2017年10月27日
密航した海外留学生たち/日本経済新聞社参与 吉村久夫
企業家倶楽部2017年10月号 教育への挑戦~新しい日本人を求めて~ vol.9
黒船来航で、学問の世界は漢学から洋学へと進みました。洋学も蘭学から英学へと移って行きます。幕府も藩も洋学を取り入れないわけには行かなくなりました。
ここにいい例があります。佐賀藩の大隈重信です。彼は朱子学一本槍の藩校の弘道館にうんざりしました。そこで蘭学校へ移籍します。それでも満足できずに、藩が長崎に開いた英学塾の致遠館へ入りました。
彼は入ったというより実は、英学塾の開設に一働きしたようなのです。大隈は副島種臣と共に、教師のフルベッキに目をつけられます。たちまち教師側に回りました。
大隈重信は後年、タカジアスターゼを発見した高峰譲吉に英語を教えたことを自慢しました。致遠館は広く他の藩にも門戸を開放した英学塾でしたから、加賀藩の譲吉も入門していたのです。
大隈はフルベッキの下、聖書や外国の憲法、米国の独立宣言などを勉強しました。その甲斐あって明治初年、キリスト教徒迫害問題で英国公使パークスと堂々渡り合います。それが出世の糸口でした。
大隈に限らず、心ある若者たちは洋学、それも英学を学んで、新時代に志を遂げようとしました。慶応義塾を創設した福沢諭吉も適塾で蘭学を学びましたが、英学へ転身した一人です。
大隈や福沢が蘭学から英学へ進んだことは確かですが、だからといって蘭学塾の果たした役割を軽視するわけにはいきません。蘭学の素養があったから、英語に入り易かったのです。さらにいえば、漢学を修めていたから、洋学に入り易かったのです。
医者を志す人は出島にオランダ人がいる長崎へ行って修行しました。オランダ商館付きの医者がいたからです。中でもシーボルトが有名でした。彼は文政7年(1824)、長崎郊外の鳴滝に私塾兼診療所を開きました。鳴滝塾です。
彼は西洋医学だけでなく自然科学の講義もしましたから、門下に秀才たちが集まって来ました。高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、戸塚静海といった人たちです。
文政11年(1828)、シーボルト事件が起きました。シーボルトが帰国する際、日本地図その他国禁のものを持ち出したという罪に問われたのです。弟子たちも糾問されました。しかし、シーボルトは後に許されて再び訪日しています。
鳴滝塾から14年遅れて天保9年(1838)、蘭方医の緒方洪庵が大阪に適塾を開きました。これまた秀才が集まって来て、医学に止まらず、兵学その他の勉強をしました。大村益次郎、福沢諭吉、佐野常民、長与専斉といった人たちです。
文久2年(1862)、緒方洪庵は幕府の奥医師、西洋学問所頭取として江戸に招かれ、翌年死去しました。適塾も明治元年(1868)廃止されました。今日、適塾は大阪大学医学部の前身とされていて、適塾記念センターを開いています。
前回、日田の咸宜園を紹介しましたが、同塾の出身者の名前が鳴滝塾にも適塾にも出て来ます。彼らは漢学も洋学も学んだのです。大村益次郎などは医学ではなく兵学者として幕末の討幕戦争を指揮したのでした。
百聞は一見にしかずと言います。心ある若者たちは国禁を犯しても、海外に留学したいと考えました。吉田松陰が米国艦隊に乗船して、米国へ密航しようとしたようにです。
幕末になると、密航に成功する若者たちが出て来ました。彼らはそろってロンドンに留学しました。手助けしてくれる英国人がいたのです。それに藩も黙認しました。中には藩自身が密航を計画する例もありました。
文久3年(1863)、長州藩の武士5人が密航して英国へ行き、ロンドン大学で学びました。彼らは「長州ファイブ」といわれました。その名は井上聞多(後に薫、外務大臣)、伊藤俊輔(後に博文、総理大臣)、山尾庸三、遠藤謹助、野村弥吉です。
翌年、井上、伊藤は新聞で、下関が外国軍艦に襲撃されそうだと知って急遽帰国、開戦回避に努めました。しかし失敗。戦後の和平交渉で通訳を務めました。
慶応元年(1865)、こんどは薩摩藩が藩自ら密航を計画しました。20名の訪英使節を派遣しようというのです。五代友厚の献策によるものでした。
20名のうち15名は留学生でした。彼らは偽名を名乗って出発しました。そろってロンドン大学に入学します。彼らは「薩摩スチューデント」と呼ばれて、学内外の注目を浴びました。
2年半後、彼らは明治維新を知って、米国を回って帰国します。新知識の彼らは外交、行政、教育などの分野で活躍しました。例えば、森有礼は初代の文部大臣になりました。米国に残った長沢鼎はカリフォルニアでワイン王になりました。
「長州ファイブ」を世話したのはジャーディン・マセソン商会、「薩摩スチューデント」を世話したのはグラバー商会でした。いずれも英国系です。彼らは軍艦や銃砲を扱ういわば「死の商人」でしたが、向学心に燃える若者の支援者でもあったのです。
薩摩留学生が出発する前年、長州の高杉晋作が伊藤博文の案内でグラバーに会い、英国への留学を希望したことがありました。これは実現しませんでしたが、高杉は本格的に海外で勉強し直したかったのでしょう。
彼は文久2年(1862)に機会があって上海へ行き、中国の悲惨な現状を見て来ました。日本が中国の二の舞になってはならないと、保守派の藩に叛旗を翻して奇兵隊を創り、藩の主導権を握ったのでした。
明治4年(1871)、出来立ての明治新政府は岩倉具視を全権大使に、木戸孝允、大久保利通らを副使とする大掛かりな欧米視察団を1年10カ月に渡って海外に派遣しました。実に思い切った政府ミッションです。
こうした大胆な政府視察団の派遣に踏み切ったのは、不平等条約を改正したいという狙いもさることながら、政府首脳自身が海外現地情報を視察して、その成果を新政策に反映させなければならないと考えたからでした。
密航しても海外に行き、現地で学ばなければならないと考えた「長州ファイブ」や「薩摩スチューデント」の情熱が明治新政府にも受け継がれていたのです。
その後、明治新政府は留学生の派遣だけでは不十分だとして、欧米諸国から各分野に外人教師を招きました。いわゆるお雇い外人教師です。その中には「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の言葉を残した札幌農学校のクラーク博士もいました。日本人は海外の新知識を素直に受け入れました。受け入れて、さらに日本的な工夫を加えました。昔、仏教を受け入れたように、柔軟な好奇心を発揮したのです。
今日はグローバルな社会です。グローバルに通用出来る人物が求められています。英語の習得が必修になっています。小学校から英語を習得させようという気運です。
しかし、海外留学生は減って来ています。企業でも海外駐在に二の足を踏む若者が増えて来ています。これはいったい、どうしたことでしょう。インターネットで海外情報は十分収集できるということでしょうか。
でも、ここで「百聞は一見にしかず」という先人の格言を思い出す必要があります。蘭学から英学へ、そして密航してもロンドン大学へ、と向学心を燃やして行った、幕末の若者たちのことを思い出す必要があります。
Profile
吉村久夫(よしむら・ひさお)
1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「歴史は挑戦の記録」「鎌倉燃ゆ」など。
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