕は忠義をする積もり、諸友は功業をなす積もり」。

 幕府を倒して国防を一新するには、民間の志士が一斉に蜂起しなければなりません。松陰はそう考えて、その先駆けの捨て石になろうと覚悟を決めたのです。「地位も名誉も命も要らぬという人でなければ大事はできない」(西郷隆盛遺訓)のです。

 結果、松陰は30歳で刑死します。覚悟の死でした。いわば殉死です。明治維新は師の死を乗り越えた松下村塾の塾生たちが中心的な役割を演じました。

「かくすればかくなるものと知りながら已むに己まれぬ大和魂」。これは黒船密航に失敗し、江戸に護送される松陰が詠んだ歌です。90年後、日本は「かくすればかくなるものと知りながら」太平洋戦争に突入したのでしょうか。

 そんなことはないはずです。松陰はもっと識見と勇気がありました。不幸にして、史上初の敗戦が、吉田松陰の評価まで狂わせてしまいました。




Profile

吉村久夫(よしむら・ひさお)

1935年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「歴史は挑戦の記録」など。



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