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トピックス -企業家倶楽部

2017年11月20日

基礎教育を担った寺子屋/日本経済新聞社参与 吉村久夫 

企業家倶楽部2017年12月号 教育への挑戦~新しい日本人を求めて~ vol.10

身近にあった私塾

 江戸時代の子供たちは早く「一人前」になることを求められました。「一人前」とは、ちゃんとした職業を持って、妻子を養える大人になることです。それは侍でも町人でも、最低必要なことでした。人は自立しなければならないのです。

 その要望に応えて登場したのが寺子屋でした。関西では手習塾、手習所といわれました。それは子供の足で通える所にありました。つまりは近所にあったのです。町に一つはあったといっていいでしょう。

 寺子屋、手習塾は全国で5万以上あったと推定されています。今日の小学校の倍くらいあったのです。この小さな私塾が幼少児の基礎教育を担ったのです。内容は端的にいえば、しつけと読み書きソロバンでした。

 藩にも幼少児教育はありました。いい例が会津藩の「什」の教育です。しかし、これは上級武士の子弟が対象でした。つまり、将来リーダーになる人のための基礎教育です。一般の侍の子供は、家で父兄から素読を習うか、寺子屋へ通って庶民と机を並べて勉強したのです。

 寺子屋は一口にいって、しつけと読み書きソロバンの学校でした。女子は裁縫も習いました。先生はお師匠さんと言いました。女のお師匠さんもいました。お師匠さんは大変尊敬されました。

 丁稚奉公に行くにしても、読み書きソロバンは必修科目でした。もちろん、家が貧しくて寺子屋に通えない子供もたくさんいました。しかし、この寺子屋の普及が取りも直さず、児童たちの基礎教育の普及を意味しました。

 藩校がサムライの教養を高めたように、寺子屋は庶民の識字率を高めました。幕末ごろの日本人の識字率は8割と推定されています。幕末に日本を訪れた外国人は日本人の知的水準の高さに驚きました。

 彼らは日本は民族自決力があり、自立できる国だと見たのです。これが幕末維新の内戦で、諸外国に中立を守らせた原因でした。教育は最大の防衛力だったのです。



幼児教育への関心

 江戸時代には今日のような義務教育制度はありませんでした。しかし、人々は幼少児教育にきわめて熱心でした。当時は、医療制度も未熟でしたから、たくさん子供が生まれても、たくさん死んで行きました。

 そこで人々は子供が健康にいい子に育つことを願いました。そこで胎教という考えが広まりました。まだ生まれる前から、胎教に気を使ったのです。それはなにも母親だけとは限りませんでした。側にいる父親も行いを正す必要がありました。

 当時は実の親同様、仮親を大事にしました。いきおい一人の子供にたくさんの親がいました。名付け親、抱き親、乳母、里親、烏帽子親といろいろです。大人たちが気を使って、親子関係の絆を多様に作るようにしたのです。

 子宝という言葉があるように、子は宝ものでした。そこで大人たちは他人の子供でも、自分の子供同様に、子育てに気を使ったのです。悪い子は叱り、いい子は褒めました。

 教育は本来、社会全体が責任をもって行うものなのです。そうでないと、えこ贔屓がはびこり、裏表のある子供が育って行きます。いじめなんかも常態化します。江戸時代の人は無学の人でもそうした社会の基本ルールを理解していたのです。

 それだけではありません。三つ子の魂百までとか、栴檀は双葉より芳しとか、鉄は熱いうちに打てとか、いろいろな格言がありましたから、幼児教育が大変重要であることを知っていました。

 そういうわけで、大人の大半は幼少児の教育に熱心でした。それが胎教の考えを生み、おびただしい数の寺子屋、手習塾を生んだ基本的な背景でした。

 今日、学習塾が盛んなのも、いろいろ問題があるとはいえ、親たちが子供たちの教育を大事と心得ているなによりの証拠ではありましょう。



寺子屋の風景

 江戸時代は文科省や教育委員会なんてものはありません。義務教育制度その他、こと細かな法令もありません。寺子屋も寺子屋法なんてものはありませんから、比較的自由に運営されていました。

 当時のものの本や描かれた絵などから、寺子屋の風景を覗いて見ることにしましょう。2 、30人くらいの子供が入れる部屋があります。手習い机が並んでいて、手習い子(筆子とも言いました)が思い思いの格好をしています。

 本を読んでいる子もいれば、居眠りしている子もいます。中には隣同士でふざけ合っている子もいます。かと思うと書を習っている子もいます。その子の前に座ってお師匠さんは特技の倒字を書いて手直しをしています。

 真面目に本を読んでいる子も、よく見ると本はそれぞれ違います。「庭訓往来」というのもあれば「商売往来」というのもあります。「諸職往来」というのもありました。

 テキストは子供によって違うようです。ただし「往来」という題が付いた本が多いようです。往来というのは問答形式にやさしく書かれたテキストということのようです。

 女の子も本を読んでいます。本の名前は「女大学」といいます。これはちと難しそうです。女の子といえば、裁縫を習っている子もいます。女お師匠さんが手を取って教えています。

 寺子屋は集団授業ではなくて、個別指導でした。筆子の年齢が違います。読み書きソロバンの進み具合も違います。お師匠さんは個別に対応せざるを得ません。

 子供たちは6、7歳になると入門して来ます。6月6日の入学が縁起がいいとされていましたが、別の日でも一向にかまいませんでした。12、13歳になると、まちまちに卒業して行きます。丁稚小僧の奉公に行くことになるからです。


 寺子屋の風景

沢山ある筆子塚

 当時、西洋からやって来た人たちは、日本の寺子屋教育にびっくりしました。授業が個別対応で親切なのです。それにお師匠さんが子供を叩いたりしません。西洋ではいうことを聞かない子供はびしびし鞭で叩かれるのが通例でした。

 そこで訪日した西洋人たちは「日本の子供教育は素晴らしい」と感心したのです。子供たちも親たちもお師匠さんを敬愛しました。敬愛するお師匠さんが亡くなると、筆子たちが集まって供養の塚を作り、冥福を祈ったものです。

 その筆子塚が今日たくさん残っています。埼玉県の北部だけでも150余りあるのだそうです。師弟関係、また今日でいうPTA、お師匠さんと父兄の関係もうまく行っていたという証拠なのでしょう。

 もちろん、一口に寺子屋といっても千差万別でありました。筆子が百人なんている大寺子屋になると、お師匠さんも複数だったでしょうから、いろいろトラブルがあったに違いありません。

 お師匠さんたちは声をからして静粛にするよう子供たちを叱ったかも知れません。なにしろ、子供たちはいたずら盛りです。寺子屋帰りの子供たちが一斉に風呂にはいったので、習字の墨で湯が汚れたという話もあります。

 でも、お師匠さんたちは体罰は戒めたようです。子供たちはお師匠さんの行状を見て学ぶからです。体罰は加えずに、話して分からせる。これが寺子屋流でした。

 寺子屋の実情はいろいろ記録されていますから、今後さらに研究が進むことでしょう。規模が小さいから可能だったのかも知れませんが、比較的自由で、しかも個別対応の指導ができた寺子屋には今日なお、いろいろと学ぶことが多いように思われます。ひょっとすると、寺子屋流手習いが、幼少児には最も適した教育法かも知れません。




Profile

吉村久夫(よしむら・ひさお)

1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「歴史は挑戦の記録」「鎌倉燃ゆ」など。



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