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トピックス -企業家倶楽部

2017年07月25日

全国一の私学、咸宜園の魅力/日本経済新聞社参与 吉村久夫

企業家倶楽部2017年8月号 教育への挑戦~新しい日本人を求めて~ vol.8

休道の詩

「咸宜園」(かんぎえん)とは難しい塾名ですが、中国古典の『詩経』から来たことばです。「ことごとくよろしい」という意味で、自由な学園であることを謳っています。

 江戸時代は官学だけでなく私学も盛んでした。私学も寺子屋ともなると全国にたくさんありました。咸宜園は堂々たる漢学塾で、全国一ともいえる代表的な私学でした。

 咸宜園を創設したのは、大分県日田の広瀬淡窓という人でした。つまりは淡窓の私塾です。咸宜園の果たした役割の大きさに着目して、文化庁は日本遺産に取り上げました。

 広瀬淡窓は漢学者ですが、同時に詩人でした。有名になったのはむしろ詩人としてだったと言っていいでしょう。有名なのは「休道の詩」です。今日でも、高校の教科書に取り上げられています。

 それはこういう詩です。現代語読みすれば「道(い)うことを休(や)めよ他郷辛苦多しと。同胞友有り自ずから相親しむ。柴扉暁に出れば霜雪の如し。君は川流を汲め我は薪を拾わん」。

 各地から集まってきた寮生たちが、お互いに切磋琢磨して自治の生活を送っている有り様が彷彿としてきます。淡窓は普通の漢学者と違い、塾生にも作詩を勧めました。

 淡窓は詩についてこんなことを書いています。「人の心には意と情がある。詩は情から生まれるものである。詩を作る人は温潤である。詩を好まない人は酷薄である。情のない人は木石と同じである」。

 淡窓のこうした人間観が、全国の若者たちを魅了したのかも知れません。咸宜園に学ぶ若者は通算4000人を突破したのです。


休道の詩

多病の学者

 広瀬淡窓は天明2年(1782)、日田の豆田町の商家に生まれました。長男です。広瀬家は代官所に出入りする御用商人で博多屋と言いました。父は5代目で俳号を桃秋と言いました。

 日田は天領で、九州を統括する代官所がありました。代官所に出入りする商人はいわば特権商人でした。世に知られた日田金を扱いました。代官や諸藩とつきあいますから、それなりの教養を求められました。

 父の兄は4代目で俳号を月化と言いました。若くして隠居し、風雅の道を楽しみました。広瀬淡窓は2歳の時から6歳まで、この伯父夫婦の下で大切に育てられました。

 淡窓は多病の子供でした。家にいて書を読むことを好みました。幼くして漢学を学びました。また早くから詩歌に親しみました。11歳の時、高山彦九郎が訪れ、淡窓の歌才に驚いて一首を詠んだほどです。

 淡窓の生涯は病気の生涯でした。時には瀕死の状態にもなりました。2歳下の妹のアリが兄の長命を願って青春を捧げたほどです。しかし、病弱であることは、淡窓の学問向上にプラスにも働きました。

 淡窓は1冊の本を大切に読みました。そして思索を重ねるようになりました。その結果、特定の学派に片寄らず、淡窓自身の思想の世界を築くことができました。彼は自然も人も天命の下にあると考え、敬天の思想を持つようになりました。

 もちろん、彼は時勢にも十分関心を払いました。開国は当然のことと考え、農兵の必要性を論じました。シーボルトのスパイ事件には、科学者である以上、彼が資料収集に努めたことは当然の行為だとしました。学者としての客観的判断を貫いたのです。



教育者の道

 淡窓が広瀬家の6代目を継ぐことは健康上、許されないことでした。幸い、跡継ぎには弟の久兵衛が控えていました。淡窓は学者になるか医者になるか、自分の進路を決めかねました。そこで学者で医者の恩師、倉重湊に相談しました。

 
 倉重湊は「何を迷っているか」と淡窓を一喝しました。そして「君の進む道は教育者に決まっているじゃないか」と断定したのです。淡窓は現に門弟を持ち始めてもいたのです。淡窓の迷いは吹っ飛びました。23歳の時でした。

 淡窓はその後、成章舎、桂林園を経て36歳の時、咸宜園を創立しました。その後40年生き、安政3年(1856) 11月、75歳で没しました。教育者になったことで、咸宜園という日本遺産を残したのです。

 淡窓は13年の塾経営の経験を基に、彼独自の学園経営を行いました。それは一口に言うと「自由と規律」「平等と実力」「自治と義務」と言ったものでした。

 咸宜園は紹介者があれば、誰でも入門できます。卒業も自由です。全員が集まって行うような入学式や卒業式はないのです。しかも、入門すると、三奪の法と言って、三つのことを放念しなければなりません。それは年齢、学歴、身分です。皆その三つを忘れて、実力を競うのです。

 自由ですが、規律はあります。血気盛んな若者たちです。淡窓は学則をいろは歌にしたりして、規律の大事なことを教えました。同時に自分も生活を律するため、万善簿という日誌を書いて、善行を励行しました。

 天の下、人間は平等ですが、実力は別です。塾生は懸命に努力して勉学の実力を上げなければなりません。淡窓は毎月、月旦表という成績表を作って発表しました。うかうかしていると、入門間もない若い塾生に追い抜かれてしまうのです。

 学園は自治が原則です。塾生は各自、塾運営の任務を分担します。これを職任と言いました。机上の学問だけでなく社会の実務を覚えさせようというのです。「君は川流を汲め我は薪を拾わん」というわけです。

 勉強一本槍かというと、そうでもありません。「放学」といって、休日にして皆で小旅行を試みたりもしました。緩急自在の勉学でした。



家難を排除

 淡窓は官の干渉を「家難」といって嫌い、排除に努めました。代官の中には、咸宜園を自分の業績にしたいと思う者もいて、淡窓を代官所の用人に取り立てたりしました。

 淡窓にしてみれば、学問はあくまで自由で独立したものでなければなりません。しかし、実家は代官所の御用商人です。代官所を無視することは出来ません。淡窓は「家難」に悩みました。

 日田は山間の僻地です。そこへ全国から入門者がやって来たのは、日田に代官所があって、内外の情報が集まって来るせいでもありました。代官所の存在は咸宜園存立の利点でもありました。

 いろいろな塾生がやって来ました。高野長英、大村益次郎、清浦奎吾、朝吹英二などなど。著名ではなくても、月旦表で鍛えられた咸宜園出身者は、各界で指導的な役割を果たしました。

 咸宜園は淡窓の死後も明治初年まで存続しました。この間に4112名の入門者がありました。うち淡窓時代が最も多く2915名を数えました。やはり咸宜園といえば広瀬淡窓でした。

 幕末に私学の雄であった咸宜園はなぜ近代的な大学に変身できなかったのでしょうか。幕府が無くなり、日田が九州の中心地で無くなり、御用商人たちも資金的余裕を無くしたせいでしょうか。

 咸宜園は漢学塾でした。「和魂洋才」の時代が訪れ、洋才学校へ転換することが至難だったせいでしょうか。いずれも理由としては十分考えられることです。

 しかし、最大の理由は広瀬淡窓が安政の大獄を前に亡くなったことです。病弱ながら長命でしたが、これから時代が大転換するという時でした。教育は教育者次第です。淡窓があと半世紀生きていればと、ならぬ仮定をして見たくもなります。




Profile

吉村久夫(よしむら・ひさお)

1935年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「歴史は挑戦の記録」など。



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