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トピックス -企業家倶楽部

2017年10月17日

信長に学ぶ偉大な企業家精神/APRA議長 臥龍こと角田識之

企業家倶楽部2017年10月号 伸びる企業家は歴史や偉人に学ぶ vol.6





 7月18日、臥龍は大きな感動に包まれました。第19回年間優秀企業家賞の授賞式で語られる受賞者の皆さまの言霊スピーチに痺れました。大きな志、革新的なビジネスモデル、そして凄まじい気迫、審査委員長であるジャパネットたかた創業者、髙田明氏の「ミッションなくして経営なし、パッションなくしては夢は叶わない」を、地でいく方々ばかりでした。受賞者のお一人、農業総合研究所・社長、及川智正氏の「企業家は自分が正しいと思うことを貫く、評価は亡くなってから勝手にしてくれ」を聞きながら、臥龍の脳裏には、織田信長が浮かんでいました。臥龍の勝手評価かもしれませんが、日本の偉大な企業家第一号は信長ではないでしょうか。泣かぬなら殺してしまえ ほととぎす」は本当?

 
 信長は、NHKの大河ドラマ登場回数では、群を抜く人気度です。そして演じる俳優は、何故か無表情で声のトーンは低く、冷酷なイメージを醸し出しています。それを観ながら臥龍は、“ただ冷酷なだけの人物に、あれほど多くの人々が付いていくものだろうか?”と疑問を感じました。有名なざれ句に「泣かぬなら殺してしまえ ほととぎす 信長」「泣かぬなら鳴かせてみよう ほととぎす 秀吉」「泣かぬなら鳴くまで待とう ほととぎす 家康」がありますが、元ネタは江戸時代後期の「甲子夜話(かっしゃわ)」です。江戸時代、神君家康公を称えなくてはなりません。かといって信長公を悪く言う訳にはいきません。そこで、信長公は偉大ではあったが性格は残虐、比べて家康公は辛抱強いというイメージを創ったのです。先入観念は怖いです。

 
 こういうエピソードがあります。美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の関ケ原町山中)に、「山中の猿」と呼ばれる障がい者の男が街道沿いで乞食をしていました。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長は、これをたびたび見て哀れに思っていました。天正3年(1575年)6月、信長は上洛の途上、山中の人々を呼び集め、木綿20反をこの者に与え、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と人々に要請します。山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙したそうです。

 
また来客をもてなすために、自らの手で食膳や茶皿を運んだり、羽柴秀吉が正室である「ねね」に対して辛く当たっていることを知ると、「ねね」に対して励ましの手紙を送っています。また「ねね」から、夫の女遊びの愚痴を聞くと、わざわざ秀吉を呼び出し叱ったりしています。信長は、この時代に珍しくフェミニストでした。縁組させていった自分の娘たちは、個人的にも親交のある前田家、丹羽家、少年時代から面倒を見てきた蒲生氏郷などに嫁入りさせたので、信長の死後も、娘たちは夫から大事にされ続けています。この当時の家中記録で、女性の名前が記されるのは珍しいのですが、織田家関連の女性たちは、本名で正確に記録されている人が実に多いのです。あるいは、進軍中に荷物を担いでふらふらしている足軽を見て、侍大将を呼び出し、「お前はこれを自分で担いでみたのか?自分で担げない荷物を部下に担がせるものではない」と言っています。何とも細やかな気配りの人だったのです。そして臥龍が、信長を偉大な企業家と見る理由は、以下の三点からです。

 
(1)志・使命感・目的が明確信長は、岐阜城を構えた

33歳の頃より、「天下布武」の朱印を使用しています。これは臨済宗の沢彦宗恩(たくげんそうおん)の創作です。信長は宗恩に対し、「私が天下を治めた時、朱印が必要となる。前もってご朱印の字を頼みたい」と依頼し、出来上がった「天下布武」を見て、「私の考えそのものの字である」と大層喜んでいます。戦国大名は、当時、約140人いましたが、ほとんどは自国の領土安堵を第一に考え、天下統一を明確に目指した大名は、信長だけといっても過言ではありません。「天下布武」とは、自分がこの乱世に終止符を打ち、天下を治めるという宣言です。岐阜という中小企業の社長が、天下を獲るという宣言をしたのです。

 
そこからの信長は、「天下布武」のただ一点を見つめ、最短距離を一直線に猛進します。室町幕府から関東管領という名誉職を打診されたときも、京都上洛には邪魔な肩書きということで断っています。地域の名誉職を喜々と受けるようでは、上場はできないのと一緒です。また、自分の領土にしがみつく大名が多い中、切り取っていく領土は惜しみなく部下に与えていきます。目的に向けて一直線、現代企業家も、「天下布農」「天下布電脳」などに一直線なはずです。

 
(2)発想無限・戦略無限

 
信長の「天下布武」を達成するための打つべき手は、それまでの固定概念を打破した、画期的なものでした。農家兼業の兵では天下は取れないと日本初の常備軍隊を創り、その財源は経済特区の楽市楽座で賄い、武田騎馬軍団を打ち破ったのは当時世界最強であった鉄砲隊、火矢を駆使する瀬戸内最強の村上水軍を打ち破ったのは世界初の鉄の軍艦でした。発想無限であれば、戦略は無限なのです。

 
信長の柔軟発想がよく伝わるエピソードがあります。信長は大の相撲好き、安土城を開放して住民も楽しめる相撲大会を開催します。しかし、帰り道に群衆が集中し、死傷者が出てしまいました。敵の侵攻を考え、道路は意外に狭かったのです。信長は、部下に何とかしろと命令しますが、上がってきた案の多くは土木工事が伴うものでした。信長は、「お前たちの頭は固いなあ。群衆がいっぺんに帰らないように、土俵上で何か気を引くイベントをすればいいではないか?」といい、生まれたのが今に続く「弓取式」です。

 
(3)人間的魅力

 
冷徹なまでの戦略思考に対して、先述した人情味エピソードの落差、臥龍の体験から見ても振れ幅が大きい人、イコール器量が大きい人は、人間的な魅力に溢れています。しかし、振れ幅が大きいといっても、そのときの利(得)だけを考え、ポリシーをコロコロ変えるようでは、人望は離れていきます。信長の生き方は、軸は定まり、筋も通っているものでした。この戦国乱世にあって、信長の側から盟約・和睦を破ったことは一度も無いのです。足軽出身の木下藤吉郎(羽柴秀吉)、浪人の明智光秀、忍者出身といわれる滝川一益などを家柄にこだわらず登用していますが、武士階級出身とそれ以外(小者、町人、農民等)、または文化人は明確に分けて登用、運用しています。いい悪いは別として、自分なりの美学を持っていることは、明確に伝わってきます。 信長は、戦国大名の中では珍しく、軍師がいませんでした。それくらいの天才でした。しかし、自己過信はいけません。横に軍師が付いていれば、「殿、本能寺は余りに不用心」と進言したかもしれません。「天才的な企業家といえど、奢ってはならない。衆知を集めよ」、これが信長公が、私たちに最後に発した教訓かもしれません。



Profile

臥龍(がりゅう:wolong ウォロン)こと角田識之(すみだのりゆき Sumida Noriyuki)

APRA(エープラ)議長&一般社団法人「志授業」推進協議会・理事長

「坂の上の雲」の故郷、愛媛県・松山市生まれ。23歳のときに「竜馬がゆく」を読み、「世界の海援隊」を創ることを志す。人の幸福を主軸とする「人本主義思想」の素晴らしさを経営の場で実証推進する和僑(日本)と華僑(台湾・上海)合同の勉強会「APRA(エープラ)」を設立し、日本全国そしてアジア太平洋各国を東奔西走中。最近では、一般社団法人「志授業」推進協議会の理事長として、小中学生の大志確立を支援する「志授業」の普及、民族肯定観を上げるための「歴史・偉人」の講話にも注力中。詳細は「志授業」でご検索ください。



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